「目の中に入れても痛くない。」とは、ちいさな者への愛情の表現ですが、神は「目の中に入れても痛くない」ほどに、私たちを愛していてくださっていると、聖書は言っています。申命記32:10に「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」とあり、ゼカリヤ2:8に「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。」ともあります。目に何かが入ろうとすると、私たちは、瞬間的にまぶたを閉じて守ります。また、ひとみは、眉毛や睫毛で守られ、涙が絶えず流れて乾燥から守られています。神は、そのように私たちを、たいせつなものとして守ってくださるのです。
神は、また、雛鳥を守る親鳥にもたとえられています。神は、親鳥が雛鳥をその翼にかくまうように、私たちをその翼のもとにかくまってくださるのです。この親鳥と雛鳥のピクチャーも、申命記32:11に次のようにしるされています。「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。」詩篇17:8は、神の守りについて、申命記32:10-11にもとづいて「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」と言っているようです。
箴言7:2に「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」ということばもあります。神が私たちをひとみのように守っていてくださるのなら、私たちも同じように、神のみことばを守って生きる者でありたく思います。