詩篇では、「悪者」と「正しい者」とが比較して描かれています。そして、そこには「悪者」に苦しめられている「正しい者」が神に向かって救いを願い求めている祈りが多くあります。詩篇第五篇もそのような祈りのひとつです。ここでは悪者が、「高ぶる者」「偽りを言う者」「血を流す者」「人をだます者」(5-6節)であると言われています。もっと具体的には、9節で「彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言うのです。」と描かれています。多くの人は口のうまい人に、騙されるまでいかなくても、嫌な思いをさせられたことが多かれ少なかれあると思います。そんな時、この詩篇に共感を覚えたことでしょう。そんな時は、「神よ、どうか彼らにその罪を負わせ、そのはかりごとによって、みずから倒れさせ、その多くのとがのゆえに彼らを追いだしてください。彼らはあなたにそむいたからです。」(10節)と言いたくもなります。
しかし、その前に、私たちは、自分自身も同じ罪を犯してはいないか、同じ悪を行っていないかと反省してみる必要があります。でないと、私たちの神への祈りが、ひとりよがりのものになり、神のきよさや義ではなく、人間の義が先に立ってしまいかねません。そこで、私たちには「主よ、わたしのあだのゆえに、あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください。」(8節)との祈りが必要になってくるのです。9節の「彼らの口には真実がなく、彼らの心には滅びがあり、そののどは開いた墓、その舌はへつらいを言う」という言葉は、私たちがすべて罪人であるということを論じているローマ3:13に引用されています。そしてローマ3章は、人間の義ではなく、神の義が私たちを救うと教えています。信仰者が「正しい者」と呼ばれているのは、私たちが生まれた時から何の罪も犯さなかったという意味ではありません。私たちもまたかっては「悪者」であり、彼らと同じ罪を犯していました。神のあわれみによって悔い改めに導かれ、罪を赦され、救われ、きよめられ「正しい者」とされたのです。すべての者が神の前には罪人であり、ただキリストの救いのゆえに神の前に「正しい者」として立つことができるということを忘れてはなりません。自分の正しさではなく、キリストによって与えられた正しさによってだけ神のもとへと近づき(7節)、神の祝福を得る(12節)ことができるということを覚えていましょう。