この詩篇は22節あり、詩篇9篇と10篇と同じように、各節は、ヘブル語のアルファベットで始まっています。こういう歌を「アルファベットの歌」あるいは「アクロスティック」と言いますが、日本式に言えば「いろは歌」ということになります。しかし、この詩篇は、そのような技巧が凝らされていることをまったく感じさせないほど、自然な流れを持っています。最初の7節は「祈り」です。ダビデは、困難の中で神を待ち望み、神の導きを求めています。「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」(4節)と言われている「道」とは、神の真理をあらわします。次の節で「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。」と言われていることから、それが分かります。人生で困難に出会った時は、いたずらに自分の計画を押し進めないで、ここにあるように神を待ち望み、神の導きを祈るのがなによりです。
しかし、神に近づこうとすればするほど、私たちは自分の罪深さに気付かされます。そして、そこで祈るのは、ただただ神の恵み、あわれみです。「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。」(6-7節)
8-15節は、11節を除いては、神への祈りというよりも、祈りの中で教えられたことの告白です。この箇所は、祈りが決して一方通行でないことを表しています。祈りによって神に語りかける者は、祈りを通して、神からの語りかけをも聞くのです。8-10節と12-15節は、ダビデが祈りの中で神から聞き、教えられ、確信を得たことの表明です。そして、ダビデは、この確信に立って、さらに16-21節の祈りに進んでいくのです。そしてこの詩篇は「神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。」との祈りで終わります。ダビデはここで、彼個人のためだけでなく、王として、国民全体のために祈るのです。自らのための祈りがとりなしの祈りへと変えられていく、祈りとは、このように発展し、深められ、進展していくダイナミックなものなのです。