主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」と叫びました。主が十字架の上で語られた七つの言葉のほとんどは聖書からとられたもので、この言葉が詩篇22:1から来ていることは、誰もが認めるところです。主は十字架の上で「わたしはかわく。」とも言われましたが、それは、「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。」(15節)との言葉から来ています。「悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。」(16節)とは、ローマの兵士が主イエスの両手、両足を十字架に釘付けしたことによって成就しています。ローマの兵士は「彼らは互いにわたしの衣服を分け。わたしの着物をくじ引きにする。」(18節)とのことばの通りに、ローマ兵はイエスの着物をくじ引きにしたのでした。「すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と。」(7-8節)との言葉は、主の十字架を取り囲んだ群衆がしたことを、そのまま言い表わしています。主イエスの時代の何百年も前に書かれた詩篇が主イエスの十字架をこんなにも精確に預言しているのは、実に驚くべきことです。
しかし、もっと大きな驚きは、主が「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」と言われたことです。宗教改革者マルティン・ルターは、詩篇を学んでいて、詩篇22:1に来た時、これがイエスの言葉であることに大きな驚きを覚えました。これは、罪に苦しむ者が神に向かって叫ぶ言葉です。その罪を神にさばかれている者の嘆願です。なのになぜ罪のない神の御子イエスが、この言葉を口にしたのか、それがルターの疑問でした。その当時のルターにとっては、キリストは私たちの罪をさばくお方ではあっても、私たちの罪のゆえに、神にさばかれるお方ではなかったのです。ルターは聖書の学者でありながら、福音の中心的なメッセージを見逃していました。しかし、ルターはついに、神の子が私たちの罪を背負って「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」と叫ばれたということを知ったのです。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(コリント第二5:21)ルターを、この福音の真理に導いた詩篇22篇は、あなたをも救い主へと導くのです。