人生の同伴者─詩篇第二三篇

 この詩篇には、神が三つのイメージで語られています。第一は羊飼いとして、第二は旅の同伴者として、第三は食卓のホストとしてです。主が羊飼いであることは最初に「主は私の羊飼い」と言われていることから、誰の目にもあきらかです。人間は羊のように愚かで迷いやすい存在です。人間にとって本当に必要なものが何であるか、それをどのようにしたら手に入れることができるかを知らないのです。また、人間は、自らを守るためと軍備を拡大して、自ら作った大量破壊兵器に脅かされています。それで聖書は人間を羊にたとえて「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)と言うのです。羊に、羊を守り、導く羊飼いが必要なように、人間にも羊飼いである神が必要です。イエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださいました。羊飼が、羊とともに寝起きし、一匹、一匹の羊の声を聞き分けて、それぞれを導くように、キリストは私たちの生活のまん中にいて、私たちひとりびとりを導いてくださるのです。

 「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。…ああたが私とともにおられますから。」という部分は、羊と羊飼いの姿であるとともに、旅人とその同伴者の姿をも描いているようです。キリストは、私たちの生活を導くと共に、私たちの人生の旅路を通して、私たちと共に歩み、人生を導いてくださるお方なのです。

 そして、キリストはその人生の到着点で、祝宴を開いて待っていてくださいます。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。」と言う時の「敵」は、私たちを待ち受けている「死」かもしれません。キリストにある者は死を前にしてもゆるぐことがないのです。天の家に「いつまでも住む」ことを知っているからです。主は私の羊飼いであるゆえに、私は、乏しいことがなく、主が人生の旅の同伴者であるゆえに恐れることなく、主が私を迎えてくださるホストであるゆえに、私の杯はあふれるのです。満たされた生涯は、じつにイエス・キリストにあるのです。