詩篇10篇には「悪者」たちの言葉がしるされていました。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」(10:6)「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」(10:11)詩篇11篇には、彼らの、正しい者への脅かしの言葉が書かれています。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」と。
詩篇10篇の言葉が、彼らの空しい誇りでしかなかったように、11篇の脅しの言葉も単なる言葉にすぎません。「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」と彼らはいいますが、正しい者は地上の何か、あるいは自分の力を拠り所にしてはいません。もしそうなら、それは壊されたり、脅かされたりすることもあるでしょう。しかし、正しい者の拠り所は「主」ご自身です。私たちは主の聖座、その王座のもとにあるのです。そして主の聖座、その王座は決してゆるぐことがありません。すでに神のもとに身を寄せている者たちにとって、「逃げよ」という脅かしは通じません。私たちはそうした言葉に騙されて、私たちの守るべき場所を明け渡してはなりません。
詩篇10篇の悪者の言葉は、実は、まだそれが彼らの唇にのぼる前の「言葉」、心の中の思いでした。しかし、神の耳には、それらはもう、彼らの言葉として届いていたのです。11篇4-5節に「その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。主は正しい者と悪者を調べる。」とある通りです。心にやましいことがある時、人は、相手の顔を見ながら話すことができません。相手の目から、自分の目をそらせてしまいます。しかし、神を信頼する思いをもって歩んでいる正しい人は、神の目を見つめることができます。「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」というのは、なんと素晴らしいことでしょう。