復活の希望─詩篇十六篇

 旧約時代の人々は、死後の世界について、はっきりと知らされていなかったので、復活や永遠の命については、旧約聖書には新約ほど多くのことが語られていません。それで旧約の人々は死後の世界についてあまり希望を持っていなかったと思われていますが、そうとは言えません。確かに、詩篇6:5に「死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。」という言葉がありますが、これは死後の世界に何の希望もないということを言っているのでなく、神の救いを「私の生きている間に見せてください。後ではなく、今この時に見せてください。」という切実な祈りとして受けとめるべきです。旧約時代、神のみこころの啓示は限られていましたが、へブル人への手紙によれば、信仰に生きた人々は、単に地上のことだけを求めたのではなく、天にあるものを求めていたのです。「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(ヘブル11:13)

 詩篇の中にも、死後の世界にまで続く神の恵みを歌ったものが数多くあります。たとえば、詩篇73篇には死後のさばき(73:18-20)や永遠の命(73:34-26)のことが語られています。それらのことなしには、この詩篇が問題にしている「悪しき者がなぜ栄えるのか」という疑問に対する答えはないからです(73:17)。

 詩篇16篇でも「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」(10-11節)と、永遠の命の希望が歌われています。しかも、この詩篇の10節は、使徒行伝2:31に、キリストの復活の預言として引用されています。使徒行伝が言うようにダビデは死にました。しかし、彼に復活の希望を与えた神は真実で、「ダビデの子」であるイエス・キリストを詩篇の言葉どおりに復活させ、私たちに永遠の命を示してくださったのです。ダビデがいだいた復活の希望はキリストの復活によって成就し、私たちの永遠の命もキリストの復活によって保証されているのです。