詩篇第三篇の表題には、「ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌」とあります。この後の詩篇には、これと同じ表題がついていなくても、ダビデが自分の子どもに裏切られ、王位を追われた時に歌ったのではないかと思えるものが数多くあります。アブサロムのクーデターのことは、サムエル記下13‐19章に詳しく書かれていますので、ダビデがそのことによってどれほど苦しんだかがよくわかります。詩篇に記された、神への激しい嘆願の祈りが、そのような状況の中から生まれたと考えて間違いないと思われます。
しかし、この詩篇は、同じ状況で歌われたと思える他の詩篇とくらべて、とても穏やかな感じがします。それは特に、「わたしはふして眠り、また目をさます。」(5節)という言葉に表わされているように思われます。悩みや心配なことがある時は、よく眠れないというのが普通のことです。ところが、ダビデは四方を敵に囲まれた、あの嵐のような時に「わたしはふして眠り、また目をさます。」と言っています。どうしてそんなことが言えたのでしょうか。それは、彼のまわりにどんなに嵐が吹き荒れていても、「主が(彼)をささえられるから」です。(5節)敵が彼を取り囲んでいるのは事実です。しかし、彼は、主が彼の「盾」となって彼を取り囲んでいることも知っていました。ダビデは、敵に取り囲まれているという「現実」とともに、主がささえ、取り囲んでいてくださるという「現実」にも、しっかりと、目を向けているのです。
ダビデは、現実に目をつむって、それで自分を安心させ、眠っているのではありません。もしそうならそれは偽りの平安に過ぎません。「ニネベに行け。」という神の命令に聞き従わずにタルシシ行きの船に乗った預言者ヨナが、その船が嵐で今も沈みそうだというのに、ひとり眠っていたということがヨナ書に書かれていますが、ヨナの眠りは「平安」の眠りでなく、自分を偽った「安心」の眠りです。「平安」と「安心」は違います。「平安」は神から来るものですが、「安心」は自分で自分を納得させるもので、人からのものです。人間の安心は、しばしば、とんでもない危機に導くこともあるのです。 しかし、ダビデは主のささえ、主の守りのなかで、平安の眠りにつくことができました。「安心の眠り」でなく「平安の眠り」の中に身も心も休めることができる人はさいわいです。