8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
父の日おめでとうございます。「父の日」は「母の日」、ある人が男手ひとつで育ててくれた父親に感謝するパーティを開いたのがきっかけとなり、1934年に「父の日結成委員会」なるものが作られ、6月の第三日曜日が「父の日」なったということです。「母の日」があるのだから「父の日」もあってはいいのではないかということで、ついでに出来たものだそうです。今年、私の父親くらいの年齢の方に、ふだんのごぶさたをお詫びする意味で「父の日」のカードを出しましたら、「家族以外の人から父の日のカードをもらったのははじめてでした。ありがとう。」というEメールをいただきました。この方は白人の方ですが、「父の日」は、アメリカでも、「母の日」ほどは大切にはされないと言っていました。父親の愛は、母親の愛よりも目に見え、形に表われることが少ないからかもしれません。「父は打ち 母は抱きて 愛するを 異なる愛と 子は思うらん」と短歌に歌われているように、父親の愛は、子どもを叱り、訓練する愛であり、母親の愛は父親に叱られた子どもを慰める愛です。どちらも同じ親の愛であり、ただその表れが違うだけなのですが、子どもには、母親の愛は直感的に感じることができても、父親の愛を愛として理解するには時間がかかるのでしょう。父の愛は、普段あまり意識されないだけに、父の日に父親の愛を、思い返してみることは意義あることだと思います。そして、父親の愛を想うことから、父なる神の愛を想うことへと進むことができたら、もっと意義深いことと思います。父親の愛が、母親の愛とは違って直感的には感じにくいものであるように、父なる神の愛も、それを理解するには、じっくりとと聖書に向かいあい、みことばを想いみる必要があります。そのためには、時間も、努力も必要ですが、神の父としての愛が分かるなら、聖書に約束されているように、私たちは人生の勝利者になることができるのです。今朝のメッセージが、父なる神の愛をすこしでも分かっていただける助けになればと願います。
一、御子を愛された愛
聖書は、神は父であると言い、神の愛を父の愛として描いています。主イエスが話された放蕩息子のたとえでは、父親が神をあらわしていますし、今朝開いているローマ人への手紙にも、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。…私たちは御霊によって『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:14-15)と書かれています。聖書には、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)という箇所もあって、神の愛が母親の愛のように細やかなものでもあると教えられていますが、そのような箇所はそんなに多くはなく、やはり、多くの場合、神の愛は、父の愛として描かれています。なぜ、神の愛は「母の愛」ではなく、「父の愛」として描かれているのでしょうか。
それは、なによりも、神が、実際に「父」であるからです。神は御子イエス・キリストの父です。神は、たんに「父のような」お方であるとか、父としてふるまっておられるというだけではなく、神はイエス・キリストをひとり子として持っておられ、実際に御子イエスの父であるお方なのです。私たちは、神を「父なる神よ。」と呼びますが、実際のところ、神は、まず、「イエス・キリストの父なる神」です。よみがえられたイエスは、マグダラのマリヤに、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(ヨハネ20:17)と言われました。「わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神」という言葉は、本来はイエス・キリストの父であるお方を、イエス・キリストによって、はじめて、父とすることができる、本来はイエス・キリストの神であるお方が、イエス・キリストの救いによって、私たちの神となってくださるということを語っています。神は、イエス・キリストの父であるからこそ、私たちの父ともなってくださることができたのです。
私たちは、「神は愛なり。」と言う時、神の人間に対する愛を考えます。確かに神は、私たち人間を愛してくださいました。しかし、「神は愛なり。」というのは、神の永遠のご性質を言い表わすことばですから、神は、人間を造られる前も、神は愛であり、神は誰かを愛しておられたのです。その「誰か」とは、御子イエス・キリストのことです。「神の愛は永遠である。」と言いますが、神はその永遠のはじまりから御子を愛しておられました。この大宇宙や地球がいつ造られたのか、おそらく、誰にも分からないでしょう。それは、今まで言われてきたよりももっと最近に造られたのかもしれませんし、気が遠くなるような昔に造られたのかもしれません。しかし、それがどんなに昔であったとしても、永遠の神にとっては、ほんの最近の出来事にすぎないのです。神にとっては「一日は千年のようであり、千年は一日のよう」(ペテロ第二3:8)だからです。神は、人間を造り、人間を愛される以前から御子を愛しておられました。神が人間を愛された期間にくらべれば、御子を愛しておられた期間はもっと長いのです。神は、人間を造られた時から、愛することを始められたのではなく、永遠のはじめから御子を愛しておられたのです。これを、もっと身近なことばで言うなら、神の愛は、俄仕立ての愛ではなく、年季の入った愛であると言うことができるでしょう。
主イエスはヨハネ15:9で、ご自分の弟子たちに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」と言われましたが、これは、父なる神が御子を愛された愛で、主イエスが私たちを愛してくださったということを言っています。言い換えれば、神が、まるで、御子イエス・キリストを愛するかのように、私たちを愛していてくださったということです。このような神の愛は、私たちの思いをはるかに越えています。しかし、私たちには、その愛を想い見ることがゆるされています。聖書は「私たちが神の子どもと呼ばれるために、…御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(ヨハネ第一3:1)と言っています。この神の愛の広さ、大きさを、立ち止まって静かに考えてみたことがあるでしょうか。この神の愛を少しでも考えることができたなら、私たちは、劣等感から解放され、人をうらやんだり、ねたんだりせずに、自信をもって人生を生きることができるようになることでしょう。この神の愛を想いみながら生活できたなら、思い煩ったり、失望することなく、人生を生きていくことができるでしょう。
あなたは、すでに、この神の愛を受け取っているでしょうか。神に向かって「アバ、父。」と心からの親しみを持って祈ることができるでしょうか。ヨハネ1:12は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。イエス・キリストをあなたの救い主として、あなたの心と人生に迎え入れる時、あなたは、神の子どもとされるのです。御子イエス・キリストの父が、あなたの父なる神となり、あなたは、父なる神の子どもとなって、父の愛を受けるのです。父が御子を愛された愛で愛されるのです。世の中の愛は、親子の愛、夫婦の愛であっても移り変わっていきます。愛し合っていたはずの身内が憎しみあったりすることもあるのです。しかし、神の愛は変わることはありません。神は、ひとたび神の子どもとした者を決して見捨てることはありません。詩篇27:10に「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」とあり、イザヤ46:4には「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」とあります。神は、人間の父親、母親に勝る愛、変わらない愛で私たちを愛してくださっているのです。
二、御子を犠牲にした愛
父なる神の愛は、御子を愛した愛でした。「神が御子を愛した愛で、私たちを愛してくださっている。」―このことだけも、私たちは、十分には、理解できないのですが、聖書は、それ以上のことを教えています。父なる神が、愛してやまない御子を犠牲にしてまでも、私たちを愛してくださったというのです。ほんもの愛は、愛する者をけっして見放すことなく、捨てることなく、最後まで守り通します。ところが、神は、最愛の御子を、見捨て、十字架の上で罪人として死なせました。キリストの十字架の死、それは、昨年上映された「パッション」が描いているように、たいへんショッキングな出来事でした。神の御子が罪びととなって、苦しみぬいたあげく息絶えていくということは、人間の頭脳だけで考えても、その意味は分かりません。それは、歴史の中で最も悲惨な出来事、解く事のできない謎で終わってしまいます。しかし、聖書は、それは、神が人間への愛のゆえになさったことだと教えています。ヨハネ3:16は言っています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」神は、御子を、罪人である私たちの身代わりに十字架に死なせたのです。ここで、御子は、神の「ひとり子」と呼ばれています。神の御子は、何人もいるわけではなく、もちろん、おひとりなのですが、わざわざ「ひとり子」と書かれているのは、御子が、いかに、神にとって、かけがえのないお方であるかを言い表しています。神は、かけがえのないひとり子を犠牲にしてまで、私たちを愛してくださったというのが、ヨハネ3:16の教えるところです。神の御子に対する愛を少しでも理解できたなら、その御子を与えてまで罪人を救おうとされた神の愛がどんなに大きいかがわかります。
母親の愛は、どちらかと言えば、持っているものを守ろうとする愛です。家を守り、家族を守ろうとします。しかし、父親の愛には、持っているものを手放してまでも、相手を愛するという面があります。いつの時代にも、どの国でも、父親たちは、国を守るため、家族を守るため、また、他の人を守るために、あえて、危険な場所にも出て行きました。神の愛が「父の愛」と呼ばれるのは、人間を罪から救い出すために御子を犠牲にすることもいとわなかった、その愛のゆえでもあるのです。グスタフ・フォス神父と言えば、日本に「栄光学園」を建て、日本の教育界に少なからぬ影響を与えた人ですが、『日本の父へ』という本に、自分の父親の思い出を数多く書いています。そのひとつにこんな文章があります。
昭和40年、私は32年ぶりにドイツへ行く機会に恵まれた。予定していた仕事をすべて終えて、日本へ戻る前の日、私は父と長年親交のあった老神父のところに立ち寄って、別れの挨拶をした。「散歩しましょう」と誘われて、私たちは教会の裏手にある墓地へ行った。思いがけず、再び父の墓に別れをつげることができた後で、老神父は静かな秋の陽差しの中で話し始めた。「何もいわないで、黙って聞いてください。言っていいことかどうかわからないが、私はあなたの先輩なのですから、言わせてください」
老神父は、父の墓に向かったまま軽く頭を下げて、「あなたは、日本で大きな仕事をしているそうですね。立派な、大切な仕事だと聞いています。たいへん結構なことです」
それから私の方へ向き直り、私にじっと視線を当てて言った。
「しかし、あなたは、それがどれほどお父さんのおかげを蒙っているかしっていますか」
そして、「あなた」から、親しみをこめた「おまえ」に言い換えて続けた。
「おまえのおやじはえらかった。おまえに会いたくてたまらないと、時折私に漏らしていた。いつかまた会えるだろうと、死ぬまで思っていたようだ。でも、残念に思わないでほしい。おまえのおやじは、自分の犠牲は必ず神様が祝福してくださると堅く信じていたのだ。自分の祈りや犠牲によって、おまえの仕事を助けてやりたいと、口ぐせのように言っていた。おまえのおやじは、ほんとうに立派だった」
老神父はゆくり私に近づき、私の手をとって、
「あなたは力いっぱいやってきたでしょう。しかし、その力はまた、おやじの力でもあることを忘れないで下さい」
その日、父の墓の前に立って、私は初めて涙を流した。
カソリックの神父は生涯独身ですから、フォス先生の父親は、ふつうなら、孫たちに囲まれて過ごす老後の楽しみを犠牲にしたのです。それだけでなく、息子を宣教師として外国に送り出した父親は、息子といっしょに語り合ったり、仕事をしたり、食事をしたりという、ふつうの父親が持つ喜びも犠牲にしたのです。『日本の父へ』という本を読みますと、フォス先生のお父さんがどんなに、息子を愛していたが手にとるようにわかります。お父さんは炭鉱夫で、この世の学歴などはありませんでしたが、信仰と知恵とに富んだ人で、フォス先生のたましいの教師でした。この父と子の間には、深い愛のきずながありました。それだけに、わが子を手放し、外国に送り出した父親の痛みはどんなに大きかったことでしょう。しかし、フォス先生の父親は、喜んでその犠牲を払いました。父なる神は、その犠牲の愛で御子イエスを地上に送り、十字架へと送り出しましたが、フォス先生のお父さんは、その愛を知っていたからこそ、32年間、息子に会いたいと願いながらも、その思いを神にささげ、息子のために祈りながら生涯を閉じたのです。
私たちは、ご自分の御子を手放した神の愛によって救われています。この愛によって、人生に勝利を得ることができます。ローマ8:32に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とあります。キリストの十字架の死が、自分の罪のためであったと認めない人には、それはまったく無意味なものかもしれませんが、そこに神の大きな愛を見る者たちには、十字架は勝利のしるしなのです。御子をさえ、私たちに与えてくださった神が、私たちの人生に必要な他のものをくださらないわけがないからです。ローマ8:37に「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるなるのです。」とあります。口語訳では「勝ち得て余りがある」となっています。相撲で言えば8勝7敗、やっと勝ち越しというのではなく、全勝優勝のような勝利が与えられるというのです。続く38-39節はこう言っています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」「死も、いのちも」というのは、死ぬに死ねず、生きるに生きられないというせっぱつまった状況を表しているのかもしれません。「御使いも、権威ある者も」というのは、目に見えない霊的な世界を表しているのでしょう。「今あるものも、後に来るものも」という言葉に、私は、今ある問題に苦しみ、後に来るわざわいに心配する人間の姿を見ます。「力ある者」はこの世の権力者を表しているのでしょうか。「高さも、深さも」ということによって、世界のいっさいがっさいが含まれるのでしょう。しかし、聖書は、こうしたものは被造物にすぎないと言い切っています。それがどんなに大きく見えても強く思えても、しょせんは造られたものにすぎない、どんな被造物も創造者に立ち向かうことはできないのです。この確信はどこから来るのでしょうか。創造者と被造物とを区別できたからといって、それでこうした確信がやってくるわけではありません。それは、創造者である神が、イエス・キリストの御父であり、私の父となってくださっり、その父としての愛で私たちを愛してくださっていることを信じる信仰から来るのです。神の愛を知る者は、私たちの理解を越えるような問題や、手に負えない困難がやって来ても、そうしたものが「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」との確信を持つことができます。この神の愛によって、この世を力強く生き抜くことができるのです。
(祈り)
主なる神さま、私たちがあなたを「父」と呼ぶことができるために、あなたはどんなに大きな愛を与えてくださったことでしょうか。あなたが御子を愛された愛で私たちを愛しておられることや、あなたが御子を十字架で死なせるほどに、私たちを愛されたことのどちらも、私たちの限られた力ではとうてい理解できるものではありません。しかし、私たちは、この神の愛がイエス・キリストによって、私たちのものとなり、聖霊によって私たちの心に注ぎ込まれていることを知り、体験しています。この愛によって、私たちは支えられ、生かされています。不確かな愛しか知らないこの時代の人々に、あなたの愛を示すことができるためにも、私たちに、あなたの愛を深く思い見、あなたの愛に生かされ生きるものとしてください。今も変わらない救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/19/2005