注がれている聖霊

テトス3:3-7

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3:3 私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
3:5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
3:6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
3:7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

 一、聖霊の慰め

 きょうは「母の日」で、こどもたちからお母さんたちへの賛美の贈り物がありました。私からも、挨拶を贈ります。「母の日、おめでとうございます。」きょうは、また、聖霊降臨日、ペンテコステです。ペンテコステと「母の日」が重なることはめったにありませんが、ペンテコステに「母の日」を祝うのはとても意味深いことだと思います。それは、聖霊がペンテコステの日に教会を産みだしてくださったからです。「母の日」に、こどもたちが自分を産み、育ててくれた母親に感謝するように、ペンテコステに、聖霊によって生まれた神のこどもたちが、教会を産みだし導いてくださった聖霊を礼拝するのは、とても素晴らしいことです。

 イエスが天に帰られてから10日後、弟子たちに聖霊がくだりました。そのとき、「ゴー」という、風が吹きつけるような音がし、炎のようなものが現れ、それは弟子たちの頭の上にとどまりました。その日は、ペンテコステのお祭りのために、各地から人々が来ていましたが、聖霊に満たされた弟子たちは、その誰もが聞いてわかるように、それぞれの国のことばで語り出したのです。大きな物音に驚いて、やってきた人々は、弟子たちがそれぞれの国のことばで話しているのを聞いて、また、驚きました。ペテロは、不思議な出来事に驚いている人々に、すかさず、イエス・キリストの十字架と復活を語りました。そして、罪を悔い改めてバプテスマを受けるよう勧めると、その日、三千人の人々がバプテスマを受け、エルサレムに教会が誕生したのです。教会は、短い年月の間にエルサレムからはじまって、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てへと広がっていきました。皆さんが、今、こうして、教会に集まり、礼拝をささげているのは、じつに、ペンテコステがあったからなのです。ペンテコステは教会が産みだされた日、教会の誕生日です。この日に教会の母である聖霊をあがめるのはふさわしいことです。

 今、私は、「聖霊が教会の母である。」と言いましたが、このことばは皆さんにとって耳慣れないことばだと思います。しかし、「教会はクリスチャンの母である。」ということばは良く耳にしますね。自分が洗礼を受けた教会を「母教会」と呼ぶように、教会は「母なる教会」なのです。洗礼を受けた教会だけが「母なる教会」ではありません。その人が属す教会も「母なる教会」です。すべてのクリスチャンは、今属している教会によって養われ、育てられ、導かれているからです。自分はもう一人前のクリスチャンで教会などなくても、やっていける、聖書があるから、教会の教えなどいらない、などと言って、教会を軽視する人が増えている現代ですが、ほんとうにそうでしょうか。小さな教会なら、ほとんどのメンバーの名前はすぐに覚えることができます。しばらくすると、さまざまな人と親しくなって、教会のことがほぼ分かってきます。組織や団体としての教会を知ることや、そこにとけ込むことは、そんなに難しくはありません。しかし、それで教会が分かったとは言えません。教会は、たんなる人間の団体ではなく、霊的なキリストのからだです。教会は奥義であって、簡単に知り尽くすことができるものではありません。私たちは、二千年の歴史を持ち、全世界に広がっている教会のどれだけを知っているというのでしょうか。ほんの一部にすぎません。母なる教会は大きく、そのふところは深いのです。また、「聖書があるから、教会の教えはいらない。」と言うのも間違っています。そういう人ほど、聖書を読み、学んではいないことが多いかもしれません。聖書を正しく教えるのは教会です。教会の教えから離れると、聖書を自分の都合のよいように解釈して、神から離れてしまいます。私たちは、従順なこどもになって、教会によって教えられ、養われ、成長していかなくてはなりません。昔から「教会を母とすることなしに、神を父とすることはできない。」という言葉があるほど、神のこどもは、母なる教会なしには、キリストの背丈まで成長することができず、父なる神をあがめることができないのです。

 私たちは、毎日の生活でさまざまな困難にぶつかります。健康で、一定の収入があり、家族に大きな問題のない場合であったとしても、自分の霊的な成長を願い、もっと神に仕える者になりたいと願うなら、必ず何らかのチャレンジがあります。何の困難もないというのは、自分の問題に向き合うことをしないでコンフォタブル・ゾーンに留まっているだけかもしれません。しかし、問題や困難があまりにも大きいと、疲れ切ってしまうことがあります。どんな時でも、神の子どもには母なる教会の慰めとささえが必要です。人のあつまるところには、さまざまなつまづきがあり、教会も例外ではありません。落胆してしまうようなことを目にし、耳にすることもあるでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、聖霊が教会の母であり、母親のように教会と教会に属する者とともにいてくだり、教会を養い育ててくださるということを思いみるなら、大きな慰め、励ましを得ることができます。

 みなさんの中には、こどものころ母親を亡くした人、最近、母親を天に送った人もあるかと思います。あるいは、こどもを亡くした人やこどものいない人もあるでしょう。そのような人は、母の日には、かえって辛い思いをするかもしれません。けれども、心に聖霊を迎えるなら、聖霊が私たちを母親のように包みこみ、深く慰めてくださいます。聖霊はじつに、慰め主として世に来られたのですから、ペンテコステのこの日こそ、聖霊の慰めを十分にいただき、落胆と悲しみから立ち上がらせていただこうではありませんか。

 二、聖霊の命

 「聖霊は教会の母である」と言っても、聖書に、そう書かれているわけではありません。しかし、聖霊のお働きをくわしく学んでいくと、聖霊がまるで母親のように働いておられることがわかります。いくつか例をあげましょう。

 まずは、創世記1:2です。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。これは、原始の地球の状態を描いています。大宇宙には、数えきれないほどの星がありますが、神は、この地球を選び、この地球を人間のすみかとして整えてくださいました。そのとき、聖霊も働いてくださいました。世界の創造には、父なる神ばかりでなく、聖霊も関わっておられたのです。「神の霊は水の上を動いていた」とあるのは、母鳥がその羽にひなをかくまうようなしぐさを表わします。最近、キャンベルの小さな公園を散歩したとき、野鳥が8羽、ひなが11羽いるのを見ました。足をとめて野鳥を見ていると、ひな鳥は親鳥がいくところどこにでもついていき、親鳥がたちどまると、かならず、その体の下にもぐりこんでいました。そのしぐさを見て、イエスが「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」(ルカ13:34)と言われたことを思い出しました。まだ人のすみかとしてできあがっていない地球を、聖霊は母鳥のように覆い、それを育むようにして造りあげてくださったのです。地球は、この大宇宙の中で、ただひとつの、命のあふれた、美しい星です。それは、聖霊が母親のようなこまやかな愛で地球を育まれたからだと思います。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)にあるように、宇宙を見、広大な自然を見るとき、私たちは、父なる神の全能の力を知るのですが、同時に、野に咲く花や、小さな動物たちの営みを見るとき、そこに、この世界を美しく、愛らしく造ってくださった聖霊の母親のような愛を感じるのです。

 次は、ヨハネ3:3ー5です。イエスは、ニコデモというユダヤの指導者に「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました。これを聞いたニコデモは、イエスの言われたことを理解できず、「人は、老年になってて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と答えました。そこで、イエスはふたたび、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と繰り返されました。「水と御霊」、これは、さきほど引いた創世記1:2のおことば、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」を連想させます。地球は、太陽系の中で唯一、水で覆われた惑星です。太陽に一番近い惑星は「水星」(Mercury)で、「水の星」と呼ばれていますが、そこにはごくわずかの水が氷の状態であるだけです。地球だけが「水の惑星」で、この水のおかげで、命が保たれているのです。「水と御霊によって生まれる」というのは、神が、この世界を水と聖霊によって命のあふれたものとして生み出してくださったように、聖霊が、罪の中に死んでいる人々を新しく生まれ変わらせてくださることをさしています。世界を創造された聖霊が、人類を再創造してくださるのです。

 最近、日本で、有名な女優の息子がドラッグを使っていたというので、警察に捕まりました。もうこれで三度目です。前回逮捕されたとき、その息子は、「生まれ変わったつもりでやりなおしたい。」と言っていたのに、また、繰り返してしまったのです。三度目の逮捕のとき、母親は、記者会見で、「できるものなら、この息子を産みなおしたい。」と言っていました。息子がどんなに罪を犯しても、見捨てることなく、その更正を願う、母親の愛が、「産み直してやりたい」ということばに現れています。けれども、人は、どんなに「生まれ変わりたい。」と願っても、「息子を産みなおしたい。」と願っても、自分の力では、生まれ変わることも、人を生まれ変わらせることもできないのです。それができるのは、聖霊だけです。今朝の箇所、テトス3:3-5も、ヨハネ3章と同じように、聖霊による生まれ変わりを書いています。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」(3:3)というのは、キリストを信じる以前の姿を描いています。これをさっと読んでしまえば、誰か他の人のことを言っているように感じてしまいますが、ひとつひとつのことばを、ゆっくりと読み、自分にあてはめてみると、「これは自分のことだ。」ということが分かってきます。私たちは罪を持っており、罪を犯してきました。

 「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(3:4-5)ここに、「聖霊による、新生と更新との洗い」とありますが、これは、バプテスマのことです。罪を悔い改め、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けるとき、私たちは生まれ変わり、新しくされるのです。人間の母親は、どんなにしても、こどもを産みなおすことはできませんが、聖霊は、悔い改めて信じる者を新しく産みなおしてくださるのです。バプテスマの水は、聖霊の与える命を表しています。あなたは、聖霊の命を受け、その命に生かされているでしょうか。

 第三は、エペソ4:30です。「神の聖霊を悲しませてはいけません。」とあります。聖霊は、私たちが罪を犯すとき、それを深く悲しまれます。とりわけ、救われ、神の子とされた人々の罪を深く悲しむのです。皆さんも、自分の子どもが何か悪いことをした時、まっさきに感じるのは「怒り」よりも「悲しみ」ではありませんか。他の人の子どものことなら、「なんて悪い子なんだ。」と言って「怒り」だけで終わるかもしれませんが、わが子の場合は、「うちの子はどうしてこんなことをしてしまったのか。そんなふうに教え、育てたはずではなかったのに。」と、嘆き、悲しみを覚えるものです。特に母親の場合はそうです。聖霊は、私たちを神の子として産みだしてくださったお方ですから、このような嘆きを持たれるのは当然なのです。私は、この箇所を読むたびに、聖霊を悲しませるようなことをしてはいけないと思うとともに、聖霊が私のことを悲しんでくださるほどに、私を愛しておられるのだということに、いつも慰められています。

 三、聖霊の愛

 これらの例は、聖霊の母親のような愛を示しています。神は、すべての愛のみなもとです。父の愛も、母の愛も、神から出ています。神は、父のような大きな愛を持っておられるとともに、母のようなこまやかな愛を持っておられます。神は言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)母が子どもを忘れ、捨てるようなことがあっても、神に頼る者たちを、決して忘れない、捨てないと、神は約束しておられます。詩篇に「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)とあります。私たちが神に立ち返った時に味わう不思議なやすらぎは、聖霊の母親のような愛から来ているのです。聖霊に頼る者は、まるで、母親に抱かれているような安らぎを感じることができるのです。私たちも、ちいさなこどものように、この愛に憩う必要があります。

 小さいこどもを持っている母親たちから、「大きな心でこどもを受け止めてやりたいと思うのだけれど、いつもすぐに、ガミガミと、感情にまかせてこどもを叱ってしまう。」ということを時々聞きます。「こどもを叱るときは10数えてからにしなさい。」というアドバイスがあります。しかし、いくら「10」数えても、「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,それ!」とばかりにこどもに怒鳴り散らすのであれば、意味がありません。「10」数えている間に、心を静め、客観的に考え、大きな視野でものごとを見なければいけないのです。それができるためには、「10」数える間に、聖霊を求めるとよいのです。父親も、母親も、まず、たましいの父である神の愛、母親のような聖霊の愛を受けることなしに、こどもや他の人に愛を分け与えることはできないからです。まず、神からの愛を受けましょう。神の愛は聖霊によって、私たちに注がれるのですから、聖霊を求めましょう。聖霊は、聖書が言うように、求める者に与えられます。悔い改める者に与えられます。信じる者に与えられます。従う者に与えられます。

 聖霊が注がれるとき、いつでも、ペンテコステの日にあったような風の音や炎のしるしがあるわけではありません。しかし、そこには、かならず、愛があります。神の父のような愛、聖霊の母のような愛がそこには伴います。ローマ4:5に「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とある通りです。私たちひとりびとりの心に聖霊の愛が満ちるとき、それは、家庭をうるおし、教会を温めます。テトス3:6-7はこう結んでいます。「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」聖霊は、イエス・キリストによって、私たちに注がれています。そして、聖霊によって神の豊かな愛が注がれています。この愛を残らず受け取り、その愛に満たされ、それを他の人々に分け与える者となりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、ペンテコステに聖霊を注ぎ教会を産み出してくださり、今も、教会に聖霊を注ぎ続けてくださっています。この世界にいのちを与えてくださった聖霊によって、私たちをも生かしてください。聖霊によって注がれる、あなたの愛を常に体験させてください。その愛を、私たちひとりびとりのうちに、また、教会の中に満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/11/2008