聖書はとても現実的な書物で、人間と社会の現実をリアルに描いています。聖書には、善人も悪人も登場します。「神の人」と呼ばれる人々でさえ美化されてはいません。けれども、聖書は決して現実の描写だけで終始していません。そうなら、聖書は単なる評論の書物となってしまい、現実を変える力を与えるものでなくなってしまいます。聖書は現実を見据えたうえで、その現実に対して立ち向かっていく勇気と信仰とを教えます。詩篇も、他の聖書と同じように、人の心の状態と人間のつくる社会の矛盾を描きながらも、それらを越えて存在される神に信頼を置くように教えています。
詩篇第一篇は、神に頼る者のさいわいを歌ったものですが、そのさいわいを何の苦労もない楽園の楽しみとして描いてはいません。信仰者が生きている現実はもっと厳しいものです。「悪しき者」「罪人」「あざける者」と言われる人々が神に従おうとする者のまわりを取り囲んでいるのです。「人はすべて善人」というのは本当ではありません。善人もいれば悪人もいる、それが現実です。『邪悪な人々』『困った人に困らされない方法』等という書物があり、「どうしたら人をコントロールする人、無遠慮な人、ベタベタする人と付き合わなくてすむか」といったセミナーまであるのは、実際に多くの人が「困った人」に困らされているからでしょう。神を信じてまっすぐに歩もうとしても、彼らに邪魔され、まどわされてしまうのです。まことの信仰者には、彼らのはかりごとに「歩まない」、その道に「立たない」、その座に「座らない」という、きっぱりとした決断が求められています。信じる者の幸いは、そのような信仰の戦いの結果として得られるものなのです。
そして、「悪しき者」は、神の審判の時まで取り除かれることはありませんから、信仰者の戦いも生涯にわたるものです。それで、神に頼る者たちも時には忍耐を失ってしまいがちです。詩篇第一篇は、そんな信仰者たちに、「正しい者」と「悪しき者」の違いをはっきりと教え、彼らを励まします。正しい者は「時が来ると実を結び、その葉もしぼまない」流れのほとりに植えられた木のようになるというのです。しかし、一挙にそうなるわけではありません。実を結ぶには時が必要です。忍耐の時は決して無駄にはならず、「時が来ると」必ず実を結ぶのです。そして、その「時」は、神の手の中にあって誰も奪うことも、変えることもできないのです。(詩篇31:15参照)