「神は見ておられる。」「神は忘れない。」というのは、神の前に正しく歩む人には慰めですが、神に逆らい正しい人たちを苦しめている悪者には恐怖となるでしょう。悪者たちは、この詩篇に言われているように、心の中で「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見ないのだ。」(11節)と言うのです。「心の中で言う」(6節、11節)というのは、この人たちも口先では神を敬うようなことを言っているが、心の中は、その言葉とはまったく逆であるということを表現しているようです。
神を信じる者たちも、時々、「なぜ、神は悪を見過ごしておられるのか」と、苛立つことがあります。神には、神のお考えがあり、神の裁きを遅く、手ぬるく感じてしまうことがあります。しかし、神は、この世の悪を見過ごしておられるわけではありません。神はそれを見ておられ、かならず事をなされるのです。「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼ら御手の中に収めるためにじっと見ておられました。」(14節)と聖書は言っています。神の目は節穴ではないのです。私たちは時として、「覚えていろよ。」と言いたくなるような時がありますが、神が悪者たちのしたことをしっかりと見、覚えておられるのですから、私たちは、もはや「覚えていろよ。」と言う必要もないのです
詩篇九篇と十篇は、もともと一つの詩篇だったようです。と言いますのは、これらの詩篇はヘブル語の「いろは歌」になっていて、詩篇九篇はヘブル語のアルファベットの最初の文字「アレフ」で始まり、十篇の最後はヘブル語のアルファベットの最後の文字「タウ」で終っているからです。詩篇九篇と十篇に共通しているのは「神は忘れない」という主題です。神は、貧しい者を決して忘れず、そして、悪者のしたことも決して忘れないのです。神のあわれみと裁き、このふたつのテーマは、詩篇一篇以来、詩篇の全篇を通して、ここにも流れています。