私は何のために生きているのか | |||||||
1日目 | 2日目 | 3日目 | 4日目 | 5日目 | 6日目 | 7日目 | |
第一の目的 あなたは神の喜びのために造られた | 8日目 | 9日目 | 10日目 | 11日目 | 12日目 | 13日目 | 14日目 |
第二の目的 あなたは神の家族となるために造られた | 15日目 | 16日目 | 17日目 | 18日目 | 19日目 | 20日目 | 21日目 |
第三の目的 あなたはキリストのようになるために造られた | 22日目 | 23日目 | 24日目 | 25日目 | 26日目 | 27日目 | 28日目 |
第四の目的 あなたは神に仕えるために造られた | 29日目 | 30日目 | 31日目 | 32日目 | 33日目 | 34日目 | 35日目 |
第五の目的 あなたは使命のために造られた | 36日目 | 37日目 | 38日目 | 39日目 | 40日目 | ||
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ一・十六)
「人生は私が中心ではない。」40日の最初の日、何とインパクトのある言葉でしょうか。「万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。」とパウロはコロサイ人の手紙を通して私たちに語りかけています。
私は大学へ入る頃、私という存在を知っていてくださる神様が必要だと、不安のうちにいつも求め続けていました。そのような中で神様は、私にご自身の存在を聖書を通して示してくださいました。神様の支えを知り、喜んだ私は、次に神様の力を用いて自己実現を願いました。幾つかの試練を通って後、神様は「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」というみことばをもって私が神の子どもであるという確信を与えてくださいました。
「私が中心ではない」という言葉は、自分がイエス様を信じるに至った原点を振り返り、私が神の子どもとされた救いの体験に戻らざるを得ません。救いに至るまで、また救いに至った後も、自我の「から」が幾重にもなっていることに気がつきます。神様はそれをご存知で、私たちの信仰の成長に応じてそれを一層、一層、砕いてくださいます。そのたびに、私は神の子どもである、愛されている存在であると確認し、神様を見上げる時、本当の礼拝に近づくように思います。私が中心ではなく、すべて御子のために造られたという事実は、私たちを神様の子どもとしてくださるご計画のうちに建てられることを忘れてはならないのです。(田中洋一郎)
あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」(イザヤ四四・二)
「私は、何のために生きるのか? 私の存在の価値とは? そもそも、私は、何者なのか?」十代半ば、ノートの片隅にはこのような疑問が並べられていました。答えの見えないこれらの問いは、若者特有のセンチメンタルなものでは終わらず、その後も長く心の中に住み着き、私を悩ませ続けました。存在の意味が、人生の目的が見出せない私は、外見こそ繕っていましたが、心の中はいつも空っぽで、何をやっても満たされない虚しい毎日を送っていました。
そんなある日、恵み深い主は、救いの手と、はっきりとした答えをくださいました。神の存在を知った時、人生のすべては意味あるものとなりました。私はただ偶然に存在しているのではなかったのです。神が形造ってくださり、備えてくださり、育てて下さっていたのです。それは、御言葉の通り、生まれる前から…。主は、なんと哀れみ深く、愛に満ちたお方なのでしょう。
「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主」壮大で計り知れない主の大きな愛を思うとき、ここに全てがあると確信しつつ歩む恵みに感謝します。(江口淳子)
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ二六・三)
私は、スポーツの中で水泳が唯一得意で、泳ぐことも好きですが、それ以上に水につかっていることが大好きです。三五年間、時にがむしゃらに泳ぎ、時に波間に漂いながら、取りあえず溺れずに人生をおくりました。でも、出産後、子供を背負って大海を泳いでいくことに強い不安と疲れを感じました。深い海の底に引き込まれそうになったその瞬間、イエスさまが私の手を握り、ご自分の小船に引きずりあげてくださいました。助かったという安堵感もつかの間、臆病者の私は、小波が立つごとにおびえ、そうかと思うと遠くに見える豪華客船に目をうばわれたり…。
でも、そんな私をのせて、イエス様は、ひとり、ゆっくりと櫂を漕いでくださいました。今ようやく、イエス様が御顔を向けているその方向に私も目をむけ、イエス様が握るその櫂を私も握りしめています。不安がないわけではありません。サメが来たら、嵐が来たら…。心配はつきません。でも、一度引き上げてくださった方が、再び大海へ私たちを放り投げますか? 大海へ落ちた私達を放っておきますか? 私の志などちっぽけなものです。でも、神様の志とまなざしは私たちにまっすぐに向けられ、途絶えることはありません。だからこそ、私たちは深い安らぎを覚えることができるのです。(井上陽子)
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。(第一ヨハネ二・十七)
「この地上の人生だけがすべてではありません。この地上における人生は、本番前のリハーサルのようなものです。」この言葉は、日々いろいろな思い煩いで苦しむ私たちに大きな励ましを与えてくれます。「本番前のリハーサル」は、厳しければ厳しいほど意味があるものだからです。本番のステージでプレッシャーにつぶされることなく、納得のいく結果を得るためには、リハーサルでより厳しい条件に自分の身を置き、何度もリハーサルを繰り返すことが大切です。そして、自分の問題点をよくチェックし、ときには他人からアドヴァイスをもらい、よりよいものになるようにさらに練習をします。その作業は根気と努力を要し、途中で投げ出すことはできません。しかし、丹念にリハーサルを重ねれば重ねるほど、本番はよりよいものとなります。
この世で、試練を多く与えられれば与えられるほど、神様が約束してくださった素晴らしい永遠の次の人生が待っているのであれば、試練を与えられるということは、なんと大きな祝福でしょうか。私も神様の愛情溢れるこの恵みに日々感謝しつつ、常に神様のアドヴァイスに耳を傾けながら歩ませていただけるものとしていただきたいです。(水野広子)
小さいことに忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さいことに不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。(ルカ十六・十)
宮本武蔵の五輪書の中に「観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること兵法」。すなわち剣術において、相手の剣の本質、心を見極め、相手の剣先にとらわれずということらしい。聖書を手にする前は毎日の目先のことに追われる刹那的な人生で、この世の成功が人生の成功と考え、人生の成功は自分の力によって、どうにでもなると思っていました。ところが自分の力で生きていると、今のこと、明日のことばかり気になり、それを成功させないとその次が無いような気がしてなりませんでした。
聖書は実にみごとに、このような私のことを言い当て、そしてどうすれば良いかを語ってくれていました。「神のみこころは何か、すなわち、なにが良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ一二・二)宮本武蔵をはじめ、多くの先人が彼らの人生を通して、目先のことにとらわれずに物事の本質を見て人生を歩めと語っています。
しかし、人の考えが神のメッセージに近づいたとしてもそれによって解決されるものではないと思います。私たちが本当にしなくてはならない本質をしていくには自分自身の無力さを知ることが重要で、さらに祈りの中から神の御心を知り、聖霊様に助けていただきながら実行していくことが大切だと思います。(永田寿幸)
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント四・十八)
私の父はALSという病気と闘っています。病状は悪化し体はほとんど動かなくなり呼吸器なしには生きていけない状態となってしまいました。父はこれから先も食べ物を味わうことも、歩くことも、自力で空気を吸うこともできません。人の介護なしには生きていくことはできないのです。
私はもう父の肉声を聞くことは出来ないかもしれませんが、2ヶ月前からかすかに動く左手でコンピューターを操作しメールで会話が出来るようになりました。そして、先日その父からメールが届いたのです。そこに「病気にならなければ子供たちと気持ちを打ち明けあう機会に恵まれなかったかもしれない。友人たちも、お父さんの生き方を見て生きることの大切さを確認してくれています。君のおかげで聖書と福音をより学ぶことが出来た。病気にならなければ出来なかった生き方をしたい。感謝!」と書いてありました。病気を通して父は、キリスト者としての証を、見えないものに目を留め、精一杯生きる姿によって語っているのです。
私たちが見えないものに目を留めるためには信仰が必要です。イエス様を救い主として受け入れることによって見えないもののために目を留めることが唯一の道だということが理解できるのです。(鍵田将仁)
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ十一・三六)
じつに荘厳なドクソロジーです!『人生の5つの目的』では「神の栄光とは何でしょう。」と問い、次のように述べています。「それは、神が神自身であられること、神の本質であり、そのかけがえのなさであり、その壮麗な輝きであり、その力の現われであり、その存在が放つ威厳です。神の栄光とは、神の素晴らしさの表現であり、神のみが持っておられる永遠のご性質の表現です。」
どこに神の栄光が見られるかという事については、すべての創造物が創造の栄光を現わしていると定義しています。「天は神の栄光を現わす。」(詩十九・一)「御子(キリスト)は神の栄光の輝きである。」(へブル一・三)使徒パウロが言う「栄光」(ローマ十一・三六)の背景には、イスラエルの救い、異邦人の救いに対して神に栄光を帰している姿がうかがわれます。
私たちの「栄光」理解に到る道が「人生の5つの目的」であり、それは、神を礼拝すること、他のクリスチャンに愛を示すこと、キリストに似た者になること、与えられた賜物を用いて人に仕えること、他の人に神のことばを伝えることなのです。「あなたがたの全肢体を神様の栄光を現わす道具として献げなさい。」(ローマ六・十三)(東フランク)
主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇一四九・四)
このおことばが私の黙想として与えられた時、身が震えるほどの感動が走りました。救いをもって私を飾っていて下さるのです。救いをもって…。私のように小さくて、弱くて、汚れている者を、神はそのひとり子を十字架にかけて、私をあがない救ってくださったのです。私はこの身に何の飾りも、デザイナーの洋服を着なくても、主が、この私を飾っていてくださるのです。
その愛とご計画に、どのように答えていくべきか、新たな思いが与えられました。
マタイ六・三〇のみことばも連想しました。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の花さえ神はこれほど装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(ソーラ泰子)
主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(詩篇一四七・十一)
「神を微笑ませる」「神を喜ばせる」という表現に出会った時、耳慣れないからでしょうか、違和感がありました。いつも、「神様が喜ばれる…」「神様に喜ばれる…」などという表現に接していたため、私には「神を喜ばせる」という思いが、弱かったのだと思います。そのことに気づかされ、目が開かれる思いでした。「神様を喜ばせる」とは、どういうことなのだろう、どのようにできるのだろうかと思いました。けれども、「神を微笑ませる」、「神を喜ばせる」というのは、何か特別な、目新しいことをするのではなくて、神様との、より親密な関係、より積極的な関わりだけが求められることを知りました。神様を愛し、神様に愛されることが、神様の喜びであり、私自身の喜びであることを改めて心に刻みました。
神様の深い愛に応えるよう、主イエスの言われる、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛」(マタイ二二・三七)する者となりたいと思います。神様が、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ三・一七)と言われた、主イエスの姿を見上げることができることに感謝します。そして、悲しいこと、悔しいこと、悔いることも含めて、すべてのことを最善へと導いてくださった主に信頼し、聖霊の助けと導きのうちに歩む、主を愛するしもべでありたいと思います。(佐藤真千子)
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ローマ六・十三)
「礼拝を受ける」と言う人もあれば、「礼拝をささげる」と言う人もいます。どちらが正しいのでしょうか。私はどちらも正しいと思います。私たちは礼拝で神のことばをいただきます。祝福を受けます。聖餐では、パンとブドウ酒をいただきます。そこで、恵みを受け、力を受けるのです。しかし、同時に私たちは賛美をささげます。祈りをささげます。献金をささげます。そして、私たちの心ばかりか、からだを神にささげます。礼拝は、神の恵みを受け、それに応えて自分をささげていく、両方向の行為だと思います。
私が「あなたがた自身とその手足を義の器としてささげなさい。」というみことばを強く意識するのは、聖餐の時です。聖餐で私はキリストの十字架を見ます。バプテスマのヨハネが、キリストを指さして「見よ。神の子羊。」と言ったように、私の罪のためにささげられた犠牲を見ます。「これはわたしのからだである。」とのキリストのことばとともに、パンをいただく時、私も「その手足を義の器としてささげなさい。」というおことばにおのずと応答していくのを見ます。私の不完全な献身も、キリストの完全な犠牲によって、神に受け入れられるのを見るのです。
礼拝は、ただ受けるだけでも、ささげるだけでもないと思います。神の恵みに飢え渇き、切実な求めをもって神のもとに来る、そしてキリストを受け、キリストに自分をささげる、それが礼拝だと思います。(中尾邦三)
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(詩篇二五・十四)
この課題を与えられてから私は毎日、毎晩のように心の中でこの言葉を繰り返し思い巡らせていました。その中で一番感じたことは神の存在そのものでした。全世界をお造りになった神が、私たちの人生をもその細部に至るまで把握し、導いておられるというのです。私にとってこの『人生を導く5つの目的』は神との交わりについてより深く考えさせられる一冊ともなりました。
神を知るようになると、神の愛がどれだけ私たちを救ってくれたかが見えてきます。何度これらを思い巡らし、涙したことでしょう。そんな偉大で完全なお方と友だちになれるというから、私も驚きでした。「神を知り、神を愛する事は、私たちの最大の特権です。」この特権を生かすべく日々の鍛錬を欠かさないことが最も大切だと言うこと、ただ神さまにより頼むだけではいけないということも学びました。
友だちに自分のことを知ってもらうためには、相手をじっくりと観察していく必要があると思います。そのように神様のことを毎日思い巡らし、聖書を読んで、そして神様の事を理解していくことで、より深い信頼関係を築いていけると思います。神さまとの親友関係を築けたなら心配はないのです。すべての事は神さまが教え、導いてくださるからです。私は日々の生活の中で細部にわたって心を配ってくださる神様と一番の友だちになりたいと励んでいます。(鶴田まり奈)
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ四・八)
神のくださった数多くの恵みの中で、すばらしいことは、私たちを「神の子」としてくださり、そのままの私たちを「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ四三・四)と言ってくださっていることです。私たちは父である神さまの大きな愛の中で、安心して自分の正直な気持ちを打ち明けることができます。神さまが私たちの友であり親密な関係をむすびたいと願っておられることはなんて幸いなことでしょう。そのまま愛されているという平安の中で、自分の思いをつつまず述べることができるのです。人間の関係では、人間が受け入れられる限界があります。ですからどんな親しい友でも、相手を思いやって話すことのできる限度があるけれど、神さまに対しては「そのまま」でいいいということが、私にはとてもありがたいことです。
そしてもう一つ、神は私たちの最善を考えておられるということを信じることができれば、直面している問題に悩んでいてその苦しみをぶちまけていても、そして理解できない辛い思いでいても、素直に打ち明けることで癒しがあり、そして神に従うしかないと思うに至ります。神の言葉に従うことが選択なのだと思います。「だだし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」(ヤコブ一・六)
友だちは人生の宝です。友だちの中で最高の友は神です。神と共に喜び、共に悲しみ、共に生きていくために、神の大切にしておられるものを求め、常に対話しながら生きていけたら、人生は美しく豊かなものになっていくでしょう。私はこれからも、心に囲いを作らずに、ありのままの自分で神との友情を育てていきたいと思います。(横山由美子)
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ十二・三十)
私たちのすべてを尽くして神を愛することが神に喜ばれる礼拝につながっています。私たちの毎週の礼拝に対する心の態度が問われています。神は礼拝にパーフェクトな心の状態で来なさい、といっているのではなく、神を第一にして、謙遜にまた喜びをもって礼拝にのぞんでいるかが求められているのではないでしょうか。
これは、神への祈りの態度にもつながっています。私は祈りの態度をある聖書研究会で学んだことがあります。ACTSといって、Adoration(神をほめたたえる)、Confession(罪を告白する)、Thanksgiving(神に感謝する)、Supplication(他の人のために祈る)を毎日の祈りの中で心を神に向けていくことが神に喜ばれる祈りなのです。これは時間、エネルギーを集中して神との礼拝を個人的に日々まもっていくことでもあります。これは、日々犠牲を伴っているものです。自分がしたいことより、神は今私に何を求めているのかを祈るとき、真実なる神ははっきりと聖霊をとおして私たちにみことばを与え、導いてくださることと確信しています。神に従っていく時に神は必ず不思議に知恵と時間を与えてくださり、後のことはうまくいくものです。
いつも何かで問題を抱えるときに私はこのみことばを思い出します。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ六・三三)一週間の初めの日曜日に心を尽くして神を礼拝し、その週を神に信頼して生活していきたいものです。(山上弘子)
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているのもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル十三・五)
日々の生活の中で、神を喜ばせるのではなく、自分自身を喜ばせることに価値を置いてしまいがちです。名声、栄誉、権力だけでなく文化、音楽、美術など、より洗練されたものを求める気持ちは、たとえそれが立派なことであっても自分を喜ばせることに価値を置こうとする自分の意思によるものです。
しかし主を信じ、聖霊が共にいてくださるようになった今は、私の意思の向かうべき目的は全てのことにおいて神を喜ばせることにあるべきことを知っています。渇くことの無い永遠の命への水を約束してくださった主は、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(第二ペテロ一・四)とも約束してくださっています。この約束を守ってくださったことを過去何度も経験させていただいたことを通して、「きのうもきょうも、いつまでも同じ」 (へブル一三・八)主が明日も共にいて導いてくださり、ともすると自分を喜ばそうとしてしまう者に絶えず軌道修正をしてくださる現実のお方であることを信じて日々が過ごせます幸いを心から感謝しています。
そして、「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」と約束してくださる主に、今日も聖霊様の光と力で私の目を開き、主の真理をきちんと見つめていけますように、そしてそのことを証していけますようにと祈りを持って一日を始めてまいります。(後藤彬文)
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ一・五)
クリスチャンになって、主からいただいた恵みは数え切れませんが、その中でも「祈ること」を与えられたことが大きな恵みの一つでもあります。イエス様の尊い血潮によって罪が赦され、主の一方的な深い憐れみによって「神の子」とさせていただけたことは、私の人生を大きく変えました。「天のお父様」と呼ばせていただける特権は、何にも代えがたいものです。
祈りは、神様との対話、愛のキャッチボールのような気がします。他の方と共に祈る時にも愛が必然であり、心を一つにして祈る時、主が共にいてくださいます。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ十八・二十)また、神の子とされた者が主からの愛を受け、祈りを必要とされている方のために祈る時、縦から横へ愛が流れ続けます。もしそこに愛が伴わなければただの言葉になってしまうように思います。愛は祈りの中に大きな比重を占め、神様からいただいた愛で、神の子とされた者同士が主の愛の深い所でつながっています。「人生の5つの目的」でも、この地上の家族である血縁関係よりも永遠に続く霊的家族の方が大切だと言っています。個々が私たちの父である主との関係を深め、主が私たち人生の中心にいてくださることで、主の御言葉や人生を分かち合うことができるのは、主からのすばらしい恵み、なんと幸いなことでしょう。(カビア淳子)
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。(ガラテヤ五・十四)
愛とはいったい何でしょうか? ある書物にはこのようなことが書かれていました。ある片田舎に赤ちゃんが生まれ、生まれて三ヶ月間は言葉を交わすこともなく、親の愛情も注がれなかつた。赤ちゃんは成長を中止し、全然大きくならなかつたとのことです。その後優しく語りかけ、愛情をもって赤ちゃんに接したところ、みるみるうちに丸々と太りだしたということです。
「人」という字をよくみてみましょう。人間はお互いに関係を保ち合い、お互いに支えあって生きるものです。私達はどれだけ他人のために自分の時間を費やしているでしょうか? 自分の仕事や自分の事が優先し、なかなか他人のことまでは手がとどきません。お金なら増やすことが出来ますが時間は増やすことが出来ません。時間こそ、私たちが人に与えることの出来る最高の贈り物です。お金や物質ではありません。愛をもつてお互いに語り合い、励まし合い、慰め合っていくことこそ愛の結晶ではないでしょうか。イエス様の十字架が示しているごとく、タテの線は神と自分との関係、ヨコの線は他の人、隣人との交わりを示しているのだと思います。親鳥が翼を広げてヒナを養うように、あのイエス様が大きな大きな愛の御手を広げて「私のもとに来なさい。私がかくまってあげよう」と招いてくださいます。感謝してお受けしたいものです。(鈴木みどり)
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ十二・五)
洗礼の準備をしていた数年前の頃をふと思い出しました。その頃、受洗してクリスチャンになると同時に教会の会員になることに多少の疑問を感じていました。しかし、新米クリスチャンとしてスタートしていくのに、この教会に属せるという安心感や、洗礼の祝福の方が大きかったのでしょう、その疑問もすぐに忘れ、教会員であることの意味を深く考えないままに、信仰生活を送っていました。
「目的の四十日」の中で、この聖句によって、その疑問に対する答えが与えられたのです。教会は、キリストの体ですから「クリスチャンである=教会のメンバーである」という事実を深く教えられ、体の一部である私たち一人一人がそのユニークな役割を認識して活動し、そしてお互いに尊重し、愛しあって行くことが必要なのです。私はキリストを信じ、キリストの体の一器官に、教会員になっていたのに、それに気が付かないまま存在していたのです。
神さまは、私をお救いになってくださった上に、所属する教会も備えてくださいました。イエス・キリストが「私の体の一部になりなさい」と、ご自分の体をささげてくださったことによってだったのです。私は、このみことばにより、主の深い恵みと愛に気がつきました。このみことばに教えられたとおり、教会員の本当の、本来の姿を目指して、信仰生活を歩んで行きたいと思います。(鶴田陽太)
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ六・二)
「人」という字は、人間が、寄り添っている様子を表しているといわれます。人間は本来から、他の人が必要であることを知っていたのでしょう。私には、他の人からの言葉で大変慰められ、勇気づけられた経験が何回かあります。人間は時として、困難に遭遇し、自信をなくし、暗闇の中に取り残されたような状況になることがありますが、そんな時こそ、一緒に悩み、そして励ましてくれる友の存在は、何と心強いことでしょう。
「こういうわけで、あなた方は、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ二・一九)私たちは、互いに主イエス・キリストにより聖められ、結ばれています。主はその十字架により、すでに私たちの重荷を負ってくださいました。神の家族の交わりは、単なる社交ではなく、心から解け合って、困難や喜びを分かち合い、互いを赦し、そして互いの重荷をも負い合うことを可能にしてくれます。
人は皆、完全ではありません。失望し、つまずき倒れます。そんな時こそ祈り、そして思い出しましょう。私たちには、支えて導いてくれる主と、一緒に悩み、励ましてくれる人たち、神の家族があることを。(赤荻隆男)
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ三・十六)
社会で一般に使われている言葉の中には聖書から出たものが多くあります。「十字架」、「福音」、「三位一体」などがそうです。しかし、それが世の中で使われる時には、本来の意味とはまるで違ったものになってしまっています。私が残念に思うのは、聖書を学んでいるクリスチャンまでもが、そうした言葉を世の中で使われている意味で理解してしまっていることです。「愛」や「共同体」という言葉も、世の中の人々がそれを誤解しているばかりでなく、クリスチャンも、誤解された意味のままそうした言葉を使っていることが多いようです。
聖書でいう「共同体」は、キリストを信じた者がその信仰によってキリストと結び合わされ、バプテスマ(洗礼)によって「キリストのからだ」の一部になったということを意味しています。それは文字通りの「キリストのからだ」です。たんに「キリスト教徒の同好会」「日本人コミュニティ」といったものではありません。それは地上のものではなく、天に属するものであり、奥義的なものです。
したがって、この「キリストのからだ」を生かす「愛」も、決して人間的なレベルのものではないことが分かります。それはキリストが「私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになった」愛です。「キリストのからだ」である教会を、ほんとうの意味での教会にしていくために、聖書に立ち返り、聖書の教える「愛」を追求したいと願っています。(中尾邦三)
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ十二・十八)
人間関係ほど難しい物はありません。神の子とされた私たちクリスチャン同士でさえ時には醜い争いごとをします。そんな姿を神は悲しい目でご覧になることでしょう。平和を作ることを熱心にしている人の姿は、人間の目から見たら逆にトラブルの元になっていたり、平和にやり過ごすために争いを避ける人は、神の目から見たら偽りのうわべだけの人間関係に中にいる人かもしれません。
私たちを罪から救い、神と和解させてくださったイエス様を信じている私たちには「和解の務め」があると聖書は教えています。問題を先送りにしたり、うやむやにせず解決するために祈りたいと思います。中野雄一郎先生は「私は今まで嫌いな人には会ったことがない。それは私のことをその人が好きで、私もその人が好きだからです。」と言っておられました。神が命をかけて愛したその人を私が勝手に嫌っていい訳はありません。平和を作り出す人間になりたいと思います。(関口由希子)
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ十四・十九)
ローマ一四章は、以前のしきたりに拘束されないとはっきり悟り、確信を持って自由を行使できるキリスト者(信仰の強い者)と以前のしきたりから完全に抜けることのできないキリスト者(信仰の弱い者)がおり、この二者の意見の異なりから生ずる問題について書かれています。ここには、主は、信仰の弱い者も強い者もそのままで受け入れてくださるお方であり、私たちを裁くことができるのは主ただお一人であるのだから、私たちはお互いの行動について裁きあってはいけないと書かれています。
一人一人の信仰の強さは違うのですから、その確信も各自で異なっているはずです。各々がその信仰の度合いに応じて確信していることをただ信じ、聖霊に導かれるままに生活していったならば、お互いを批判することは起こらないはずです。ただ自分では問題ないと思っていることが、他の人の目から見たときに汚れていると思うことがあるかもしれません。もしそういうことがあり、自分でもわかっているのならそれは避けるべきことです。他の人が自分の行動を見てつまずくようなことがあれば、それは止めるべきです(ローマ一四・一六)。
ローマ一四・一八にあるように、一人一人が確信を持ってキリストに仕えるのであれば、神が喜ばれると同時に人々からも認められるようになり、そこにはキリスト者同士の不協和音が生まれることはないでしょう。互いに良い模範となり霊的に成長していくことは、共同体としての教会の成長にもつながっていくと思います。(西嶌佳子)
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント三・十八)
クリスチャンになる前に自己啓発の本をよく読んでいた私にとって、聖書は今までに読んだすべての本にまさる人生の教科書となりました。聖書を読むことにより、人間関係がスムーズになり心の平安が得られることが大変嬉しく、主からのすばらしい恵みを感じたことを覚えています。しかし、洗礼前後の熱もある程度冷め、ある意味、平板な信仰生活に入ると、それだけでは何か足りないと感じ始めました。より深い信仰を得るためには、よくできた人生指導の書としてではない聖書の読み方、御言葉をもっと精神の深いところで感じ取る仕方があるはずだと思いました。「多くのクリスチャンが神の偉大な目的のために生きることよりも、個人的達成感や情緒的安定といったものに甘んじている…」(「人生を導く5つの目的」二三五頁)という部分を読み、参照されている聖書箇所を改めて読み返すことにより、私のこの疑問が少し溶け始めたように思います。私の周囲の人間関係や私の持つ問題や試練は、私の人格形成のために主が用いられるツールであり、私は御言葉を学び、聖霊に委ねることにより、その主からの期待に応えてゆかねばなりません。それが罪を赦された者の責務です。(これがひよっこクリスチャンの今の私の理解です。五年後、十年後にはもっと深い理解の仕方ができているといいなと思います。)
「鏡のように主の栄光を反映させながら」キリストのようになっていく。素晴らしい恵みですね。(藤井達也)
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ一二・二)
「どのように成長したらよいか」、の問いかけは、私にとって、具体的に自分の志と神様のご計画を重ね合わせられるよい機会になったように思います。
高校生の時に初めてクリスチャンの方々の輪の中へ入った時、私はその場に、両親から学んだとても温かいものを感じました。その温かさとは人を思いやること、人の身になって考えることでした。私はそのことを通して神様を信じるようになりました。
人の身になって考えるということに、私は神様の愛を知りました。しかし、私がこれまで出会った神様を知りながらも、または知ろうとせずに、心を神様の御前にかたくなにしてどうしようもなく苦しんでいる方々と出会うと、その人の身になって考えるということに混乱と悲しみを覚えました。私達の身代わりになって愛を示してくださったのはイエス様です。人の身になって考えることは、本当には私自身の能力としてできることではないということに気付かされました。また私の高慢さを思いました。このような私の姿を神様の御前にお委ねし、神様と共に成長していきたいです。(田中恵美子)
もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ八・三一、三二)
クリスチャンにとつて神様の御言葉なしに生きることは不可能だと思います。私達は毎日御言葉を読み、その御言葉の真理を研究し、理解しようとしています。でもその御言葉を実行しなければ、その御言葉はなんの役にも立たないのです。でも実践しようとすると悪魔の攻撃が集中し実行することは大変難しいのです、とリツク・ウオレン先生は指摘しておられます。神様のみ言葉は私達の失敗を指摘し、罪を責め、私達が変わることを求めていますが、変化を嫌うのは人間の性質なのです。でも「聖書が与えられているのは知識を増やすためではなく、人生を変えるためなのです。」とムーデイは言つています。私達は本当に御言葉によつて変わらなければ聖書を学んだ事にならないことを痛感させられました。
私達の生活には色々な問題や試練があります。でも色々な試練を通し、御言葉の真理を学び、それを実行しながら、少しでも変えられ聖別され、毎日主の御言葉に従つていきたいと願つています。(山崎静子)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ八・二八)
神様に出会い、洗礼を受けて、喜びいっぱいでクリスチャン生活を始めた私でしたが、なぜだか神様は、その直後からいくつもの試練を与えられました。家庭の中は暗く沈み、それは何ヶ月も続きました。私の祈りは、まだたどたどしく、神様は遠い高い存在でした。祈りが聞かれているのだろうかと、不安な中での祈りでした。孤独で、この試練は重く「どうして私ばかりなんですか…」とつぶやき、弱気になっていました。
それでも毎日神様と話すことしかなく、車の中でも、人と会う前にも後にも、祈りの時を持っていました。しだいに神様は、仕事上ではボスのようになり、家族のようでもあり、頼れる相談相手になっていきました。神様は、祈りの度にゆるぎない平安と解決を与えてくださいました。今思うと、この時に神様とのつながり、真剣に、心を注ぎ出して、正直に祈ることを体験させていただいたように思います。造り変えられる上で、省くことのできない成長の過程だったのでしょう。祈りは神の子に与えられた特権、イエス・キリストが苦しみの中で祈られたように、頼るべき方は神しかいないと、キリストを見上げて、祈っていくことを学びました。
また、神様のご計画がわからない時も、「神は私たちの最善を考えておられ、その最善を生きることができるように私たちを訓練しておられるのです。」(ヘブル一二・十)というみ言葉を覚えて歩んでいきたいと思います。(浜島美佐代)
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ一・十二)
日本にいた時、ある組織に追われていた人をかくまったことがありました。かなり危険なことだったのですが断りきれない必然があって、主の愛を示すため、夫や友人の助けを借り、有り金をはたいて、そうしたのでした。ほんとうに大変な日々でした。本人よりも私の方が「いつ見つかるかわからない」と絶えずビクビクしていました。表面は平静を装うように努めていましたが、電話が鳴るたびに、見知らぬ人が訪ねて来るたびに、恐怖で身の縮む思いでした。逃げ出したい気持ちでしたが、私が手を引いたら、その人に危険が迫ることを思うと、もう後には引けない状況でした。「どうしていいかわからない、どうすることもできない」状況の中で私はただただ祈りました。寸暇を惜しむようにして、昼も夜も、みことばを開いて、必死に祈り続けました。
数年後、主の特別なはからいで、その人が守られて大丈夫になった時、私はそれまでよりも信仰が強められていることを実感しました。聖書の真理がいっそう深く心に入って来るようになりました。あの試練のために、私はいやがおうにも、主の近くへ、近くへと進みゆかせていただいたのでした。他にも数多くの試練に会ってきましたが、試練はたしかに信仰者を神のそば近くに引き寄せてくれますし、神を愛する者へと成長させてくれますので、それはやはり恵みです。そして試練に耐え抜いたなら、やがての日に、いのちの冠を主からいただけると約束されています。(中尾照代)
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント十・十三)
クリスチャンになるまでは私は正直それほど欲の深い人間だとは思っていませんでした。しかしキリストを知ることにより自分が罪深い人間だと言うことを認め、そして「目的の四十日」のプログラムを通して、私はいかに誘惑に弱く、そして数々の試練に自分の力のみで乗り越えようと無理をしてきたことを痛感させられました。このことを知った今でも日々悪魔の誘惑に遭い、神様に試され続けているのです。
私がこの誘惑に勝つためにはキリストの助けなしには無理なのです。コリント人への手紙第一、十・十三に書いてあるように神はいつもその試練からの脱出口を備えていてくださっているのです。視点を誘惑からそらし、自分の心を神や神の御言葉にむけることによって試練を乗り越えることができるということをこの章から学びました。(鍵田裕子)
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ一・六)
「成熟に至る近道はありません。」この言葉は日常生活の中、わかっているようでつい忘れてしまっています。先を急ぐあまり真の学びができず、聖書をさっと流し読んでいるだけだったりするのです。
私がクリスチャンになって、このイースターで五年になります。ふり返ってみればバプテスマを受けるまでには本当に長い時間がかかりました。その間、教会から私の気持ちが離れるたびに不思議とクリスチャンの方と知り合い、「また行ってみよう」と思ったものです。神様は私を見放すことなく、ゆっくりゆっくりと正しい道へ導いてくださいました。クリスチャンになるというスタートラインに立つまでだけでも約二十年もかかったのですから、五年間というのはほんの駆け出しであり、学ぶべきことがたくさんあって当然です。
「天の下では何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道者の書三・一) これから先、どんな人生を送るのかは誰にもわかりませんが、ここまで来ることができたことを神様に感謝し、これからも成長するのを助け、導いてくださることを信じて学び続けていきたいです。(足立純子)
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ二・十)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(第一コリント十二・二七)と神様はおっしゃっています。私たちの体の各器官は、それぞれが考えながらその役割を果たしているのではなく、神様がその器官の働きをあらかじめプログラムし、器官はただその通りに働いているのです。もし、一つ一つの器官が自分勝手に動き始めたら、私たちは息をすることさえ出来ないでしょう。
私たち一人一人は、キリストの体の器官です。神様は、聖なるご計画の中で良い働きをするようにと私たちを罪から救ってくださいました。「良い働き」とは奉仕の事です。奉仕はオプションではなく、私たち一人一人に与えられた義務です。なぜなら、一つ一つのキリストの器官である私たちが働かなくなってしまったら、キリストの体である教会が機能しなくなってしまうからです。
イエス様は、「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、…」(マタイ二十・二八)とおっしゃっています。私たちがイエス様を見習って、お互いに喜んで仕えあう事が出来たら、キリストの体である教会はどんなに健康な体になるでしょう。「今日は、誰の必要を満たす事が出来るだろう。」と期待と喜びで一日が始められるよう成長していきたいと思います。(グリフィン裕子)
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。(第一コリント十二・六)
以前読んだ自己啓発本で日本語タイトル「3週間続ければ一生が変わる」(英語タイトル "Who Will Cry When You Die?")という本がありました。私たちが死ぬ時、誰が泣いてくれるのかわかりませんが、「誰かが泣いてくれる生き方ができた」というよりも「神に仕える生き方ができた」ということの方がはるかに大切なのではと、このタイトルを見て思わされました。
この世界では「誰かに仕える」ことはとても難しく、それなりの報酬を期待することになります。そして報酬をもらったとしてもそれだけで満足しない場合が多いものです。しかし、「神に仕える」ことは、信じている私たちにとって心からの喜びです。
「神はすべての人の中ですべての働きをなさる」というのですから、私たちひとりひとりが神様の働きの担い手となることができるのです。私たちは神に愛されタレントを与えられているわけですから、自信を持って神様の働きの一員に加わって行きましょう。(水嶋豊子)
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(第一ペテロ四・十)
亡くなった母は音楽好きで、小さい私にも音楽に接し学ぶ機会を与えてくれました。小学一年生のある日、学校から帰ると真新しい初めてのピアノが来ていて、本当にうれしかったのを覚えています。それから十年あまり練習に励みましたが、結局、別の道へ進み、ピアノからは長い間離れていました。思いがけなくアメリカに来て主に救われ、いただいた賜物を使って兄弟姉妹と共に神様を賛美する家族の一員となれたのは、まったく主のくすしい御業としか言いようがありません。
そんな私に「目的の四十日」からの指針は、また新たな視点を与えてくれました。神様の恵みはいたるところにあり、それを生かして今度は神様にお返しするという私たちの使命は、ひとりではできないということです。私たちは、見えるところ見えないところで皆、異なる恵みをいただいています。個々に色も形も違う、自然界の石ころのようです。互いを補い合うため、互いを必要とします。お城の石垣の壁のように、神の国のファンデーションを築くため、皆でこぼこがあり、それがお互いにかみ合ってよりしっかりした基礎ができるのです。不要な石はひとつも無く、失敗作もありません。石ころを形づくるのに使った時間に無駄は一秒たりともなく、また、完璧にできなくて不満と腹立ちを感じたり嘆く必要もないのです。
この新たな視点からこの御言葉を読むと、何と主の愛に満ちた言葉であるかが胸に迫ります。(ペッターソン美仁子)
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(第二テモテ二・十五)
この聖書のことばは、私が牧師としての働きを始めた時、その指針となったものです。牧師として三五年経った今も、このみことばに励まされ、導かれていますが、最近は、この箇所の「真理のみことばをまっすぐに説き明かす」という部分に特に心が向くようになりました。
聖書は「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる」(第二テモテ四・三、四)と預言していますが、今がまさにそのような時代であるように思います。今日の教会は、人々の耳を福音に傾けさせようとして、さまざまに新しい趣向を凝らしているうちに、いつしか福音そのものから離れて行きつつあるように思います。神のことばを伝えるために、テレビであれインターネットであれ、この世のものが聖別されて用いられて良いのですが、この世の哲学を語るために聖書が利用されているとしたら、本末転倒もいいところです。
福音に仕えるしもべがよりどころとすべきものは、一世紀の聖書であって二一世紀の思想ではありません。福音に「再発見」はあっても、「新発見」も、「新発明」もありえません。変わらない真理を忠実に伝える者でありたいと、心から願っています。(中尾邦三)
私の弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ十・四二)
私が献身を思い立ったキッカケは、どんなささいな事にも愛をもって心から日本人と関わっておられた宣教師の姿を見たからでした。その宣教師は日本語も不十分でしたし、体も丈夫ではありませんでしたが、休む暇もないほど一人一人のために心と時間を割いておられました。その愛のケアを必要としている人は教会の内外に大勢いました。私はそれを見て「神の国は忙しいんだ。私も何かしなくていいのだろうか。」と自問したのでした。たしかにあの宣教師は、疲れている人、渇いている魂に主からの生命の水を与える奉仕に励んでおられたと思います。それは人目には、たいした働きに見えなかったかもしれませんが、しかし、その愛の労によってどれだけ多くの魂が生きる力を得たことでしょうか。実際、私もその先生から一杯の愛の水をいただいて力づけられた一人でした。
水には生命を救う力があります。ですから時代が変わり、世が変わっても一杯の水を与える奉仕が教会から不要になることはない筈です。特に、見せかけと、利潤追求に走って潤いをなくしてしまった社会に生きる私たちは、絶えず魂の疲労を覚えて渇き、生ける水を求めてあえいでいるのではないでしょうか。私たちが少し他の人の事に心を配れば、一杯の水を必要としている人は、私たちのすぐ側にいつも居る事に気づくと思います。
人に与えるべき生命の水は主から託されて私たち の手にあります。一杯の水を与える奉仕は小さいように見えても、人を生かし、天の報いを約束されるほど価値ある奉仕ですから、私たちはそれを心を込めて熱心に、自ら進んでしていきたいと思います。(中尾照代)
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ二・五)
私がクリスチャンになる前、すべては自分中心でした。人のために何かする時でも、いつも心から喜んでしていたとは限りませんでした。ところが神様の御子であるイエス様、王様であるイエス様が、しもべとなって人々に仕えられました。この聖句は「私たちに対するキリスト・イエスの態度を、見ならいなさい。」とも訳されています。イエス様はいつでも喜んで、私たちの必要を満たしてくださいます。悩んでいる時には、忍耐強く話を聞いてくださいます。悲しいときには、心から同情して慰めてくださいます。たとえ人から理不尽に非難されるようなことがあっても、イエス様は神様に認められているので、めげたりしません。「何をするにも主にするようにしなさい。」という御言葉のように、私が人に対して仕えていくときに、人が私のことをどう思うかというようなことを考えるよりも、神様に喜んでいただけるように、またイエス様がしもべとなって人々に仕えたように、私も人に仕える者となりたいです。
今も生きて、私たちといつも共にいてくださる神様、そのあふれるほどの愛に感謝します。(フィッシャー純子)
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント十二・九)
神様に出会ったのは、中学生の時でした。自分ではどうにも出来ない弱さの中でした。クリスチャンになってから、その弱さが与えられたのは、神様に出会うために必要だったことが分り、弱さがかけがえのない恵みとなりました。病気の問屋と言われた、作家の故三浦綾子さん、希望に溢れた若き体操教師から車椅子生活を余儀なくされた、画家の星野富弘さんは大変な弱さの中に追いやられた方々ですが、三浦さんは「私は神様にえこひいきされている」と、星野さんは「もう一度人生をやり直す事が出来ても、また同じ人生を」と語っておられます。「弱さとは一体何なのでしょう?」彼らのような弱さを充分知らない私が弱さを語るのは相応しくないかもしれませんが。
自分の限界を知った時、お手上げの状態、完全降服、私の側で何も出来ない弱さの中では、唯一神様だけに助け求めざるを得ません。その中で神様だけが出来る不思議な方法をもって神様は力を現してくださいます。その時こそ、全知全能の神様、不可能を可能になさる方、無から有を生み出す神様が今も生きて働いておられると知り、はっきりと見させていただく時です。弱さを通してでしか味わうことができない最高の恵みでしょうか。弱さは嫌、弱さは辛いけれど、弱い所こそ神様にふれられる最高の場所であると思います。(後藤圭子)
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ二八・十九、二十)
私はアメリカから来た宣教師によって建てられた教会で福音を聞き、救われました。アメリカに来て、文化もことばも違った国で生活することの大変さを体験してから、戦後間もない日本に来て伝道した宣教師の苦労を、少しは理解できるようになりました。今も、マタイ二八・十九、二十を文字どおり実践し、危険な国々、困難な場所で伝道している宣教師のことを思うと頭の下がる思いがします。
「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」との命令はクリスチャンすべてに与えられたもので、宣教師となって外国に行くことがなくても、私たちは今いるところでそれを果さなければなりません。私たちが教えなければならない「彼ら」とは、まず、子どもたちだと思います。同世代の人々に福音を伝えることだけが伝道ではありません。親から子へ、今の世代から次の世代へと救いのみわざを伝えることは旧約の時代から変わらない神のみこころです。家庭で子どもたちに聖書を教え、信仰に導きましょう。教会でも霊的な父母、祖父母となって、子どもたちを救いに導き、その信仰を養ってあげましょう。たとえ「こども礼拝」で直接奉仕することがなくても、子どもたちのために祈り、彼らの良い模範になることができます。そのようにして、私たちも、いながらにして、次世代への「宣教師」になることができるのです。(中尾邦三)
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。(第一ペテロ三・十五、十六)
私が小学生のころ、「お前の家はキリスト教だ」といって友だちからいじめられたことがありました。私にも、いろいろ悪いところがあったので、そのことで何かを言われてもしょうがないと思いましたが、イエスさまのことが悪く言われるのはとても悲しく思いました。私はイエスさまが好きでしたので、友だちから何を言われても、日曜学校や礼拝に出て、賛美をしたり、聖書を読んだり、祈ったりしていました。日曜学校に来ていた友だちも、中学生になると勉強が忙しくなって教会に来なくなり、私もアメリカに行くことになりました。
アメリカに来てずいぶんたってから、母といっしょに日本に行きました。ひさしぶりに以前の教会に行きました。みんなが歓迎してくれ、教会に来ていない近所の人たちからもとても良くしてもらいました。その時、友だちのひとりが教会に来ていて、「私は、あなたのおかげでクリスチャンになったのよ。あなたが、いじめられても、いつもにこにこしているのを見て、どうしてかなと思って、教会に来るようになったの。私も、あなたをいじめたことがあったけどゆるしてね。」と言ってくれました。私はうれしくて泣いてしまいました。
どんな時でも、イエスさまを愛していれば、それを見た誰かが、きっと、イエスさまのことを考えてくれる、その人もイエスさまを信じてくれると思います。(中尾ひとみ)
それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(詩篇六七・二)
今日のタイトル「ワールドクラス・クリスチャン」とはあまり聞きなれない言葉ですが、『人生の5つの目的』には「神の目的の為に用いられることを心待ちにし、その特権に心躍らせている人」と説明されています。そして「自分中心ではなく、他人中心に考える」事がその第一歩とも書かれています。そういう人は、今日の詩篇にあるように、「私を祝福して戴くだけでなく、私を通して神の栄光が、救いの素晴らしさが、日々私が接する多くの方々に伝わるように」と祈る者だと示されます。今の時代はインターネットを通して多くの人々と接触できるわけですから、日々の生活を「ワールドクラス」で過ごしているかどうかと、心を探られます。
また、「ワールドクラス」になるのは主のご命令であるとも記されています。どうしたら主のご命令に従っていけるのかを思う時、二月の礼拝での「御霊の満たし」のメッセージが心に蘇ってきます。上よりの聖霊のお力が無ければ私は「ワールドクラス」ではなく自己満足の信仰になり、神に召された私の使命を全うする事など到底できない事を示されます。そして「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。…聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。」(使徒一・四〜八)が心に響きます。イエスは弟子に、この力の注ぎが無ければ何も出来ないと、はっきりと言われました。
今日も、「ワールドクラス・クリスチャンとして一日を過ごす事ができますように。私の一つ一つの言動が主の栄光を伝える使命を全う出来るよう、聖霊様が絶えずご一緒下さいますように。」との祈りをもって一日を始めて参ります。(後藤彬文)
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。(エペソ五・十五、十六)
人と意見を交えている時に、両者の主張の間のどこかに話が落ち着くことが多いものです。二つの意見の違いは、どこにバランスをとるかによって両方とも生きてきます。何かを決めようとするときにも、その時に何と何を天秤にかけているのかに目を向ければ決断がしやすくなります。世の中の多くのことが相互に関係している以上、バランスを考えないと片手落ちになります。食事のバランス、家計のバランス、ワーク・ライフ・バランス等々どれもバランスを欠くと大変なことばかりです。
けれども私のこれまでの生き方を振り返ると、バランスが悪くても何か一つの分野に秀でているようにして来ました。その方が楽ですし、やりたくないことはしなくていいと自分を正当化することができたからです。その結果、狭い世界に閉じこもり、片寄った見方しか出来なくなってしまったことは否めません。
人生の五つの目的をバランスよく実行していくことは容易ではありませんが、同じ轍を踏まないためにも、自分にとって苦手な分野を避けずに挑戦していきたいです。なぜなら設計者の意図を無視した的外れな生き方はもうしたくないからです。(大塚 厚)
ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。(使徒十三・三六)
神のみこころに従って生きたというお証しをもって自信をもって天国に凱旋したいものです。それは、「目的の生活」をまっとうしたときにできるものです。
クリスチャンは、救われたら天国への切符をいただき、それが取上げられることはありません。でも、しばらくは、神様に喜ばれるように生きようとしながらも、この世の垢に紛れていつしか知らないうちに罪とともに生活している自分があります。天国行きの列車に乗る時に、汚れた切符を持って乗り込むのはどんなに恥ずかしいことでしょう。「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ七・二十)パウロが見事にそのことを表しています。救われたときに罪は贖われても、その後の罪をどのように処理するか主に責任を負っています。私たちには一生罪を作り続ける力が内在しているのです。神様はこのことをじつにご存知なのです。
汚れを取るには、日々の祈りの中で罪を悔い改め、赦していただくしか方法はありません。罪からの解放を願う明確な意思と、それが実現できないでいる弱い自分を主に信頼しお委ねすると、一つずつ罪から解放されてゆくことに気がつきます。主がまさに生きておられる証拠です。ダビデのすばらしさは、悔い改めの勇気と、主を自分の人生の中心に据えた生き方でした。主の助けをいただき「目的の生活」をまっとうしたいものです。(西嶌 隆)