8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
わたしは、カレンダーを手に入れるとすぐ、イースターから七週目の日曜日に「ペンテコステ」と書き込みます。「ペンテコステ」には、「五十」という意味があって、イースターから七週目、つまり「五十日目」は、ちょうどペンテコステになるからです。この日、聖霊が降り、教会が誕生しました。父、子、聖霊の神を信じ、教会に加えられたわたしたちはこの日を、大切な日として心に刻みます。聖霊なしに救いは無く、救いの確信も、救われた者としての生活も生まれないからです。
一、聖霊による新創造
きょうは、「聖霊の証し」と題してお話ししますが、その前に「聖霊による新創造」と「聖霊の内住」についてお話したいと思います。
聖書で最初に聖霊が登場するのは、創世記1:2です。そこには「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」とあって、聖霊が世界を創造さたのです。コロサイ1:16には「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである」とありますから、父、子、そして聖霊が世界を創造されたことがわかります。
イエスは聖霊による生まれ変わりについて話されたとき、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5)と言われて、「水と霊」という言葉を使われました。この「水と霊」という言葉は、「神の霊が水のおもてをおおっていた」という創世記の言葉を連想させます。この「おおう」という言葉は、英語で “hover” となっています。ヘリコプターが空中で停止するのを「ホヴァリング」といいますが、世界の創造のとき、聖霊が水の上に「ホヴァリング」しておられたと言うのです。古代の人は、この言葉から、親鳥が雛鳥の上に舞いかける姿を思いうかべました。聖霊は、親鳥が雛鳥をその羽の下にかばうような愛情をもって、この世界を生み出してくださったのです。
新約で聖霊が水の上をはばたかれたのは、イエスのバプテスマのときでした。マタイ3:16に「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった」とあります。バプテスマのヨハネは、それを見て、こう証言しました。「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである。』わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである。」(ヨハネ1:32-34)
聖霊は、水の中から世界を形作られたように、信じる者を、その創造の力によって、新しく造りかえてくださいます。また、聖霊が、バプテスマをお受けになったイエスにくだって、イエスが「神の御子」であることを証しされたように、バプテスマによって信仰を言い表わした者を「神の子ども」としてくださるのです。「水と霊から生まれる」というときの「水」は、バプテスマの水のことで、バプテスマの水は罪の赦しと共に、「新しい創造」を表わしているのです。ヨハネが授けたバプテスマは「水のバプテスマ」でしたが、イエス・キリストへの信仰に基づいて授けられるバプテスマは、人を生まれ変わらせる「聖霊のバプテスマ」なのです。クリスチャンは、この再創造のバプテスマを受け、それによって聖霊をいただいているのです。
二、聖霊の内住
「聖霊の内住」とは、聖霊が、信仰者の内面に宿り、とどまってくださることを言います。旧約時代にも聖霊は働いておられましたが、「聖霊の内住」はありませんでした。これは新約であきらかになった恵みです。
旧約にも「神の霊がやどる」(民数記27:18、ダニエル4:8)という表現はありますが、それは特別な人の場合に限られていました。「聖霊が臨む」という表現もあります。ダビデについて「主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ」(サムエル第一16:13)とあります。神の霊はサウルにも臨んでいますが、サウルが神から離れていったとき、主の霊もサウルを離れ、かえって悪霊が彼を悩ますようになりました(サムエル記第一16:14)。旧約時代には、聖霊の働きは一時的なもので、信じる者のうちに「とどまる」ことはありませんでした。
旧約時代には、聖霊は、いうなれば、「訪問者」として時折、人に臨んだだけですが、新約の時代には、聖霊は、「住人」となって、信じる者のうちにととどまっていてくださるのです。これは、イザヤ44:3、エゼキエル39:29、ヨエル2:28-29などに預言されていて、ペンテコステの日に成就しました。それで、ペテロは、ペンテコステの日にヨエル書を引用しました。「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。」ペテロは、この預言が今、人々が見ているとおりに成就したと言いました。
旧約では、もし、聖霊がとどまるとしたら、それは、メシア(救い主)の上にでした(イザヤ11:2、61:1)。ですから、バプテスマのヨハネは、イエスに聖霊がとどまったのを見て、イエスはメシアであると証ししたのです。メシア、つまり、キリストの上にとどまった聖霊は、すべて、キリストを信じる者のうちにとどまってくださるのです。
ローマ人への手紙にも、「聖霊の内住」が教えてられています。8:9-11にこうあります。「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」
ここでは、聖霊が「神の霊」とも「キリストの霊」とも呼ばれ、父、子、聖霊の神が示されています。「キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」とあります。人は、聖霊によらなければ、「キリストの者」つまり、クリスチャンになることはできません。聖霊を持たず、聖霊を知らないのに、「わたしはクリスチャンです」というのは、キリストを自分の救い主として告白しないで「わたしはクリスチャンです」というのと、同じことで、その人は、まだ、ほんとうにはクリスチャン、「キリストの者」ではないのです。しかし、真実なクリスチャンは、すべて、聖霊を持っています。聖霊の内住をいただいているのです。
「聖霊を持つ」とか、「聖霊を宿す」というのは、とても大胆な表現です。小さな存在に過ぎない人間が、はるかに偉大なお方を自分の内に持つというのですから。ほんとうは、神がわたしたちをその手に持っていてくださり、わたしたちが神のふところに宿らせていただいているのに、神は、あえて、わたしたちが信仰の手で握りしめ、みずらからのうちに宿すことができるお方になってくださったのです。
神は「わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう」(レビ記26:12)と言われました。「あなたがたはわたしの民となる」だけで十分なのに、神はあえて「わたしはあなたがたの神となる」と仰いました。また、イエスも「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)と言われました。ここでも、「わたしは…彼と食を共にする」だけで十分なのに、イエスは、「彼もまたわたしと食を共にする」と念をおしておられます。これは、神と信じる者とのまじわりが一方通行ではなく、相互のものであることを教えています。わたしたちが神のうちにあり、神がわたしたちのうちにおられるのです。神は、信じる者のうちに聖霊を住まわせることによって、神との相互の親密な関係を与えてくださっているのです。
クリスチャンは「キリストにある者」です。“8-14In Christ” という言葉がありますそして、キリストは「クリスチャンのうちにおられるお方」(Christ in us)です。この「内住のキリスト」はコロサイ1:27に「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」とあるように、まさしく、奥義です。わたしたちはこの奥義を、聖霊によって悟り、この奥義が生活の中に表われてくることを求めていきたいと思います。
三、聖霊の証し
聖霊は、信じる者を神の子として生み、そのうちにとどまってくださっていますが、さらに、「あなたは神の子どもとされている」と、語りかけてくださいます。このことは「聖霊の証し」と呼ばれています。
ローマ人への手紙は、この聖霊の証しについて、こう言っています。8:14から読みましょう。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。」聖霊は自由を与える霊です。聖霊はかつて罪と死に縛られていた者をそこから解放し、何の妨げもなく神に近づくことができるようにしてくださったのです。
続いて「その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」とあります。この言葉は、この自由をとてもわかりやすく言い表わしています。「アバ」というのは、アラム語で「お父さん」という意味の言葉です。これは、まだ言葉を十分に話せない赤ん坊が、父親を呼ぶときの叫び声でもあるのです。まだ歩くこともできない赤ん坊が「アバ、アバ」と言って父親のところにはいはいしていく姿を思い浮かべてください。イエス・キリストを信じ、神の子どもとされたからといって、わたしたちはすぐさま、神の子どもらしくなるわけではありません。神は、時間をかけてわたしたちを神の子らしく成長させてくださいます。信仰者はみな成長の過程にあり、「キリストにある成人」を目指しています。しかし、たとえ赤ちゃんの状態であっても、「アバ、父よ」と呼び求めながら、神に近づく、神の子どもとしての確信、つまり、聖霊の証しが、わたしたちに与えられるのです。
しかし、この聖霊の証しを失うときがないわけではありません。いろいろな場合がありますが、そのひとつは、神の言葉から遠ざかるときです。聖霊が証ししてくださるといっても、それは、神の言葉から離れてではありません。聖霊は、わたしたちが聞き、心に蓄えた御言葉を思い起こさせ、悟らせてくださるのです。聖霊は、心を静めて聖書を読み、他のクリスチャンと共に学び、礼拝で神の言葉に聞くことを通して語ってくださるのです。そうしたことがなければ、聖霊の証しの声は聞こえてこないのです。
また、聖霊の声に聞くよりも、自分の願望の声に聞くとき、聖霊の証しを失ってしまいます。聖書に「御霊を消してはいけない」(テサロニケ第一5:19)という警告がありますが、これは、聖霊の証しの声を消してしまい、聖霊の導きに逆らうことを言っています。わたしたちは、「聖霊を消している」状態なのに、そのことに気づかないまま年月を過ごしてしまうことがあります。ある地点から目標を目指して進んでいくとき、向かう方向が違えば、遠くへいけばいくほど、目標から大きくそれてしまいます。聖書は「罪」を表わすのに「的外れ」という言葉を使っていますが、罪とはそのようにして、気づかないうちにわたしたちを神から遠く離れさせてしまうものなのです。聖霊は、いつもわたしたちに優しく語りかけるとは限りません。わたしたちが神から離れていこうとするときには、きっと、大きな声で、「そこに行ってはだめだ!」と語ってくださることでしょう。耳障りのいい言葉だけを求めることなく、罪に気づいたらすぐに悔い改めることが大切です。そうするとき、わたしたちは再び聖霊の証しを取り戻すことができるのです。
聖霊の証しは、まわりの状況から来るものではありません。それは物事がうまくいっているから与えられ、さまざまな苦しみに取り囲まれたら消えてしまうというものでもありません。いやむしろ、苦しみの只中でこそ聖霊の証しが与えられ、それがわたしたちを思い患いから救い出してくれるのです。「御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」とあるように、それは、わたしたちの人間的な判断を超えて、聖霊ご自身から与えられる、力強い確信なのです。
「主の祈り」は、「アバ、父よ」という言葉で始まる祈りです。もとの言葉では、「父よ、わたしたちの、天に」という順になっており、「父」という言葉が最初に来ます。パウロは、人々が礼拝で共に「主の祈り」を捧げている姿を思って、「わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶ」と書いたのかもしれません。「主の祈り」は、聖霊の証しをいただいて、神の子とされた確信を与えられ、聖霊と共に「父よ」と祈ってはじめて、神への信頼の叫びとなります。「主の祈り」を祈るたびに、聖霊の証しによって、「神の子どもとされた」確信を強められていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは聖霊によって、わたしたちをあなたの子として生み、聖霊をわたしたちのうちに住まわせてくださいました。わたしたちは、うちにおられる聖霊の証しによって、あなたを知り、感じ、確信することができます。どうぞ、わたしたちが聖霊の証しをもっと確かに持つことができるようにしてください。そして、それによって、人々にあなたを証しすることができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/6/2018