悪人ほど弁舌が立ち、誠実な人ほど口下手なのは、今も昔も、またどこの国でも変わらないように思います。弁舌が立たなくては人をだますこともできず、他の人を自分の思いのままに操ることもできません。簡単にだまされることは決してほめられたことではありませんが、人にだまされるほうが人をだますよりは、まだましだと思います。「舌先三寸」という言葉がありますが、人をだまして自分の権力を増加えている人々は「舌先三寸」を武器にして、それによって自分の思うがままにものごとを運んでいきます。彼らが「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」(4節)と言うのも、もっともなことです。
しかし、言葉の巧みな悪者がのさばり、寡黙な正しい者たちがしいたげられているのを、主は、いつまでもお許しにはなりません。主は、悩む人、貧しい人の声なき叫びを心に留めて「今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」(5節)と言われます。主が、正しい者を救うと誓われた約束の言葉は決して地には落ちません。なぜなら「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6節)だからです。うそとへつらいが横行しているこの時代、私たちは時として誰の言葉も信じられないような気持になることがありますが、主のおことばは、いつの時代にもかわらず真実で、純粋なものであることを覚えていたいものです。神は、どんな時代にも、神の言葉に頼る者たちを決してお見捨てにならず、うそとへつらいから救い出してくださるのです。
ヨハネの黙示録に描かれているキリストの姿では、キリストの口から「鋭い両刃の剣」が出ていました(黙示1:16)。これは、キリストが語られる真理のことばを表わしています。悪者が「われらはこの舌で勝つことができる。」と誇ってみても、キリストの口から出る「両刃の剣」にはかないません。キリストの口から発せられる神のことばが、うそとへつらいの舌に勝利するのです。このことを信じて、神のことばに頼って歩んでいきましょう。