注がれるともしびの油

ゼカリヤ4:11-14

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4:11 私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
4:12 そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
4:13 すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」

 イエスはご自分に従う人々に、「あなたがたは世の光です。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタイ5:14-16)と言われました。使徒パウロは、イエス・キリストを信じる者に、「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝」いていなさいと教えています(ピリピ2:16)。しかし、私たちは、光り輝くよりも、不平不満によって、くすぶってしまうことがあります。希望をなくして、暗くなってしまうこともあるでしょう。そんなときはどうしたらよいのでしょうか。私たちの光を輝かせてくれるものは何なのでしょうか。いや、もっと正確に言えば、それは、誰なのでしょうか。あらかじめ答を言っておきましょう。それは、聖霊です。父・御子・御霊の神の聖霊なる神です。きょうの箇所は、私たちは聖霊によって証しの光を輝かせることができることを教えています。

 一、神殿の再建

 最初に、この箇所で語られていることの背景をかいつまんで学んでおきましょう。

 紀元前586年、エルサレムは、神殿もろともバビロンに滅ぼされました。バビロンはエルサレムの主だった人々を皆バビロンに連れて行きました。神殿の聖なる用具も「戦利品」としてバビロンに運んだのです。しかし、権勢を誇ったバビロンも、今度はペルシャに滅ぼされました。ペルシャの王クロスは、ユダヤの人々に寛大で、祖国に帰って神殿を再建することを許し、バビロンによって奪われていた神殿の用具もユダヤの人々に返しました。紀元前538年のことです。

 そのとき、ユダヤの総督に任命され、およそ5万人の人々を連れてエルサレムに戻ったのが、ゼルバベルでした。彼の名前は、同じ年代に書かれたエズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書に何度も出てきます。ゼルバベルは、エルサレムに着くとすぐに、神殿の再建に取りかかりました。ところが、周りの民族の妨害にあって、基礎を置いただけで、神殿建設工事は中断してしまいました。それから10数年、神殿の基礎は野ざらしになったままでした。最初は、神殿の再建に心を燃やしていたユダヤの人々も、あまりの困難のため失望し、その熱を冷ましてしまいました。エルサレムに戻ってきた人たちは皆、バビロンで生まれ、豊かな生活をしていた人たちでしたから、廃墟となっていたエルサレムで自分たちの生活を建てあげていくだけで精一杯だったのです。

 そんな時、神は、二人の預言者ハガイとゼカリヤを遣わし、神の言葉によって人々の心を励ましてくださいました。人々は、預言者ハガイを通して与えられた神の言葉に聞き従い、中断していた神殿工事を再開しました。ハガイ1:14に、こうあります。「主が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。」それは、「ダレイオス王の第二年、第六の月の…二十四日のこと」(ハガイ1:1, 15)でした。「ダレイオス」はペルシャの三代目の王で、その2年目は紀元前520年、第六の月は、私たちの暦では9月にあたります。工事を再開してからわずか3年半で神殿は完成しました。神殿の完成を見た人々は過越の祭りを祝い、大きな喜びに満たされました。

 二、わたしの霊によって

 人々が神の言葉を聞くことによって、初めに与えられた使命に立ち返り、一旦失った情熱をもう一度取り戻し、心を奮い立たせ、ともに力をあわせて大きな事業を完成させる。しかも、周りの民族の妨害や圧迫、様々な困難の中で、忍耐深くそのことを成し遂げる。それは、とても感動的なことです。神殿の再建は、今日の言葉で言えば、「信仰のリバイバル」に当たるでしょう。神は、アメリカの歴史において何度もリバイバルを起こしてくださいましたが、今の時代ほど、それが必要な時はないと思います。けれども、リバイバルは人間が計画し、人材を集め、お金をかけて大掛かりなイベントをやって起こるものではありません。それは聖霊の力によるものです。ハガイは、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアへの神の言葉をとりついでこう言いました。「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──主のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──主のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の主のことば──あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。」(ハガイ2:4-5)主なる神が「わたしの霊」と言っておられるのは聖霊のことです。総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアには神殿再建のための大きな責任がのしかかっていました。ユダヤの人々にも大きな負担がありました。果たして無事に神殿の完成をさせることができるのだろうかという「恐れ」があって当然です。しかし、主は、「恐れるな」と言われます。なぜでしょう。「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている」とあるように、聖霊が共におられ、人々の間で働いてくださるからです。聖霊がおられるところに恐れはあってはならないからです。

 主は、またゼカリヤを通して、こうも言われました。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6)これは、神殿の再建とそれに続くイスラエルの復興は、人間の力によってではなく、聖霊の力によってはじめてできることを教えている言葉です。ゼルバベルは、ペルシャ王からユダヤの総督に任命され、「権力」を与えられていました。彼はダビデ王の子孫で、ユダの国が滅びていなければ、その王となっていた人物です。彼には生まれついての「能力」が備わっていたことでしょう。しかし、その「権力」も「能力」もエルサレムに来てから十分に用いることができませんでした。ペルシャの都から遠く離れたユダヤではすでにそこに住む数多くの民族がそれぞれに力を持っていて、自分たちの領域を治めていました。ペルシャ王の威光はそこまでは届いていなかったのです。ゼルバベルの総督としての権威を受け入れる者などいなかったのです。それに、彼と一緒にエルサレムに戻ってきた人々は自分たちの生活を築き上げるのに精一杯でした。ゼルバベルにどんなにリーダーとしての能力があっても、全くやる気を失っている人々を動かすことはできませんでした。ゼルバベルの権力も能力も人々の霊を奮い立たせることはできません。それができるのは、聖霊だけであり、聖霊は、そのことをしてくださったのです。それまで、どんなことをしても動かなかった民が、神の言葉に答えて、神殿建設を再開した。まさしく、「権力によらず、能力によらず」、神が、「わたしの霊」と呼ばれた「聖霊によって」なのです。

 三、証しの光

 さて、きょうの箇所ですが、ここには、ゼカリヤが見た燭台とオリーブの枝の幻が書かれていて、ここでも聖霊の働きが教えられています。

 ゼカリヤが見た金の燭台は、真ん中の支柱から右に三本、左に三本の枝が伸びていて、それぞれの枝には油を貯める鉢があり、その上にともしび皿が乗っています。合計七つのともしびが灯るようになっていました。これは、神殿の聖所を照らす燭台と同じ形です。神殿が滅ぼされたあと、ユダヤの人々は、神殿の燭台を模した「メノラー」とよばれる小さな燭台を作り、安息日にそれを灯すのを習わしとしています。

 この燭台のともしびは、鉢の中に貯められたオリーブ油で灯ります。神殿の燭台は常に輝かせている必要があり、油が切れないよう、いつも油を継ぎ足す必要がありました。しかし、ゼカリヤの見た金の燭台には二本のオリーブの枝につながっている金の管から絶えず油が注がれいて、人の手で油を継ぎ足す必要がありませんでした。イスラエルの「国章」には、メノラーの左右にオリーブの枝が描かれていますが、ゼカリヤが見た幻もそのようなものだったのでしょう。

 ゼカリヤはこの幻を示されたとき、その意味を知りたくて、「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか」と御使いに尋ねました。それに対して御使いは、「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ」(4:14)と答えました。「二人の油注がれた者」にはいくつかの意味があります。

 それは、直接的には、ゼルバベルとヨシュアを指します。この二人は民の指導者として「油注ぎ」を受けていました。二人は、神殿の再建という大きな事業を通して、主なる神の栄光を表すことができるため、聖霊の油を注がれたのです。オリーブの枝から金の管を通して注がれている油は、ゼルバベルとヨシュアから出てくるものではありせん。それは、二人がその使命を果たすために受けた「油注ぎ」の「油」、つまり聖霊から来るものなのです。

 また、この2本のオリーブの枝は、ゼルバベルの子孫であるイエス・キリストを表しています。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味の言葉です。ゼルバベルがダビデの子孫で王位継承者であったように、イエスは、ダビデの子として世に来られた「王」です。また、イエスはまことの大祭司で、大祭司ヨシュアは、イエスの雛形でした。「イエス」という名は、ヘブライ語の「ヨシュア」のギリシャ語読みです。二本のオリーブの枝はイエスが「王」であり、同時に「大祭司」であることを表しています。ゼカリアが見た幻は、イエス・キリストが、信じる者に聖霊を注いでくださることを預言したものでした。

 さらに、この「二本のオリーブの木」は、イエス・キリストを信じる者たちを指します。複雑になるので、今日は詳しくお話ししませんが、実は、この「二本のオリーブの木」は、黙示録に再び登場し、それは、イエス・キリストに忠実なキリストの証し人を表しています(黙示録11:4)。ですから、二本のオリーブの木は、今日の私たちクリスチャンのことでもあるのです。私たちもまた聖霊をいただき、聖霊の油によって、光を輝かせ、神の愛を、イエス・キリストの救いを証しするのです。私たちすべてが、ゼルバベルやヨシュアのような立場や役割を与えられているわけではありません。しかし、一人ひとりは、それぞれが置かれた場所で、その周りを照らす者になるため、救われ、信仰を与えられているのです。

 イエス・キリストを証しし、神の栄光を示すために大切なことは、光り続けることです。日本の交番の入り口には、いつも赤いランプがついていて、「困ったとき、助けの必要なときはここに来なさい」というメッセージとなっています。私たちが聖霊の油によって燭台のともしびを灯し続けるのも同じです。いつ、どこで、誰が救いを願い、助けを必要としているか、それは私たちは分かりません。ですから、いつ、どんなときでも、聖霊の油を切らすことなく、キリストを証しするともしびを灯していたいと思います。

 私たちは、神のために何かをしようとするとき、いつも力の足らないことを感じます。それで、「私にはできない」と引っ込んで、何も始めない、あるいは、せっかく始めたのに途中で投げ出したままになっている。そんなことがあるかもしれません。しかし、主は、今日の御言葉のように、聖霊を注ぎ、私たちを再び奮い立たせてくださいます。聖霊を求め、聖霊に依り頼み、聖霊の油で、光り続ける私たちでありたいと思います。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、神殿再建という大きな事業に向う指導者と民に、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われ、彼らを励ましてくださいました。この時代の私たちにも同じ聖霊を注いでください。私たちが聖霊の油で証しの光を輝かせ、暗い時代を照らすことができるよう、助けてください。私たちのいのちの光、イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/25/2024