リック・ワレンがそのベストセラー "Purpose Driven Life" の中で言っている「人生の五つの目的」とは、「神を礼拝すること」「神の家族になること」「キリストのようになること」「神に仕えること」「神の愛を伝えること」です。この五つの目的の三番目「キリストのようになる」というのは、現代ではあまり人気のあることではありません。けれども、「キリストのようになりたい」というのは、かつては、多くの人が追い求めていたことでした。中世には、修道士たちが、キリストが父なる神に対して、十字架の死にいたるまで従順であったように、神と、神が立てられた権威に徹底して従うことによってキリストのようになろうとしました。彼らは、この世の財産を持たないで、神にだけ頼って生きることを「キリストのようになる」ことだと考えました。さらに、生涯独身を貫き通すことによって「キリストのようになる」ことができると信じました。聖フランチェスコは「従順」、「清貧」(しひん)、「貞潔」の三つを守ることを教え、自らも徹底してそのように生きた人でした。彼は、あまりにもキリストに近く生き、キリストに似たものとなったので、その手のひらにキリストが十字架で受けたのと同じ釘跡が現れてきたと言われているほどです。
このようなキリストに似たものとなろうとする情熱は素晴らしいものですが、キリストのようになるためには、みんなが修道士、修道女にならなければならないのでしょうか。もし、そうだとしたら、ほんの一握りの人しか「キリストのようになる」という人生の目的を満たすことができなくなります。たとえ、修道士、修道女にならなくても私たちはキリストのようになることができるはずですし、そうでなければならないと思います。「キリストのようになる」ことは、たんに戒律や形式を守ること以上のもの、その人の人生が変わり、生活が変わり、心が変わっていくことであり、それは、日常の生活の中でこそ体験されなければならないものだからです。
では「人生が変わる」「生活が変わる」という場合、その変化はどこから来るのでしょうか。それは「いのち」の変化からです。「いのち」も「生活」も、そして「人生」も英語では同じことば "life" ですね。「人生」は日々の「生活」の積み重ねであり、日々の生活は、私たちに与えられた「いのち」の現れです。「人生」は「生活」から、「生活」は「いのち」から始まります。聖書は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙第二5章17節)と言っています。「キリストのようになる」ことは夢や幻想でも、また難行苦行でもありません。キリストを心に、生活に、人生に迎え入れる時、キリストがあなたの心の内に、生活の中に、そして人生の中にいてくださって、あなたを変えてくださるのです。キリストが私たちのうちにおられるのに、私たちが「キリストのようになる」ことができないわけはありません。この変化をあなたも体験なさるよう、心から願っています。