神を呼ぼう

〜南カリフォルニア・クリスチャン・リトリート〜

ローマ8:14-26

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8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 皆さん、今朝、目覚めて、最初に口にした言葉は何だったでしょうか。口に出さなくても、心に浮かんだ言葉は何だったでしょうか。「眠いなあ」「きょうも暑いんだろうか」「からだのあちらこちら痛いなぁ」などいった言葉でしょうか。最初の言葉が「ハレルヤ」だったら素晴らしいですね。「神さま」、「イエスさま」と神のお名前が心に浮かび、口にのぼるなら、どんなに、主は喜ばれることでしょう。

 イエスは私たちに「天にいますわれらの父よ」と祈れと教えました。もとの言葉では、「父よ」「われらの」「天にいます」という順序になっていますから、「父よ」が最初の言葉です。ローマ人への手紙では、「アバ、父」とあります。イエスは親しみを込めて「アバ」と祈っておられました。目覚めて最初に口にした言葉が「父よ」であれば、それは、主の教えにかなうことだと思います。

 「主の祈り」では、「父よ」という呼びかけのあとに、六つ、あるいは七つの願いが続きます。しかし、そのあとに、「御名をあがめさせたまえ、御国をきたらせたまえ」などという願いが続くことがなくても、「父よ」という呼びかけにそれらのものが含まれています。「父よ」という呼びかけ自体が祈りであると言ってよいと思います。

 では、私たちは「父よ」という祈りをどのような心で祈ればよいのでしょうか。それを知るために、「父よ」という「呼びかけ」また「祈り」の中に含まれているいくつかのことをご一緒に考えてみましょう。

 一、キリストにあって

 その第一は、私たちが、神を「父」と呼ぶことができるのは、キリストにあってだということです。

 私たちはすべて神に造られたもので、神を「創造者」という意味で「父」と呼ぶことができます。しかし、そこには、愛情にもとづいた親子関係はありません。創造者である神は、被造物をいつくしんでくださいますが、私たち人間は、神が創造者であることさえ否定し、神から離れているのです。マラキ書にこうあります。「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこにわたしへの尊敬があるのか。もし、わあしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。」(マラキ1:6)神への愛を持たないで、神を「父」と呼ぶことはできません。

 しかも、聖書によれば、神から生まれた本来の御子はイエス・キリストだけです。イエスだけが神を父と呼ぶことができ、父なる神から「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17、17:5)と呼ばれる資格のあるお方です。

 ところが、イエスは復活ののち、弟子たちにこう言われました。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」(ヨハネ20:17)一体、どういうことなのでしょう。イエスが十字架にかかられたとき、イエスを見捨てて逃げ隠れしていた弟子たち、また、復活の知らせを聞いても信じようとしなかった弟子たちに、イエスは「わたしの兄弟」と呼び、「わたしの父」が「あなたがたの父」となってくださったと宣言されたのです。父と御子との関係は、永遠の関係です。教父たちは「永遠のはじめに父が子をお生みなった」と言っています。それは、どんな被造物もそれにあずかることはできないものです。そうであるのに、イエスは、弟子たちを、ご自分が父と持っておられる関係の中に招き入れてくださったのです。イエスの父が私たちの父であるようにしてくださったのです。

 どうしてそんなことが可能なのでしょうか。私たちにはすべてを理解することはできません。被造物であり、しかも、罪ある人間は、自分の力で自分の罪を贖い、神の子の身分を勝ち取ることなど、決してできはしません。罪ある者は、罪を重ねるしかないのです。それは、石が坂道を上から下へと転がっていくのと同じです。罪ある者は義(ただしさ)に向かうことができず、汚れたものは聖なるものになることができず、被造物は創造者の領域に足を踏み入れることができません。神のおられる天に行くことができず、それを垣間見ることもできないのです。下から上へは登れないのです。

 しかし、上から下へはくだることができます。神はご自分を低くされ、この世を訪れてくださいました。御子イエスを人としてこの地に送り、御子は私たちの苦しみ痛みを引き受け、その罪を背負って十字架に死なれました。そのとき御子は、私たちのかわりに「罪人」となられたのです。しかし、神は御子を復活させ、私たちをもその命にあずからせくださいました。その時、神は、御子の命とともに、御子の持っておられた神の子の身分にあずからせ、私たちを神の子どもとしてくださったのです。そして、御子の昇天とともに、私たちを天に引き上げてくださったのです。私たちが神を「父よ」と呼ぶことができるために、このような大きな恵みが背後にあるのです。私たちはその恵みに感謝せずにはおれません。

 2003年4月、私は、加藤常昭先生を講師として教会にお迎えすることができました。加藤先生は日本キリスト教団でも「福音派」と呼ばれる教会の出身でしたので、「天のお父さま」と祈っていたら、「そんな甘ったれた祈りをしてはいけない。私たちが神の子となったのは、キリストのゆえなのだから『イエス・キリストの父なる神』と、畏敬の念をもって呼ぶべきである」と教えられ、それ以来、「イエス・キリストの父なる神」と祈るようになったと話してくださいました。私たちは「天のお父さま」と祈ることに慣れ親しんでいますので、そう祈ってさしつかえありませんが、たとえ、「イエス・キリストの父なる神」という言葉を使うことがなくても、神を「父」として呼ぶとき、神がイエス・キリストにあって、はじめて、私たちの父となってくださったということを忘れることなく、イエスの御名を覚えながら、「父よ」と呼びたいと思います。

 二、聖霊によって

 第二に、わたしたちは聖霊によって「父よ」と祈ることができます。ローマ8:14-16はこう言っています。

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 私たちは、神の御子が来て、私たちを贖い、罪人を聖徒に、罪の奴隷を神の子どもたちにしてくださったことを知っています。しかし、私たちは少しも聖徒らしくなることができず、いまだに神の子どもらしくないことをしています。誘惑に負け罪を犯したとき、つい感情的になって人を傷つけてしまったとき、うぬぼれて自慢話を長々としてしまったとき、楽な思いをしたいためにしなければならないことを避けてしまったとき、…。私たちの心は曇り、「それでも神の子なのか」と自分を責めてしまいます。

 家族の中で、あるいは職場や地域で、大きな失敗をしてしまったときには、自分で自分を責めるどころか、人々からも、「それでもクリスチャンなのか」と責められることさえあるでしょう。私たちの日々は、いつも順調とは限りません。雨の日もあれば嵐の日もあります。そんなときこそ、「父よ」と神に祈らなければならないのに、それすらもできなくなってしまうこともあるのです。

 この世では、雨の日には傘をもぎとられ、嵐の日には置き去りにされます。人々は順調なときには近づいてきますが、世の友は逆境のときには去って行きます。しかし、神は違います。神は言われます。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)

 この神の約束は言葉だけのものではありません。人間の言葉ほどあてにならないものはありませんが、神の言葉ほど、確かなものはありません。神は、私たちが惨めに失敗したとき、祈る力もなくなったとき、最も力ある「祈り手」を与えてくださるのです。ローマ8:26にこう書かれています。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
聖霊が、私に神の子どもの確信を与えてくださる。そして、神の子どもとして、神を「父よ」と呼ぶ祈りを与えてくださるのです。そして神を呼ぶ者は、神の助けを得るのです。

 「勝利の歌」という賛美歌集に「みつばさわれをおおえば」というのがあります。こんな歌詞です。

みつばさわれをおおえば
あらしたけるやみよも
イエスにたよりやすきあり
われはかみのこなれば
わが主のあいより
はなすものなし
みつばさにまもられ
とわにやすけし
Under His wings I am safely abiding.
Tho' the night deepens and tempests are wild,
Still I can trust Him; I know He will keep me.
He has redeemed me, and I am His child.
Under His wings, under His wings,
Who from His love can sever?
Under His wings my soul shall abide,
Safely abide forever.
ローマ8章は「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(39節)という言葉で終わっていますが、この賛美も「わが主の愛より離すものなし」と歌っています。「わたしは神の子。」聖霊が与えてくださるこの確信が、私たちを勝利に導くのです。

 三、父の愛のゆえに

 神を「父よ」と呼ぶことができるのは、第一に、御子イエス・キリストにあってです。第二に、それは、聖霊によってです。第三は、父の愛です。私たちは父の愛のゆえに、「父よ」と呼ぶことができるのです。

 ヨハネの手紙第一3:1にこうあります。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです。──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」これは、原語では「見なさい。神が私たちに与えた愛がどんなものかを」という言い方になっています。“See”目を開いて見なさいと命じられているのです。神の愛を思い見なさいというのですが、神の愛は、何よりも聖書の中に、また、自然の中に、キリストにあるまじわりの中に、神の愛を見ることができるではありませんか。

 聖書は、「神の愛を見なさい」と教えます。聖書が教える大切なことの中でなによりも大切なことは、神が私たちを愛してくださったということです。私たちは聖書を広く、深く学ぶ必要があります。しかし、帰ってくるところは、「神は私を愛し得てくださった」ということです。第一ヨハネ3:1の「与えた」という言葉は「過去形」ではなく、「完了形」で書かれています。神はひとたび愛され、今なお愛していてくださり、その愛は永遠に続くという意味です。「完了形」は神のゆるがない決意を表わしているとも言われます。神は、私たちに永遠の愛を約束してくださったのです。「神が私を愛しておられる。」この愛を受けて、私たちは生かされているのです。

 愛は常に双方向のものです。神が私を愛しておられるなら、私たちも神を愛すべきです。いや、神の愛が分かれば分かるほど、わたしたちは神を愛せずにはおれなくなるのです。私たちが神を「父よ」と呼ぶのは、「今日も、わたしはあなたを愛します」という、私たちの神への愛の告白なのです。

 私はこどものころ母親を亡くしました。二年ほどして父は再婚しました。義理の母は私をかわいがってくれましたが、私は「お母さん」とは呼ぶことができませんでした。愛情がなかったわけではありません。私の生みの母は、私の父が交通事故に遇い、病院につきっきりだったため、小学二年生になるまで母は家にいませんでした。母はガンのため間もなくしてから入院しました。最後に母と過ごしたのは、母が退院してからなくなるまで一週間でした。ですから、私は「母親」という存在をどう受けとめてよいかわからなかったのです。しかし、「父なる神」を知って、この神に「父よ」と愛の告白ができるようになったのは、さいわいなことでした。

 神を「父」と呼ぶのは、それが神が持っておられる数多くのお名前のひとつだからというのではありません。私たちは神に愛されている子どもとして、愛をこめてそう呼ぶのです。こどもは別に用事がなくても、「お母さん」「お父さん」と呼びます。「お母さん。」「なあに。」「なんでもないの。」子どもは、自分を愛してくれる存在が身近にいることを確かめたいのです。お願いごとがなくても、「お母さん」「お父さん」と呼んで、愛情を伝えたいのです。

 八木重吉の作品にこんな詩があります。

赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう
 あん、あん、あん、あん
 あん、あん、あん、あん
うるせいな
 うるさかないよ
呼んでいるんだよ
 神さまを呼んでいるんだよ
みんなも呼びな
 神さまを呼びな
あんなにしつこく呼びな  
神を呼びましょう。愛を込めて、「父よ」と。

 (祈り)

 イエス・キリストの父であり、私たちの父である神さま、私たちに、あなたを「父よ」と呼ぶことを許してくださり、心から感謝します。私たちが神の子と呼ばれるために、あなたが与えてくださった愛がどんなものであるかを、もっと知らせてください。私たちの霊の目を開き、聖霊によってそれを見せてください。私たちがあなたを「父よ」と呼ぶたびに、あなたへの信頼と愛とが私たちの心に満ちますように。御子イエスのお名前で祈ります。

7/31/2018