4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
4:4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。
4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」
一、ハガイとゼカリヤ
エズラ6:14に「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した」とありました。神殿の再建を励ました預言者にはハガイの他、もうひとり、ゼカリヤという人がいました。
ハガイとゼカリヤは、同じ年、ダリヨス王の第二年に神の言葉を受け、一緒に働きました。ハガイの預言はその後途絶えていますが、ゼカリヤにはダリヨス王の第四年目にも預言が与えられており、ゼカリヤのほうが長く預言者として働いています。ハガイは老人でしたが、ゼカリヤはまだ若く、ハガイがその働きを終えたあと、ゼカリヤがそれを引き継いだと思われます。ちょうど、エリシャがエリヤの働きを引き継いだのと同じです。
預言は直接神から与えられるもので、預言者はひとりで神の言葉を聞き、時には人々が聞きたくない言葉をも語らなければなりませんでした。たとえば、預言者エレミヤは、自分たちを攻め滅ぼそうとしている敵のバビロンに対して従順になれと預言しましたので、国を裏切る者だと非難されました。預言の務めはどちらかといえば孤独な務めでした。けれども、エリヤやエリシャが「預言者のともがら」(列王記第一20:35、列王記第二2:3など)、つまり、「預言者たちのコミュニィティ」を持っていました。真実に神の言葉に仕える人々の間には、エリヤとエリシャ、ハガイとゼカリヤ、新約ではパウロとテモテのように信仰のつながりがありました。それはともすれば孤独を覚える預言者たちの大きな励ましになったと思います。神に仕える者たちがひとりぼっちで倒れてしまわないために、神は具体的な助けとなる人を用意してくださっているのです。
預言者は、神からのメッセージを人々にとりつぐのですが、それをとりついだ預言者自身が、預言の内容をすべて理解できたわけではありませんでした。預言の内容には、それが与えられた時代を超えたものが多かったからです。それで預言者自身も、自分が聞いた神の言葉が何を意味しているのかを調べました。ペテロ第一1:10-11にこう書かれています。「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」預言者たちは、互いに、与えられた神の言葉の意味を求めて学び合ったことでしょう。それによって、人々が神の言葉によって希望を持ち、励ましを受け、また戒められて生活していくのを助けることができたのです。
イエス・キリストが来られ、使徒たちの時代が終わってからは、神の言葉は聖書を通して私たちに与えられています。ですから、聖書に導かれてイエス・キリストを信じる者たちも、この時代に対する「預言者」であると言うことができるでしょう。私たちは聖書のすべてを理解しているわけではありません。まだ解釈の定まらない難しい箇所も聖書にはいくつかあります。しかし、人が救われ、神に喜ばれる生活をし、天の御国に入ることができることにおいては、聖書は、誰も間違うことのないほど明らかにかかれています。私たちは、自らが聖書をよく学ぶことによって、まわりの人々に神の言葉を分け合いたいと思います。預言者たちが共に神の言葉を学び、助け合って神の言葉を広めていったように、イエス・キリストを信じる私たちも、教会で聖書を学び、助けあって、神の言葉を広めていきたいと思います。
二、ゼルバベルとヨシュア
さて、神殿の再建を指導したのは総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアでした。神殿の工事が順調に進み、その基礎が据えられるまでは、人々はゼルバベルやヨシュアのリーダーシップに従いました。ところが、神殿の工事が中止に追い込まれ、十五年もその基礎が野ざらしのままになった時、人々は、ゼルバベルやヨシュアを非難しはじめました。それで神は、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルについての預言を、ゼカリヤに与えました。それはゼカリヤ書の3章と4章に書かれています。
人々は、大祭司ヨシュアについて、「彼は、偶像の満ちたバビロンの生まれであり、偶像の汚れを身に負っているから、大祭司としてふさわしくない」と言っていました。ゼカリヤ3章の幻では、ヨシュアが「よごれた服を着て」(ゼカリヤ3:3)立っており、サタンが「ヨシュアは汚れている」と責めていました。しかし、神の言葉が臨みましたた。「彼のよごれた服を脱がせよ。…見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」(同3:4)人は誰も、罪を持ち、聖なる神の前に何の汚れもない人はありません。しかし、聖なる神は、ご自分がきよいだけでなく、そのきよさを人に分け与え、人をきよめてくださるのです。神がきよめた者を、人は「汚れている」と非難することはできません。ゼカリヤの預言は「ヨシュアは大祭司にふさわしくない」と非難していた人々に対する神からの言葉でした。
ゼカリヤ4章には、ゼルバベルについての預言が、同じように幻を通して示されています。その幻には金の燭台と二本のオリーブの木が登場します。金の燭台には七つのともしび皿がありました。ともしび皿には油が切れたころ、油をつぎたすのですが、このともしび皿には二本のオリーブの木につながっている金の管から、オリーブの油が絶え間なく注がれていました(ゼカリヤ4:2-3)。金の燭台は神の民のことです。黙示録でも、燭台は、新約時代の神の民、教会を指しています(黙示録1:20)。二本のオリーブの木はゼルバベルとヨシュアの二人です。この二人は「油そそがれた者」(ゼカリヤ4:14)と呼ばれています。「油そそがれた者」というのは、「神の任命を受けた者」という意味です。ゼルバベルとヨシュアの二人は、神が立てられた指導者であることが宣言されています。神は、そう宣言することによって、二人の指導者を、いわれのない非難から守り、神の民に、この二人のもとで心を合わせて神殿の再建とエルサレムの復興に取り組むよう教えられたのです。
三、聖霊によって
またゼカリヤ4章の幻は、神殿の再建とエルサレムの復興をもたらす力は聖霊から来ることを教えています。聖書では「油」は聖霊を表すものとして使われますが、ゼカリヤ4章に描かれている、燭台に絶えることなく注がれる油もまた聖霊を表します。ゼカリヤ4:6に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」とある通りです。ここでは「権力」も「能力」もほぼ同じ意味で使われていますが、あえて違いを言うなら、「権力」は組織の力を、「能力」は個人の力を指します。「権力」はペルシャの政府、宮廷を意味しています。神殿工事は、それに反対する人たちが、ペルシャの宮廷に働きかけたため、「権力」によって中止させられていたのですが、工事の再開は、ペルシャ王の許可を待たずに始まっています。ユダヤの人々は、ペルシャの権力、政府、宮廷の力によらず、神の霊、聖霊によって、それを再開したのです。
ゼルバベルを非難した人たちは、「能力」という言葉を、ゼルバベルの総督としての「力量」という意味で考えました。その人たちは「ゼルバベルはダビデ王朝の血筋を継いでいるから総督に選ばれただけで、実際は無能なやつだ。神殿工事の再開につながることを何ひとつしていないではないか」と、ゼルバベルを悪く言ったことでしょう。しかし、神は「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われました。ペルシャの宮廷の「権力」でも、ゼルバベル個人の「能力」によってでもなく、聖霊によって事がなされるのだと、神は言っておられるのです。
聖霊の働きは、今日、新約の時代には、もっとはっきりと示されています。私たちがイエス・キリストに導かれるためには、自分の罪が分からなければならないのですが、私たちに「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」てくださるのは聖霊です(ヨハネ16:8)。そして聖霊が私たちを救いの真理に導いてくださるのです(同16:13)。人は古い罪の性質を持ったままでは神の国に入ることはできません。新しく生まれ変わらなければなりませんが、人を神の子どもとして生まれ変わらせてくださるのも聖霊です(同3:5-6)。イエスの復活と昇天の後、弟子たちはなお10日待ち、聖霊を受けてから伝道を始めました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)とイエスが言われた通り、神のための働きは聖霊なしには出来ないのです。
ゼカリヤが見た幻では、二本のオリーブの木を通して油が燭台に注がれていましたが、その油はオリーブの木が作り出したものではありません。その油は聖霊ご自身で、聖霊が燭台を輝かせるのです。しかし、聖霊の油は、そこを流れる通路を必要としています。聖霊の「管」が必要なのです。聖霊がすべてをなさるのであれば、私たちは何もする必要がないというのではありません。聖霊が私たちを通して働かれるので、私たちには、聖霊の管となる「信仰」が求められているのです。
ゼルバベルとヨシュアは「油注がれた者」、神に選ばれ、任命された者でした。ふたりは、任命の油注ぎだけで、油注ぎを終えたのではなく、その後も信仰によって聖霊の油注ぎを受け続けました。聖霊が二人を通して神の民の間で働かれたのです。
力は聖霊のものですが、私たちはその聖霊の力を受け取り、また他の人に分け与える「管」となる必要があります。新聖歌392のおりかえしはこう歌っています。「用い給えわが主よ 用い給えわれをも 御恵みを取り継ぐに 通りよき管として」管があまり細くても油はよく流れません。また曲がっていてもそこで詰まってしまいます。穴があいたままではそこから漏れてしまいます。私たちが、漏れも、詰まりもない、まっすぐな管となり、その管の直径を広げていくことを、神は期待してくださっています。ヨシュアのようにきよめられ、ゼルバベルのように聖霊の管となる時、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という言葉が、現実のものとなるのです。
聖霊は、私たちの身近にいて、私たちを教え、導き、慰め、励ましてくださるお方、私たちの助け主です。聖霊に助けていただく事柄で、小さすぎるものはなく、また、大きすぎるものはありません。「こんな小さなことは聖霊に頼らずとも、自分の力でやればいいのだ」とか、「こんな大きなことは聖霊でもできないだろう」などと考えてはなりません。私たちが今かかえている問題や課題がどんなものであっても、聖霊に信頼する時、そこに最善の解決を見ることができるのです。
(祈り)
全能の父なる神さま。私たちには、自分の力ではどうにもならないことが数多くあります。しばしば、自分の力でなんとかしようとするのですが、どんなことにおいても、聖霊によらなければ、何一つ実現しません。あなたにきよめられ、整えられることを願う信仰により、私たちを、聖霊の通り良き管としてください。私たちの救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
1/26/2020