8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
8:30 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
一、キリストのとりなし
先週木曜日は、イエスが天にお帰りになったことを記念する「主の昇天日」でした。それで今日は、「主の昇天主日」と呼ばれます。
天にお帰りになったイエスは、「父なる神の右の座」にお着きになりました。イエスが神の「左」でなく、「右」におられるというのには意味があります。聖書で「右」という言葉は、権威や力を表わします。イザヤ41:10に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」という言葉があります。神の右の座というは、最高の権威を表わし、イエスがそこに着座されたというのは、イエスが神の国の王となられたことを意味しているのです。
イエスが神の右の座に着座されることは、詩篇110:1に預言されていました。「主はわが主に言われる、『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』」とあります。イエスは、ここを引用して、「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」(ルカ22:69)と言われました。ペテロも、ペンテコステの日にここを引用しています(使徒2:35)。また、その手紙にもこう書いています。「キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。」(ペテロ第一3:22)
イエスは神の右に王として座しておられますが、同時に、大祭司としてもそこにいてくださいます。ヘブル8:1-2にこうあります。「以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」祭司の務めは、神と人との仲立ちとなることです。人に対しては神を代表して神の言葉を与え、神に対しては人々の祈りを代弁すること、「とりなす」ことです。キリストは、その御言葉と力によって天から人々を支配されるだけでなく、そこで、人々のために祈っていてくださるのです。ヘブル4:14-16にこう書かれています。「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」キリストの王座が、いつでもそこに行けば助けを受けることができる「恵みの座」になったのです。
わたしは、この言葉を読むたびに、王座で堂々と座っていてよいお方が、その座から降りて、跪き、身をかがめて祈っておられる姿を、想像します。主であり、王であるお方が、わたしたちのためにとりなしてくださる。わたしたちは、天に最強のとりなし手を持っている。これ以上に心強いことはありません。
二、聖霊のとりなし
もうひとつのとりなしがあります。わたしたちは、このキリストのとりなしと共に、聖霊のとりなしをも持っています。ローマ8:26にこう書かれています。「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」
わたしたちは祈りがどんなに必要で、大切なものかを知っています。祈りが信仰を成長させ、ものごとを解決する力であることを知っています。天でキリストがとりなしてくださることも知っています。そうであるなら、わたしたちは、信仰と確信をもって、もっと大胆に祈ることができるはずです。なのに、わたしたちは「祈る」ことにおいて無力なのです。会社で良い仕事をし、社会で認められる働きをしている人であっても、「祈る」という一番大切なことで、力がないということはよくあることです。教会でさまざまな活動をしている人でも、深く祈ることができないでいる場合があります。聖書の知識に富んでいても、祈りの生活が貧しいということもあり得るのです。
ローマ8:26に「弱いわたし」とありますが、この「弱さ」は、おそらく霊的な弱さ、祈ることにおいての弱さだろうと思います。現代のアメリカの教会は、伝道、宣教、教育ばかりでなく、社会的な事業においても大きな力を持っています。しかし、「祈り」においては、どんどん力を失っているように思います。教会は本来は、「すべての民の祈の家」(イザヤ56:7)でなければならないのに、祈りのない教会が増えています。教会で祈りが教えられず、若い人たちが祈りのない生活を送るようになったら、いったいどうなることでしょうか。教会はその信仰も力も失い、今までできたことをも、できなくなってしまうことでしょう。
主は、わたしたちの、この弱さをご存知なので、わたしたちをその弱さから救い、力づけるために、聖霊をくださいました。主ご自身の天でのとりなしとともに、聖霊の、信じる者の内側での、とりなしをも備えてくださったのです。
わたしたちは、大きな苦しみに出会ったときこそ、懸命に祈らなければならないと分かっていても、その苦しみの大きさのため、祈れなくなってしまうことがあります。それは、牧師も例外ではありません。ある牧師が、突然、子どもを交通事故で亡くしたあと、数カ月、祈ることができなくなったと、話してくれたことがありまた。神を信じることができなくなったわけではないのですが、祈れなくなったのです。精神的なショックがそうさせたのでしょう。「どう祈ったらよいかわからない」ということの中には、「祈れなくなる」ということも含まれるのかもしれません。
しかし、そんなときでも、わたしたちのたましいは、「神さま」、「主よ」、「イエスさま」と叫んでいます。この叫びを生み出してくださっているのは、信じる者の心のうちに住んでおられる聖霊です。ローマ8:15に聖霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶ、とあります。神を「父よ」と呼ぶことができたら、たとえ、そのあとに、言葉が続かなくても、それは立派な祈りです。「父よ、父よ」と繰り返せばよいのです。「神さま、神さま」と呼び続ければよいのです。聖霊は、言葉にならないうめきを聞き取り、それを主イエスに届け、主イエスは父なる神にとりなしてくださいます。どんなに祈れないときにも、聖霊は、わたしたちに神を呼ぶ、最初の言葉を与えてくださいます。そして、神を呼び続けるとき、そのあとに、かならず、祈りが続いて出てくるのです。これが聖霊のとりなしです。
三、とりなしの力
祈りにおいて自分の弱さを認め、聖霊のとりなしを願いながら祈る。そのとき、わたしたちの祈りは、真実な祈りになっていきます。聖霊のとりなしを願うとは、聖霊とともに祈るということです。聖霊と共に祈る祈りは、集会のはじめやおわりの合図のような形式だけの祈りでも、表面的な祈りでもありません。聖霊は神の思いと人の心の両方をご存知です。聖霊のとりなしを受けることによって、わたしたちの思いは神に届き、そればかりでなく、わたしたちは祈りを通して、神の思いを知り、それを自分の思いとすることができるのです。
聖霊のとりなしはじつにパワフルです。聖霊のとりなしは、神のもとに届き、それは神の腕を動かすのです。ローマ8:28に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあります。「神を愛する者」とは誰のことでしょう。神の名を呼ぶ人、聖霊によって祈る人です。どのようにして「万事が益となる」のでしょう。それは、聖霊のとりなしによってです。万事が益となったのが、聖霊のとりなしによってであることをどうやって知るのでしょう。祈りによってです。聖霊によって祈ることによってです。
聖霊によって祈ることがなければ、神のみこころに無頓着になり、何を、どう選択して生きるかということを考えませんし、ましてや、みこころを問うこともありません。そのときの好みで、その場の気分でものごとを選びます。身の回りのことの中に神の道筋を認めるのでなければ、「万事が益」となることを見ることができないのです。しかし、聖霊と共に祈る人には、神の御業を知り、その中に祈りの答えを見ることができるのです。
ローマ8:34にこうあります。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」聖霊のとりなしではじまったこの段落は、神の右におられるイエスのとりなしで終わっています。聖霊は常に、わたしたちの目をイエスに向けさせます。聖霊のとりなしによって祈る者が、最もよく、父なる神の右の座におられる主を仰ぐことができます。イエスのとりなしに信頼を寄せて祈ることができるようになります。主イエスのとりなしと聖霊のとりなし、ふたつの力強いとりなしを覚えて祈りましょう。それをはっきり、意識することによって、わたしたちの祈りは、より真実な祈りに、確信に満ちた祈りになるのです。聖霊のとりなしをいただいているわたしたちが、他の人のためにとりなすことができるようになるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、わたしたちの祈りが確実にあなたのもとに届くため、キリストのとりなしを天に備えてださいました。そればかりか、祈ることに弱さを覚えているわたしたちのために聖霊のとりなしを与えてくださいました。天にあるとりなしと、自分の内にあるとりなしによって、わたしたちに祈りの力と確信、導きを与えてください。聖霊の祈りを、祈りの聖霊を、なおもわたしたちに与えてください。イエス・キリストの御名で祈ります。
5/13/2018