日本の創造科学研究会主事、宇佐神実先生のご厚意により、1994年1月にラジオ・パシフックより放送されました対談を、掲載させていただきます。聖書と進化論についてお考えいただく助けになればさいわいです。
宇佐神 はい、私たちは学校で、進化論は科学であり、真実だが、聖書の教えは宗教に過ぎないと教えられてきました。でも、トップレベルの進化論者たちの言っていることを見てみると、様々な疑問点にぶつかります。そこで、進化論は本当の科学と言えるのだろうかという問題提起をしたいと思います。
中尾 聖書は、神様が世界を創造されたと教えていますが、一般には、神様の創造を信じるよりは、進化論を信じる人のほうが多いように思います。進化論では、長い時間の間に偶然が重なって、単純なものから複雑なものへ、レベルの低いものから高度なものへ、無秩序から秩序へ、ものごとは動いていくということのように思えますが、どうでしょうか。
宇佐神 そのとおりです。進化論は、自然の過程によって悠久の時を経て偶然が重なって、現在見られるような高度に秩序だった複雑な状態に進化してきたという仮説です。しかも、進化は地球規模だけで起こったのではなく、全宇宙規模で起こってきたと考えられています。
中尾 しかし、そういう説明は、科学上の発見や法則にあっているのでしょうか。
宇佐神 そうですね、これは熱力学第二法則に真っ向から対立します。熱力学第二法則とは科学界でよく知られ、証明されている物理法則ですが、この熱力学第二法則は、簡単に言うと、すべてのものは崩壊していくということです。これは一方方向の反応です。例えば、部屋を掃除しないで放っておくと、ほこりが積もります。もし私が、ほこりの積もった部屋をそのまま放って置いたらほこりが消えてきれいになったと言っても誰も信じないと思います。自然の過程ではすべては複雑なものから単純なものへ、秩序あるものから無秩序へと向かって行きます。進化論を信じるということは、ほこりの積もった部屋を放って置いたらほこりが無くなったというのを信じるようなものです。
ロジャー=ルウィンは科学雑誌サイエンスの中で次のように述べています。「生物学者たちが直面している問題の一つは、熱力学第二法則と進化論に矛盾があることが明白であることである。時間がたつにつれて秩序は崩壊し、より秩序が少なくなる。無秩序から秩序に向かうことはない。」 [WCS P.13]
中尾 それでは進化論は科学と言えるのでしょうか。
宇佐神 科学の定義の中には、実験が観察可能であり、しかも実験を繰り返すことが可能である。という項目があります。この点から見て、進化論は科学ではないと言えます。なぜなら、進化は実験観察が不可能だからです。又、これまで進化の証拠と言われてきたものがたくさんありましたが、実際には進化の証拠は全く存在しないことが現在分かっています。ですから進化を証明することは不可能です。
中尾 進化論が、証明できないものであれば、それは、科学ではなく、たんなる仮説にすぎないということになりますね。それなのに、どうして、多くの人が進化論を信じているのでしょうか。
宇佐神 進化論を信じたいと思う基礎には、聖書に書かれているような、自分たちよりも優れていて無から全宇宙を創造した神の存在を認めたくないという思いがあります。選択の余地はこの神の存在を認めるか認めないかの二通りしかなく、もし認めなければ宇宙が自然にできあがったという進化論を証拠がなくても信じるしかありません。先生はアイザック=アシモフを御存知でしょうか。彼は有名な2001年宇宙への旅の著者で、あらゆる科学分野の文献に通じ、進化論の世界的リーダーでした。彼は神の存在について次のようにいっています。「感情的に私は無神論者です。神が存在しないことを証明する証拠は何一つありませんが、私は自分の時間をこのことで無駄に費やしたくないので、神は存在しないと強く思い込んでいます。」 [WCS p.19]
アシモフは、神が存在しないことを証明する証拠は一つもありませんでした。しかし彼は神は存在しないと信じる信仰を持っていました。これは彼の宗教と言えると思います。そして、こんにちのほとんどの進化論思想のリーダーたちの信仰でもあります。私が非常に残念に思うのは、現在の科学が証拠のない進化論思想の影響を非常に強く受けているということです。
中尾 なるほど、神の存在を認めたくないという思いが、本当の科学の発展を妨げているのですね。神を信じるということは、なにも、知性を放棄することではないし、科学を断念することではないのですね。偉大な科学者の多くは、神を信じる人達でしたね。
宇佐神 そのとおりです。昔は、大学で神様のことが教えられ、その一環として科学も教えられていました。リンゴが木から落ちるのを見て重力を発見したと言われるニュートンは物理学の発展に非常に貢献しましたが、彼はキリスト教の本もたくさん書いています。又、遺伝の法則を発見したメンデルは教会の牧師でもありました。他にもケプラー、ファラデー、パスツール、マックスウェルなど数多くの有名な科学者たちは聖書を信じるクリスチャンでした。現在多くの人が科学と聖書が相入れないものだという先入観をもって科学と聖書を切りはなそうとすることは本当に残念なことだと思います。ですからまことの神を知ることができず、まことの神を否定する信仰を持つようになるのではないでしょうか。まことの神を否定することによって無神論という宗教を持つようになるか、まことの神によって創造された被造物を神としてあがめるようになるのではないでしょうか。
中尾 私たちは、いままで、自分が作りだした小さな神々しかしりませんでした。そのような神々は、けっして世界を創造する神ではありませんでした。神が世界を創造されたことを信じるということは、世界を創造できるほどの偉大な神を信じるということなのです。この神様とともに人生を送る、この一年を歩んでいくというのは、なんと素晴らしいことでしょうか。宇佐神さん、ありがとうございました。ラジオをお聞きになっているおひとりおひとりに、創造者である神様の祝福を祈ります。
宇佐神 天地創造の記事を読むとき、ほとんどの人がこれは学校で習ってきた天地の始まりと違うことに気付くと思います。学校で学んできたことは、神の存在を否定する進化論を土台とする考え方です。先週の話に出ましたが、誰も神が存在しないことを証明できる人はいないし、進化論も仮説に過ぎません。ですから、私たちは、仮説と真実の区別をする必要があるのではないでしょうか。科学は完成した学問ではなく、真実を追及し続ける学問です。ですから科学と言っても証明されていない仮説と、非常に良く証明された法則の両方があることを頭に入れておく必要があります。
中尾 聖書は、科学の教科書でないのだから、天地創造などのこうした記述は、科学の事実とあっていない、これは、古代の神話、宗教文学のひとつにすぎないという人がいますが、どう思いますか。
宇佐神 確かに聖書は科学の教科書ではありません。しかし科学の教科書ではないからといって書かれていることが科学の事実とあっていないという結論を下すのはちょっと早いのではないでしょうか。例えば、詩篇102篇26節に「すべてのものは衣のようにすり切れます。」と書かれています。これは、前回の話の中で出てきた「すべてのものは秩序から無秩序へと崩壊していく」という熱力学第二法則そのものです。この詩篇は、熱力学第二法則が発見される約3千年も前に書かれたものです。当時の哲学ではすべてのものは変わることがないと考えられていました。当時の人々にしてみれば、この「すべてのものは衣のようにすり切れます。」という言葉は真実ではないように思えたのではないでしょうか。しかし、それから3千年の時を経てこの言葉が真実であることが分かりました。
誰も「神は存在しない」と証明することはできません。もし聖書に書かれている何でもできる全能の神が存在するなら、神が聖書に書かれている様にして全宇宙を作り出したとしても何の不思議もありません。これが古代の神話に過ぎないと言う人は、これが古代の神話であると証明する証拠を何一つ示すことができないでしょう。
中尾 聖書の記述のなかで、みんなが、一番理解しにくいのが、神が六日で世界を造られたということでは、ないかと思うのですが。というのは、進化論では、何億年という時間がかかって、この世界ができ、生命が生まれ、人間がここまで進化してきた、と教えているからです。
宇佐神 そうですね、確かに進化論では、宇宙は約ニ百億年前に誕生し、地球は約五十億年前に誕生したと言っています。しかし、それはあくまでも仮説であって、それを支持する絶対的証拠は一つもありません。進化論者たちは、地層や化石がその証拠であると言いますが、それらは聖書に書かれているノアの洪水が起こった証拠であると解釈することもできます。また、もし進化が真実だとしたら、たった一つの生物が誕生するのにさえ、五十億年とかニ百億年という時間ではあまりにも短すぎます。
中尾 聖書でいう「一日」というのは、進化論が教える、ある一定の期間だと教える人もいます。そういう説は、結局のところ、神が、世界を進化の過程をとおして造られたということになり、神の創造と、進化とをミックスしたものになるかとおもうのですが。
宇佐神 進化論には、「神は存在しない」という大前提があります。ですから、神が進化を用いてこの世を創造したという考えは、進化論から見て全くのナンセンスです。また、聖書による天地創造の順序は、進化の順序とは違います。ですから、そのような考えは聖書とも矛盾しています。
中尾 聖書によると、第一日目に天と地が作られました。そして、第ニ日目に大空の上の水と下の水とを区別されたと書かれてあります。この上の水とは何ですか。
宇佐神 上の水を雲と解釈する人もいますが、聖書をよく読んでみると、これは雲のことではないのが分かります。天地創造の第二日目に神様は、地球をノアの洪水以前の地球の状態に作られたことを頭に入れておく必要があります。大空とは窒素と酸素を中心とする大気のことで、下の水はもちろん地表を覆っていた海のことです。上の水とは、大気の上で地球全体を覆っていた水蒸気の層だと思われます。ですから最初は地球は水蒸気の層につつまれて温室のようになっていたと考えられます。現在、地球に上の水はありません。それは、ノアの洪水ですべて雨となって降ってしまったからです。
中尾 そうすると、創世記六章から始まるノアの洪水の前と後では、地球の環境は全く変わってしまったわけですね。聖書によると、第三日に植物が造られ第四日に太陽が造られたわけですが、太陽がなくても、植物が成育することができたのですか。
宇佐神 はい、大気が第ニ日に造られましたから、植物が生存する条件は整っています。一日くらい太陽の光を浴びなくても酸素呼吸はできますから、植物が枯れたりすることはありません。むしろこの一日を進化論者が言うような長い時代だと考えると、植物は光合成をして養分を作ることができなくなり、枯れてしまいます。
中尾 聖書が、植物、動物が「種類にしたがって」造られたといっているのは、植物や動物が、共通の原型から別れ出てきたのでないということをいっているわけですか。
宇佐神 そのとおりです。神様は最初からそれぞれの動物や植物を完全に機能する状態で創造されました。そして、それらの動植物が全体で一つの生態系を作り出していました。例えば、昆虫は植物の花粉を運び、植物から蜜を得ることによって植物と共存することができます。しかし、もしこれらが短い期間のうちに作られなかったとしたら、生態系はめちゃくちゃになって、動物も植物も生存できなくなってしまいます。
多くの人は、聖書の天地創造の記事は常識的に考えて間違いであるという先入観を持ってしまいますが、それは近年進化論によって押し付けられた間違った先入観です。もしこの天地創造の記事を科学的に考えるなら、不自然なところは何もありません。
中尾 もし、あなたが無人島に流されるとしたら、何を持っていきますかという、質問にほとんどの人は「聖書」と答えています。聖書は、多くの人に慰めを、希望を、力を与えてきました。それは、誤りのない神のことばだからです。聖書が世界の始まりについて教えている時、それは、おとぎばなしでも空想でもありません。聖書の教える創造者である神を信じる時、わたしたちは、聖書の持つ本当の意味を知り、聖書の持つ力を自分のものにすることができるのです。ラジオをお聞きになっているおひとりおひとりに、創造者である神様の祝福を祈ります。
宇佐神 化石がどのようにしてできるかというと、例えば動物が土の中に埋められて、骨の中のミネラルが水によって流されてしまい、普通の骨よりも非常に軽い骨の化石になってしまいます。また、木は埋められて、木の細胞がミネラルと入れ替わってしまい、石化してしまいます。
おもしろい実話がありますが、オーストラリアの鉱山である鉱夫が帽子をなくしました。それから約50年たったある日自分のものだった帽子を見つけました。そして、それが完全に化石化しているのを発見しました。このように条件さえ揃えば、非常に短期間で化石はできてしまいます。
中尾 「化石」は進化論の有力な証拠だと言われています。「博物館にいきますと、動物や植物の形態が変化していく様子が展示されています。まず最初にお伺いしたいのは、これらの化石は本当に進化の証拠と言えるのでしょうか。
宇佐神 進化論の父とも言えるチャールス=ダーウィンを御存知でしょうか。百数十年前、彼は著書「種の起源」の中で、当時発見されていた化石の中に、「ある生物から次の生物へ進化していく中間の生物の化石が全くない」ことを書いています。つまり、彼は、事実と彼の仮説が異なることに気付いていました。進化論者たちは化石がたくさん発掘されれば、そういう中間型の化石も発見されると考えていました。そして中間型の化石が発見されれば進化が証明できると考えました。彼らはかなりの時間を費やして化石の発掘に当ってきましたが、結果は彼らの期待に沿うものではありませんでした。現在何兆個もの化石が発見されていますが、その中に進化論者たちが捜し求めていた中間型の化石は一つも存在しません。シーラカンスや始祖鳥などは一時は中間形だと騒がれましたが、実際には、それぞれ完全な魚であり、完全な鳥である事が解りました。従って、化石は進化の証拠とは言えなくなりました。逆に、すべての生物が完全に機能するものであり、中間型が存在しないと言うことは、神が種類にしたがって、動植物を創造したという聖書の記事を裏付ける証拠と言えると思います。
中尾 進化論ではこれらの化石は、生物の死骸に何千年も何万年もかかって塵が少しづつ積もり、やがて土の中に埋め込まれて化石になったと教えていますがどうでしょうか。
宇佐神 はい、進化論では確かにそのように教えています。しかし常識的に考えてこのような教えには非常に無理があります。例えば、木の葉っぱに塵が積もっていって何年もたてば化石になるでしょうか。
中尾 木の葉っぱは腐ってしまうのではないでしょうか。
宇佐神 そのとおりです。それでは動物の死骸に土が積もっていったとしたらどうでしょうか。この場合、進化論では、何百年もかけて死骸の一番下から一番上へと塵が積もっていきます。
中尾 何百年も骨が地表にあって雨や風にさらされていたら、骨がぼろぼろになってしまいませんか。
宇佐神 そうですね。常識的に考えて、進化論で主張する方法で化石はできません。先生は昔牛乳びんか何かに土砂を入れて水を入れてかき混ぜたことがありますか。それを放置しておくとどうなるでしょう。
中尾 水の中で重いものから先に沈んで砂、土、粘土、などの層に分かれるのではないですか。
宇佐神 そのとおりです。聖書の中にそれと同じことが起こったと記されている場所があります。それはよく御存知のノアの洪水です。現在ほとんどの科学者たちが、洪水が化石の形成に最適の条件を作り出すということに同意しています。洪水はたいてい予告なしにやってきます。ですから多くの動物がそれから逃れられずに埋め込まれてしまいます。そして洪水は生物を埋めるのに十分な土砂も運んできます。
中尾 それでは、私たちが見ているほとんどの化石はノアの洪水の結果できたものですか。それでは高い山の中からも化石が見つかるのはなぜでしょう。
宇佐神 聖書の中からその答えを見てみたいと思います。詩篇104篇6節から9節を読んでみたいと思います。「あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました。」
これはノアの洪水とその後のことが描かれています。ここからノアの洪水前は非常に高い山はなかったと考えられます。しかし、洪水と同時に、大地殻変動が起き、やがて非常に高い山ができ、深い海ができました。そしてそれによって、水が退き、二度と地表全体が水で覆われることがなくなりました。そして、高い山ができたとき、ノアの洪水で地層の中に埋め込まれた生物の死骸は、地層ごと持ち上げられました。私たちがそのような高い山の地層の中から海の生物の化石を発見することができるのはそのためです。
中尾 聖書によると多くの化石や地層ができたのはノアの洪水によるのですね。そうすると、進化論では、下の地層ほど古いものだというふうに教えますが、化石や地層の年代はどのようにして決定されるのですか。
宇佐神 聖書によるとノアの洪水によってほぼ同時に地層も化石もできたということが分かります。現在の生物について考えてみると、それぞれの動植物は種類によってそれぞれ違う高さのところに住んでいます。この住み分けが現在だけでなく、ノアの洪水前にも当然存在したと考えられます。洪水によってそのまま埋められれば、下のほうに住んでいた生物は、下の地層から、上のほうに住んでいた生物は上の地層から発見されます。一方進化論では、これらが同時代の生物ではなく、違う時代の生物が長い年月を経て積み重ねられていったと考えます。進化論ではどのようにして年代を決定したかというと、しばらく前までの地質学の教科書では、「地層に含まれる化石によって、地層の年代を決定する」と書かれていました。一方生物の教科書では、「化石の年代はその化石の含まれる地層の年代によって決定する」と書かれていました。これを循環論法又は堂々めぐりの論法と言います。現在では、放射性同位元素によって年代測定をする方法がありますが、これも絶対的なものではなく、すでに進化論者たちが推測した年代に測定結果を当てはめようとします。ですから、進化論者がそうあって欲しいと願う年代を決められます。しかも、地層の中の化石は必ずしも進化論者が願う順序に埋まっているわけではありません。ハーバード大学の地質学者スティーブン=グールドは次のようにいっています。「私は化石記録の中に生物の歴史の明白な方向性を見いだすことに失敗したことを認めざるを得ない。私たちは化石が私たちの願う順序で発見されることを望んだが、実際には化石はそのような順序になっていない。」
中尾 すると、化石は地質年代を表していないと言うことですね。今日は化石について様々なことを学んできましたが、進化論者たちは、化石についてどのように考えているのでしょうか。
宇佐神 オーストラリアの進化論者マイケル=デントンは、その著書「反進化論」の中で次のように述べています。「化石は、進化論に必要不可欠な中間形の存在を示すことに失敗したばかりか、すべての絶滅した生物種が完全に発達していたということを明らかにしてしまった。」このことは、神様が最初からすべての生物を種類にしたがって、完全なものを創造されたということの証拠と言えるのではないでしょうか。
中尾 化石ということで、いつも興味があるのは、恐竜のことです。あんなに大きな動物が本当にいたのですか。それは、いつごろのことでしょうか。
宇佐神 聖書によると、海の恐竜は、天地創造の第5日に海の生き物として作られ、陸の恐竜は第6日に作られました。実は聖書の中に恐竜が出てきます。ヨブ記40章15節から41章10節にかけてですが、ここでは、口語約聖書ではカバとワニ、新改訳聖書では、カバとレビヤタンという名で出てきます。なぜこれが恐竜であったかというと、40章17節に、かばのしっぽは杉の木のように垂れている。と書かれています。御存知のようにかばの尻尾は細くて、杉の木の太さとは比較になりません。また、この箇所に描写されているカバの力強さは、私たちの知っているカバではないことが分かります。原語ではこの動物をベヒモスと呼んでいて、これはかばのことではなく、陸上に住んでいた恐竜のことです。また、41章1節からレビヤタンについて書いてあります。これは海の恐竜です。このヨブ記の時代は創世紀のノアの洪水の後ですから、その時代にはまだ恐竜が住んでいたのは明らかです。また、メキシコのある遺跡からは、様々な恐竜の精巧な土偶が出土しています。もし恐竜を実際に見ることが出来なければ、これらの精巧な恐竜の土偶を作ることは出来なかったのでしょうか。
中尾 進化論では、人間が生まれるはるか以前に絶滅したと言っていますが、恐竜は人間と共にいたのですね。いままで、いろいろ検討してきましたが、自然界は、進化論の証拠で満ちているというのは、本当ではないのですね。聖書に「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1) 「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:20)とあります。色眼鏡なしで、自然界を見、そこに、神の知恵、力を見ることができたら、さいわいですね。この番組をお聞きくださったおひりびとりに、神の祝福を祈ってお別れします。また、来週。
宇佐神 全世界に二百以上の洪水伝説があります。それを分析すると、洪水の原因は人の罪が世界に満ちたための裁きであったこと、洪水が全世界規模のものであったこと、生存者は動物と共に船によって生き残ったことなど、多くの伝説がノアの洪水の記事と非常に似ています。
中尾 聖書は創造の記事のあと、人間の堕落について語っています。堕落した人々が世界に広がっていった時、神は、その世界を新しくするために洪水をおこされました。これが、ノアの洪水として知られているものです。ノアの洪水が事実であるという証拠としてどのようなものがありますか。
宇佐神 はい、一つの大きな証拠は、先週も触れましたが、化石です。進化論者たちはある生物から次の生物への中間型の化石があると考え発掘し続けてきましたが一つも発見されませんでした。化石となってでてくる生物のあるものはすでに絶滅していますが、化石として発見されるすべての生物は完全な機能を持っていました。これは神が天地創造のときに種類にしたがって、それぞれの生物を造られたからであって、進化論で言うように一つの生物から進化してきたのではないと言うことの証拠です。もう一つの証拠は、地球の約10分の1が土砂が堆積してできた堆積岩ですが、 地球表面の約3/4がこの堆積岩でおおわれており、残りの約1/4は火山の噴火によってできた火山岩におおわれています。しかも高い山からも水中生物の化石が発見されます。このことは、一度地表が水でおおわれたこと、すなわち、ノアの洪水があったことを支持しています。
中尾 進化論では、ノアの洪水は無視されていますが、自然界の様々なことは、ノアの洪水によって一番良く説明できるのではないのですか。
宇佐神 その通りです。例えば、グランドキャニオンですが、昔はコロラド川が何千年もかけて地面を削りとってあの大峡谷を作ったと考えられていました。しかし、現在では、多くの地質学者が激変説という立場をとっています。激変説とは、これまでのように地層が長い年月をかけて出来たのではなく、大洪水などの地質学的大激変によって形成され、グランドキャニオンも大激変によって切り取られたというものです。1982年にワシントン州のセントセント・ヘレンズ山が噴火しましたが、その後にグランドキャニオンの40分の1の大きさのミニ・グランドキャニオンができました。どのようにしてできたかというと、火山の噴火で何十メートルも土砂や火山灰が積もり地層を作りました。そこへ火山噴火の土砂でせき止められていた湖の水が、せきを切って怒とうの様に流れました。それによって地面がえぐり取られ、切り取られてミニ・グランドキャニオンができました。そして、しばらくして地下水が集まって、タートル川という川がその底を流れるようになりました。それと同じ様にノアの洪水の後堆積した地面を、ものすごい土石流が流れて地面をえぐり取り、その後に地下水が集まって、コロラド川が流れたと考える方が自然です。人工衛星の写真によると、昔グランドキャニオンの上に巨大な湖があった跡が写っています。
中尾 箱舟に、いろんな動物が乗り、それらが洪水のあとにひろがったわけですが、すべての動物がそこにいたわけではないのではありませんか。
宇佐神 創世記20章6節を見てみると、箱舟に乗ったのは、水中で生活できない陸上の動物と、空を飛ぶ鳥であったことが書かれています。これらの動物は約2万1千百種類と推定されます。動物はつがいで乗ったわけですから、多く見積もっても乗船したのは5万匹ぐらいだと考えられます。ノアの箱舟は3階建てでしたから、計算してみると箱舟の中で動物の占める割合は、36.5%ぐらいです。ですから、船の中には十分過ぎるくらいの余裕がありました。
中尾 ノアの子供たちから、全人類が広がったわけですが、全部の人種が彼らからでたのですか。
宇佐神 そうです。ノアは原則として全ての人種の遺伝子を持っていたと考えられます。メンデルの遺伝の法則を思い出していただきたいのですが、例えば黒人と白人との間には黒人と白人の中間色を持つ子供が生まれてきます。しかし、中間色の子供の子供は、白人に近い色から、黒人に近い色まで様々に分かれます。ですから、ノアからすべての人種が分かれたと考えることは、非常に科学的でもあります。事実、聖書を見てみると、ノアの子ハムの子孫のクシュ人は、エチオピア人ですから黒人です。このようにノアの子孫から様々な人種が出てきました。しかし、進化論で言うように、白人や黒人など様々な人種は、異なるところでそれぞれ進化してきたと考えると、このような人種間で子供が生まれること自体、非常に考えにくいことと言えます。
中尾 ところで、「氷河期」というのは、どこに位置づけられますか。
宇佐神 ノアの洪水の後と考えられます。進化論者では、氷河期は非常に寒い気候が何万年にもわたって続いたと考えています。しかし、実際問題として、もし氷河期が非常に寒かったら、空気中に湿気を含むことができず、たくさんの雪が降って氷河を発達させること自体不可能です。一方洪水後の地球は氷河期が発達するのに最適な条件を整えていました。海水は暖かく、地表は急激に冷やされます。海の方から来る湿気を多く含んだ空気は山間部で冷やされ、雪となって降り、それが積もって氷河が発達しました。地球の中緯度地方まで氷河に覆われていた跡が残されています。
洪水前は温室状態になっていて、洪水後現在の地球のようになったと言いましたが、シベリアで発見された氷づけにされたマンモスの胃の中からキンポウゲがまだ消化されない状態で発見されました。キンポウゲは温帯植物ですから、マンモスがいた所は温帯だったと考えられます。このことは洪水前の地球が温暖であったことを物語っています。
中尾 洪水の結果氷河期が起こったわけですね。人間の罪が神の創造した完全な自然の破壊をもたらしたということが良くわかります。自然界が、神の作品なら、どうして、そこに弱肉強食といったことがあるのかということを良くききますが、これは、人間が、自分を造ってくださった神から離れて罪の中に生きている結果なのです。人間と神との間に大きな断絶ができた時、人間と自然の間にも大きな淵ができたのです。今、環境保護ということが叫ばれていますが、そのためには、まず、私たち自身が自然を造られた神に立ち返り、神との調和を持つことによって、人間同志の調和を持ち、人間と自然との調和をもつことができるのではないでしょうか。
神は、人間に「地を治めよ」と命じられましたが、人間はそれに答えることができませんでした。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:22)。しかし、神は、この世界をもう一度完全なものに回復してくださいます。そのはじめに、まず、人間を霊的に回復させていてくださるのです。神の宇宙規模の救いの計画のなかに、あなたも、キリストを信じる信仰によって参加してくださいますよう、祈ります。
宇佐神 そのとおりだと思います。聖書のローマ人への手紙5章12節にその答えが書かれています。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」
ここに書かれているひとりの人とは、神様が最初に創造された人、アダムのことです。ここではっきりとアダムによって罪がこの世に入り、死が入ったことが述べられています。同じローマ書5章17節に次のように書かれています。「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」
もし進化論が正しくて、死がアダムの罪以前からあったなら、また、私たち人間の先祖がひとりの人アダムでなく、あちらこちらで出現した人の集団であったなら、聖書に書かれていることは間違いで、キリストの死は意味をなさなくなります。そういうわけで、聖書を信じるか進化論を信じるかは信仰の基礎に深く関わってきます。
中尾 そうですね、人類の一体性ということがなければ、キリストが全人類のために死んでくださったということはできないのですね。私たちの信仰において、キリストの復活は、重要なことなのですが、もし、進化論が事実だったら、キリストの復活は、どういうことになるのでしょうか。
宇佐神 進化論が事実だとしたら、キリストの復活はなかったことになります。コリント人への手紙第一15章14節でパウロは次のようにいっています。「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
また、もし進化論が事実なら、たとえキリストが復活したとしても救いはありません。進化論では、人類の先祖であるアダムという一人の人は存在しないので、コリント人への手紙第一15章21節22節の記述に反します。「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」
たとえキリストが復活しても、もし進化が事実なら、私たちはキリストの復活に望みを置くことができません。しかし、聖書に書かれているように、アダムが神に創造された最初の人ならば私たちはキリストの復活に望みを置くことができます。
中尾 聖書に、復活がなければ、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」(1.コリント15:33 )ということになり、復活が事実なら、「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(同15:58 )ということになります。どちらがすぐれた生きかたか、一目瞭然ですね。クリスチャンの中にはキリストの復活も信じるけれども進化論も信じるという人がいますが、こういう考え方についてはどう思いますか。
宇佐神 はい。残念ながらそういう人が大勢いるのも事実です。これは、科学と聖書が切り離されてしまった弊害ではないかと思います。もし両方信じようとするならどこかで自分をごまかさなければならないのではないでしょうか。十九世紀のおわりごろから進化論の台頭によって、多くの神学者たちは聖書が事実と違うのではないかと不安をいだき始めました。そして、何とか聖書の創造の記事と進化論が両立できるような説を考えようとしました。今日は時間がありませんので詳しくは説明できませんが、その中には、有神進化論、漸進創造論、一日一時代説、間隙説、神話説、見かけの時代説などがあります。しかし、どの説をとってもアダムが罪を犯す前から死がこの世に存在したことになります。もしアダムの罪が死と関係ないなら、キリストによって死から救われることはありません。ですから聖書に書かれていることと進化論をミックスしようとする考えは、どれも福音からはずれてしまいます。
中尾 どうやら聖書と科学が切り離されてしまったことに問題があるようですね。このことに関してどう考えますか。
宇佐神 そうですね。牧師を含む神学者は聖書の専門家ですから、聖書がどのような事実を語っているか調べるべきです。また、科学者は証明された法則と証明されていない単なる仮説とを見分ける努力をすべきです。そして、神学者や牧師とクリスチャンの科学者は、お互いに協力しあって、この世の教えである「だましごとの哲学」にごまかされないよう気を付ける必要があるのではないかと思います。
現在、世界中に、クリスチャンの科学者と神学者が協力して聖書の記事を科学的に研究している機関がいくつもあります。日本でも、創造科学研究会という研究機関があり、多くの牧師やクリスチャンの科学者が会員となっていて、研究の成果などが毎月発行されています。私自身も、牧師と科学者のパイプ役として役にたてればと思っています。そして、それが神様の栄光を顕すことにつながると信じています。
中尾 私は、子供のころから、科学的なことが好きで、当時は、トランジスタがやっと出た頃で、トランジスタ・ラジオなどを組み立てたりするのが趣味でした。「ガモフの物理学」といって、自然科学の法則を解りやすく書いたものを、わくわくしながら読んでいたのを思い出します。高校生の時、聖書に触れましたが、最初に手にしたキリスト教入門書に、私たちが母の胎内でどんなにすばらしく造られたか、これは神のわざ以外の何物でもないと、書かれていました。聖書を学び、私は「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」(詩篇139:13)ということばに出会いました。もし、私が進化の結果ここにいるなら、偶然の産物にすぎないなら、私の人生には、たいした意味も目的もないわけです。私は、自分が神に造られているということに、自分の人生の意味を見いだすことができました。
創造者である神を信じることによって、私たちは、何者もおそれない、力づよい人生を歩むことができます。「高いものも深いものも、その他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:39)。
私たちの対談を最後までお聞きくださって感謝します。現代社会のいろいろなことがらを見聞きするにつれ、人間は進化しているというよりは、動物に成り下がっているような気がします。私たちを創造してくださった神は、私たちをもう一度新しく造りかえてくださることのおできになるお方です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2.コリント5:17)創造者である神があなたの人生を導いてくださいますよう、祈ってやみません。