御子に口づけせよ─詩篇第二篇

 詩篇には、キリストに関する預言が数多くあります。第二篇の七節は、使徒行伝13章33節に引用されており、そこで、パウロは、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。」ということばは、神がイエスに言われた言葉であり、これは、その後に続く「わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう。」という言葉が表わしているように、キリストが、復活の後、天にあげられ、全世界の王、すべての造られたものの主として、父なる神の右に着座されたことを、あらかじめ言い表わしたものだというのです。

 へブル人への手紙でも1章5節と5章5節に、この言葉が引用されています。そこでは、イエス・キリストは、ただひとり神の子とよばれるべきお方であり、人間の制度によって立てられたのではなく、神によって立てられた永遠の大祭司であると、論じられています。

 確かに、詩篇第二篇の七節以降は、ダビデが、「自分は神によって立てられた王である」との確信を歌ったものでしょう。しかし、聖霊は、人間の思いを越えて、ダビデの言葉が、「ダビデの子」として後に生まれるイエス・キリストにおいて成就するようにと、それを預言の言葉にされたのです。ダビデはこの詩を、自分の経験や感情、そして信仰にもとづいて作りました。その時には、「これはキリストのことを語っているのだ」とは思わなかったでしょう。旧約時代には、聖霊に導かれて神の言葉を語った人たちも、自分の語ったことが真実に何を意味し、どのように成就するのか、十分には分からなかったのです。しかし、聖霊は、ダビデやその他の神の人、預言者の言葉を通して、キリストのことをあらかじめ示しておられたのです。

 そして、新約時代に、聖霊は使徒たちを通して、詩篇の第二篇が、キリストの預言であることを明らかにされました。したがって、11節と12節で「恐れをもって主に仕え、おののきをもってその足に口づけせよ。」とあるのは、主イエス・キリストについて言われていることになります。古代では、臣下は君主に対して平身低頭して、その足に口づけしたのですが、今日の私たちは、イエスを神の御子として、愛する主として、その足元にひれ伏し、その足に口づけしているでしょうか。ルカ7:37にある女性のように、心からのへりくだりと愛とをもって、主の足もとにひれ伏す礼拝をささげたく思います。