聖霊のとりなし

ローマ8:26-27

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8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 一、聖霊と私たち

 きょうはペンテコステ。弟子たちがエルサレムに集まって祈っていると、ひとりひとりの上に、聖霊が降りました。復活して天に帰られたイエスが、約束の聖霊をお与えになったのです。聖霊に満たされた弟子たちは力強くキリストの復活をあかしし、教会が生み出されました。この日から、教会は様々な困難や迫害を乗り越えて、福音を語り続け、瞬く間に全世界に広がっていきました。聖書に「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)とあるとおりです。イエスが弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは…わたしの証人となります。」と約束されたことがその通りに起こったのです。

 聖霊は特定の人だけにではなく、聖霊を待ち望んでいたすべての人に与えられました。エルサレムに集まっていた120人の弟子たちの「ひとりひとりの上にとどまり…みなが聖霊に満たされた」(使徒2:4)のです。120人の中には使徒たちだけではなく、他の弟子たちもいました。母マリヤをはじめとする女性たちもいました。聖霊は使徒たちと他の人々という区別も、男性、女性という区別もなく、「ひとりひとり」にとどまり、「みな」を満たしたのです。ペンテコステの日に3000人の人々がバプテスマを受けましたが、もし12名の使徒たちにしか聖霊が与えられなかったとしたら、12名で3000人の人々を導くのは大変なことだったでしょう。ひとりで250人もの人々を導かなければなりません。3000人というのが男性の数だけだとしたら、それは「3000家族」という意味になりますので、使徒たちはひとりで250家族の世話をしなければならなかったことになります。しかし、神は120人のすべてを聖霊で満たし、最初の教会を導く力をお与えになりました。ひとりが25人、あるいは25家族のお世話をするということで、一度に大勢のメンバーが加えられても大丈夫なようにしてくださったのです。

 しかも、120人の聖霊を受けた人が、3000人の聖霊を受けていない人を導いたというのではありません。もしそうなら、教会はあのようには成長しませんでした。ペテロはペンテコステの日に、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリスト名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と教えました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた3000人もまた聖霊を受けたのです。指導するものも、それに従うものも、みなが聖霊を受けていたので、そこに聖霊による一致が生まれ、教会が前進したのです。教会があの大ローマ帝国にから信仰の自由を勝ち取ることができたのは、バプテスマを受けたひとりびとりが聖霊を受け、聖霊の力を体験していたからです。初代教会の力の秘密はここにあります。初代教会ではバプテスマを受ける者が聖霊を受けるようにとの祈りが積み重ねられていました。聖霊の働きが意識され、聖霊の満たしが教えられていました。聖霊を受けること、聖霊に満たされることは、教会の指導者や特別な人たちだけの体験ではありません。すべてのクリスチャンには、自分のうちにおられる聖霊のお働きについて知り、その聖霊のお働きを受け入れる信仰が求められるのです。神はすべての人が聖霊に満たされることを願っておられます。

 二、聖霊と救い

 しかし、聖霊に満たされたからといって、すべての人が奇蹟やいやしを行い、人々の前で語ったり、教えたりするわけではありません。みなが同じ聖霊を受けてはいても、それぞれに与えられる聖霊の賜物や表われ方は違っています。聖霊によって定められるひとりひとりの立場や役割も違っているからです。しかし、神の子とされること、救いの保証を持つこと、そして祈りを助られることは、すべてのクリスチャンに与えられている共通した聖霊の賜物です。

 このことはローマ人への手紙8:14-27にくわしく書かれています。きょうの朗読箇所は26-27節だけでしたが、すこしさかのぼって、14節から読んでみましょう。

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 ここでは、聖霊がキリストを信じる者を神の子どもにしてくださると教えられています。主イエスは「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハネ3:5)と言われました。「水と御霊」と言われている「水」はバプテスマのことです。聖霊は、バプテスマを通して信じる人に働き、その人を新しく生み出してくださいます。ですから、信じてバプテスマを受けた人は、神から生まれた者、神の子どもです。聖霊は、信じる者を神の子どもにしてくださるのです。しかし、それだけでは、キリストを信じてバプテスマを受けた者が、神の子としての自覚を持ち、それを保ち続けることは困難です。神の子としての自覚や確信というものは、神の愛を受け、また、神の愛に応えて神を愛して生きていく生活の中に生まれるものだからです。そしてそれを与えてくださるのが聖霊です。聖霊はキリストを信じる者を生みっぱなしにしておかれるのではなく、神のことばによって養い育て、信仰者の心に神の愛を注ぎ(ローマ5:5)、その心を神に向けさせてくださるのです。

 次に8:17-25を読んでみましょう。

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 ここには、聖霊が救いの保証であると教えられています。聖書が教える救いには「過去」、「現在」、「将来」の三つの面があります。キリストを信じる者は、すでに「罪の刑罰」から救われています。イエス・キリストの十字架がそれを取り除いてくださったからです。これが「過去の救い」です。ここから、クリスチャンとしての生活が始まるのですが、その生活は、何の戦いもないものではありません。むしろ、信仰を持つまではあまり感じなかった罪の誘惑を、信仰を持ってから強く感じるようになります。罪の中に生きていた時には平気だったものが、救われてからは戦いとなるのです。「私はキリストを信じて、救われた」ということに落ち着いて、のんびりはしていられない、もっとキリストに信頼し、罪と戦い、この世に勝ち、さらに救いを求めなければならないことが分かってくるのです。しかし、日々の信仰生活の中で、神は頼る者を「罪の力」から守ってくださいます。これが「現在の救い」です。

 けれども、この戦いは永遠に続くのではありません。やがて、そのような戦いが終わるときが来ます。もはや罪も死も、悲しみも、いっさいの汚れもない天の御国を受け継ぐときがきます。そのとき、信仰者は、「罪の刑罰」や「罪の力」から救われるばかりでなく、「罪の存在」そのものからも救われるのです。これが「将来の救い」です。ローマ8:17-25は、この世にあって信仰者はうめき苦しむことがあっても、将来の救いが約束されており、その保証として、神は信じる者に「御霊の初穂」をお与えになったと教えています。23節に「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」とあるとおりです。「初穂」というのは、春になってはじめて実を結ぶ麦の穂のことです。初穂が豊かであれば、その後の収穫が豊かであることは保証されるのです。神は天での豊かな収穫の保証として、今、この世を生きる私たちに聖霊を与えて、平安と力、慰めと励ましを与えてくださっているのです。ユダヤのペンテコステのお祭りは「初穂の祝い」でした。この日に聖霊が降ったのは、聖霊がまさに、私たちの救いの保証であることを告げているのです。

 自分が神に愛されている神の子どもであることが分かったなら、私たちは無意味な劣等感や優越感などから解放され、正しい意味で自分を愛し、人を愛し、そしてなによりも神を愛することができるようになることでしょう。そうなったなら、たとえ、奇跡やいやしなどの他の聖霊の賜物がなかったとしても、教会は力強く神をあかしし、前進していくことができるでしょう。ひとりひとりが、自分が聖霊を受けており、聖霊が自分を救いの完成まで導いてくださるということが分かるなら、信仰の歩みはどんなに確かなものになることでしょう。自分の使命を果たしながら、確実に救いの完成に近づいていく意義ある人生を送ることができるようになるのです。

 三、聖霊と祈り

 そして、聖霊は私たちの祈りを支え、助けてくださいます。26-27節をもう一度読みましょう。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 26節に「私たちは、どのように祈ったらよいかわからない」とありますが、まさにそうですね。以前のことですが、バプテスマを受けてまもなく祈り会に出席するようになったある人が、最初のころ「どう祈っていいか分からない。祈れないのに祈り会に出てもしょうがない…」と言っていたのを思い出します。信仰を持つまでは、誰も、神に語りかけるという体験がありませんから、何をどんなことばで祈ったらよいのかわからないのは当然だと思います。私はその人に「祈り会は、よく祈れる人だけが来るところではなく、祈りを学びたい人が来るところです。他の人の祈りに耳を傾けて、最後に『アーメン』と唱和するだけでもそれは立派な祈りなのですよ」と励ましました。その人は続けて祈り会に出席しているうちに、まもなく、さまざまな課題を自分のことばで祈ることができるようになりました。聖霊がその人に祈りを教えてくださったのです。最初はよく祈れなくても、祈っているうちに、聖霊が助けてくださることを、皆さんも体験していることと思います。

 激しい試練に会って、苦しくてしょうがないとき、私たちの祈りは、祈りとは呼べないようなつぶやきやうめきになってしまうことがあります。しかし、聖霊はそのような祈りをも斥けないで、私たちと一緒になってうめいてくださいます。そんなふうにして祈りはじめた祈りでも、最後には、「神さま、あなたに委ねます。ハレルヤ、感謝します」という、自分でも思ってもいなかったことばが口から出てくるのを、私は何度か体験していますが、皆さんも同じではないでしょうか。皆さんも「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」ということばが本当なんだと実感していることでしょう。

 ローマ8:15に「私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」とあります。聖霊が私たちに神を「アバ、父よ」と呼ばせてくださるのです。「アバ」というのはユダヤの人々が父なる神に対して、愛情と信頼と尊敬を込めて呼びかけるときに使うことばです。「アバ」には "Father" という意味もあれば、"Daddy" という意味もあります。ときどき、私たちは「神さま」と呼びかけるだけで、そのあとの祈りが続かないことがあります。あまりにもショックなことがあって、心が混乱してしまっているときには、「神さま」、「神さま」、…と神を呼ぶだけで終わってしまうこともあります。また、神の偉大さに心打たれたり、神の恵みが心を支配するとき、ことばを失ってしまうこともあります。祈りとは「主の名を呼ぶこと」なのですから、そのあとにことばが続かなくても、「父よ」という呼びかけそのものが祈りだと言ってよいのです。聖霊の「言いようもない深いうめき」とは、私たちの唇からでる「アバ、父よ」という単純な信頼の呼びかけなのかもしれません。「神さま」、「イエスさま」と呼びかけたあとのことばが口に上ってこなくても、こころは祈っているのです。聖霊も共に祈っていてくださるのです。ですから、安心して神に心を向けましょう。

 聖霊は、信じる者を神の子どもとし、救いの保証となってくださいました。そして、さらに、信じる者の心を神に向け、神への祈りに導いてくださいます。親を呼ばない子どもがいないように、「アバ、父よ」と言って、父なる神を呼ばない神の子どももありません。聖霊は神の子どもに神を呼ぶこと、神に祈ることを教えてくださるお方です。信仰者を祈りに導き、その祈りを助け、支えてくださるお方です。聖霊をいただいている私たちは、聖霊のとりなしを信じ、それに励まされ、さらに祈り続け、祈りの中で聖霊を体験していこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、ペンテコステの日に、弟子たちひとりひとりが聖霊を受け、みなが聖霊に満たされました。同じように、あなたを信じるひとりひとりが聖霊を受けていることを、知り、信じ、体験できますように。バプテスマを受けた者がみな、聖霊のお働きについて、正しい理解に導かれ、同じ熱意をもって聖霊を求めることができますように。あなたは私たちをあなたの子どもとしてくださいましたから、あなたを「アバ、父よ」と呼び求め、祈り続ける者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/23/2010