4:9 そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。
4:10 さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」
4:11 すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家にはいる女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。
4:12 また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」
4:13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
4:15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
4:17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた。」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。
4:18 ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、
4:19 ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、
4:20 アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、
4:21 サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、
4:22 オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。
一、混乱の時代
ルツ記の時代のイスラエルは、さばきつかさの時代で、まだ王がおらず、絶えず、まわりの民族に攻められ、そのため田畑が見捨てられ、しばしば飢饉がおこりました。神は、そんなイスラエルをあわれんで、「士師」と呼ばれる「さばきつかさ」を立て、イスラエルを外敵から救い出してくださったのですが、平和な時代は長くは続きませんでした。士師記に「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師21:25)とあるように、この時代のイスラエルは信仰的にも、道徳的にも混乱していたのです。
社会の混乱は、個人の心の中の混乱から始まります。まず、ひとびとの信仰が失われ、その結果道徳が乱れ、家庭が壊れていきます。現代がまさにそのような時代です。人々は、自分さえ良ければ、社会が混乱しようが、弱い人々が苦しもうが気にかけなくなり、どの国も、自分の国の利益だけを考え、世界全体のことを考えなくなりました。神が人のすみかとして造られた地球は、どんなに人口が増えても、十分に支えることができる食糧を生み出すことができ、人々を養うだけの資源を持っているのですが、みんなが我先にとそれを奪い合うために、世界の四分の一の人々が食べ過ぎのために病気になる一方、世界の四分の三の人々が、十分な食べ物がなく病気にかかりやすくなっています。アメリカには豊かな食べ物、さまざまな資源、広大な土地がありますが、それでも食べ物を買うことができない人、住む場所のない人が想像以上に多くいるのです。最近の金融危機のために仕事を失った人や、家を手放さなければならなくなった人が、皆さんの身近にもいることと思います。
ルツ記の時代に飢饉がありましたが、こんなに文明の発達した現代でも、人類は飢饉を克服することができずにいます。飢饉は、気候の変化によるものもありますが、多くは戦争や内乱によって引き起こされるものです。気候の変化もまた、環境を省みないで開発を進めてきた人間の罪から来ています。ローマ8:22に「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあるように、地球全体がうめき苦しんでいます。救いを求めてうめいています。地球のうめきは、毎日ニュースになって私たちの目にも耳にもが届いています。私は、そのうめきの声が急速に大きくなってきていると感じています。そのうめきや叫びが最高潮に達したとき、キリストは再び来られ、この世界を救ってくださると信じています。歴史を調べてみると、人類の歴史は、どの時代も、常に混乱の時代であったことがわかります。しかし、今は、それが最終段階に来ているように思われます。けれども神は、この混乱をそのままにしてはおかれません。この世界を、みごとに、美しく、愛すべきものとして造った神は、秩序の神です。神は、決して混乱を好まれるお方ではありません。混沌と闇に向かって「光よあれ。」と命じられた神は、みずから滅びに向かっている世界を新しい秩序に導き、救おうとしておられます。神を信じる者は、世界の混乱をいたずらに嘆くだけでなく、混乱の中にも示されている神の救いを見つめ、待ち望むのです。
二、信仰のあかし
ルツ記は、イスラエルの混乱の時代にも信仰と愛に生きた人々がいたことを証ししています。ルツ記を読む者は誰も、ルツとナオミの、嫁・しゅうとめの美しい物語に感動せずにはおれません。ナオミは、イスラエルに飢饉が襲ってきたとき、夫のエリメレクと、ふたりの息子といっしょにモアブに逃れました。その息子のひとりと結婚したのがルツだったのです。夫も、息子たちも、モアブの地で死に、ナオミはルツと別れを告げてひとりでイスラエルに帰るつもりでいました。しかし、ルツは、「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と言ってナオミから離れず、ナオミに付き従ってイスラエルにやってきました。ルツは、だれひとり知る人のない外国で、つらい思いをしながらも、しゅうとめのナオミに尽くし続けました。それだけでも、素晴らしいストーリーなのですが、ルツ記は、家族の愛以上のものを物語っています。ルツの素晴らしさは、彼女がモアブ人でありながら、「あなたの神は私の神」と言って、イスラエルの神を心から信じ、その信仰のゆえにしゅうとめに従い、仕え続けたことにあります。
ルツばかりでなく、ナオミも信仰に生きた人でした。ルツの信仰は、実はナオミから学んだものだったのです。ナオミは、夫と息子を異郷の地で亡くしました。その嘆きはとても大きなものでした。「ナオミ」という名前には「心地よい」という意味があります。しかし、ナオミの人生は心地よいものどころか、苦難に満ちていました。それで、ナオミは、故郷ベツレヘムに帰ってきたとき、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。」(ルツ1:20-21)と言ました。しかし、こう言うことによって、ナオミは神への信仰を捨てたり、神を恨んだりしたのではありませんでした。申命記32:39に「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」ということばがありますが、ナオミはこのことばを知り、信じていました。主権者である神は、同時に恵みとあわれみの神であり、私たちが受けた苦しみをそのままにはしておかれません。神は、それを償ってあまりあるものを必ず与えてくださる、神はかならず傷をいやしてくださるということをナオミは信じていました。ですから、ベツレヘムに帰ってきてからのナオミは、とても落ち着いていて、自分のことよりも嫁のルツのためになることを考え、行動することができたのです。やがて、ルツはボアズに出会うのですが、ナオミは、ボアズのことを聞いたとき、「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。その方は私たちの近親者で、しかも買戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」(ルツ2:20)と言っています。ナオミは、神に信頼し、ルツとボアズの出会いの中に、神の恵み深い導きを見出したのです。
ナオミの親類ボアズもまた、信仰の人でした。ボアズは広い畑地を持っていた裕福な人で、人々から尊敬されていましたが、おごり高ぶった態度のない人でした。彼は自分の畑を見回りにきたとき、収穫のために雇った人々に対して「主があなたがたとともにおられますように。」と挨拶し、雇い人たちも「主があなたを祝福されますように。」と答えています(ルツ2:4)。イスラエルの神、主への信仰が薄れていた時代にも、ボアズとその畑では、人々が主の名によって互いに祝福を祈りあっていたのです。ルツは、そこがボアズの畑だとは知らないで、落穂拾いにやってきましたが、ルツがなぜベツレヘムに来たのか、彼女がどんなにしゅうめに仕えているかは、すでにボアズの耳に達していました。それでボアズは、ルツに「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ2:11-12)と声をかけました。ボアズは、「主があなたのしたことに報いてくださるように。…主から、豊かな報いがあるように。」と、「主」の名を呼び、「主」の名によってルツに祝福を与えています。ボアズのことばは実にやさしく、温かいことばですが、それはたんに人間の善良さから出ただけのものではなく、信仰に裏打ちされたものでした。人間の生まれつきの親切は、相手が自分の気に入る間はいいのですが、少しでも自分の気に入らなくなると、相手に対して冷酷な態度をとるようになり、いじめに変わってしまうことがあります。親切にしてくれるからと、安心して相手に信頼したのに、手のひらを返したような目に遭って深く傷ついた体験を持っている人がここにもいるかもしれません。人間から出た親切はやがて冷たいものになっていきますが、信仰から出たもの、神の超自然の働きによるものは、ほんとうに人の心を温め、それはいつまでも変わらないのです。ボアズの親切は信仰から出た、ほんものの親切でした。
暗い時代であればあるほど、私たちも、ルツやナオミ、ボアズのように、信仰と愛の光を輝かせたいと思います。不安な時代であればあるほど確かな歩みをしたいと願います。みせかけだけの時代であればあるほど、本物を求めて生きていきたいと心から願い、互いにそのことを励まし合っていきたいのです。それが神を信じる人々の人生の目的であり、教会の使命なのです。
三、救いの予告
さて、ナオミは、ボアズのことを「買戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」とルツに告げました。この場合の「買い戻し」というのは、ナオミがモアブにいた間に手放した土地を買い戻すということだけでなく、途絶えてしまった、ナオミの夫、エリメレクの家を保つため、ルツと結婚することも意味していました。ボアズの他に、もうひとり、買い戻しの権利のある親戚がいたのですが、その人は、ルツと結婚することをためらい、この権利をボアズに譲りました。それでナオミの近親者ボアズが、ルツと結婚し、エリメレクの家を「買い戻し」たのです。
「近親者」はヘブル語で「ゴエル」と言い、これには「贖い主」という意味もあります。ボアズは、ナオミのために、失われていたものを取り戻し、その家を回復しましたが、ボアズのしたことは、イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことのひな形(プロトタイプ)になっています。イエス・キリストは私たちが罪のために失ってしまったものを取り戻すために、私たちの「ゴエル」、近親者、また贖い主となってくださったのです。人間は罪のために神との交わりを失いました。たましいの内面にある神のかたちを失いました。霊的ないのちを失いました。受け継ぐべき天国を失いました。主イエスが「人の子は失われた者を尋ねだして救うために来たのです。」と言われたように、私たちは何かを失っただけでなく、自分自身を失っているのです。みずからが失われたものになっているのです。ホアズは、ナオミの家を買い戻すために、自分が犠牲になるようなことはありませんでしたが、キリストは、ご自分のすべてを、いのちまでも投げ出し、ご自分が犠牲になることによって私たちを罪と死と悪魔から買い戻してくださいました。キリストを信じる者は、見捨てられてひとりになることはありません。信じる者を常に心にかけ、呼べば助けてくださる「近親者」を天に持っているからです。キリストを近親者として持つ者は、どんなときにも見捨てられることはないのです。
ボアズがルツを妻にしたように、キリストは、ご自分のいのちとひきかえに贖いとった者を、ご自分の花嫁と定め、神の民としてくださいました。異邦人であったルツがボアズの花嫁となったように、かつてはユダヤ人にだけにしか与えられていなかった神の民となるという特権を、キリストは異邦人にも与え、教会をキリストの花嫁としてくださったのです。ルツ記は、キリストを、贖い主、近親者、そして花婿として描いています。キリストをそのようなお方として本気で信じ、心から頼り、どんなことがあっても従う人は幸いです。そのような人の生涯は、混乱の時代にあっても、大きな祝福を受けるのです。
ナオミは夫を失いましたが、夫の土地を再び取り戻すことができました。息子たちを失いましたが、ボアズという義理の息子を持つことができました。そして、ルツとボアズの間に生まれた孫のオベデを胸にだく幸いを得たのです。ルツがオベデを産んだとき、ベツレヘムの女たちは、「その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。」(4:15)と言いましたが、このことばのとおり、ナオミは孫のオベデから老後の世話をしてもらい、満ち足りた人生を送ったことでしょう。かつて、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と、その心の苦しみを言い表したナオミでしたが、主は、彼女を文字通り「ナオミ」(心地よい者)としてくださったのです。やがてオベデからエッサイが生まれ、エッサイからイスラエルの王ダビデが生まれ、イスラエルに平和な時代が訪れるのですが、ナオミは、オベデを育てることによって、「王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」混乱の時代に、やがて来る平和のための準備をしていたのです。このダビデからキリストが生まれました。ナオミは、知らずして、やがて来られる、平和の君、キリストが来られる準備をしていたのです。ナオミは、自分が神の救いを受けただけでなく、神の救いがすべての人に与えられるために、神に用いられ、その役割を果たしたのです。
きょう敬老の日を迎えた、先輩のみなさんは、戦争とその後の社会の混乱、厳しい労働、病気、家族の問題など数多くの苦しみを通り抜けてきたことでしょう。しかし、その中で神を信じ、キリストに従うことによって、神の救いとキリストの恵みを体験してきたことと思います。そればかりでなく、ナオミがルツをまことの神への信仰に導き、多くの人々に神をあかししたように、みなさんも、家族や友人、まわりの人々が神を見いだし、キリストに従うために、神のお役に立つという喜びを味わってきたことでしょう。この体験を過去のものだけにするのでなく、これからも次の世代を育て、やがて来られるキリストの再臨に備えましょう。神がナオミの老後を祝福しナオミを用いられたように、主がひとりびとりを祝福して、生きる日の限り、この時代の光として輝がやかせてくださいますように!
(祈り)
父なる神さま、あなたは、混乱した時代や社会の中にも、神を信じる者たちを残してくださり、そうした人々を用いて、世界のための救いを備えてくださいました。今の時代は、これから、ますます混乱を深めることでしょう。しかし、あなたの愛と恵みは変わることなく、あなたは、その混乱の中でも、信じる者を導いてくださいます。今朝、私たちに、そのことを深く確信させてください。そして、生きる日の限り、信仰の光、真理の光、愛の光を輝かすことができるよう、恵みによって、私たちを力づけてください。主イエスのお名前で祈ります。
10/19/2008