注がれている神の愛

ローマ5:6-11

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5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 アドベントの第四週になりました。アドベントの一週ごとに「希望」、「平和」、「喜び」のキャンドルを灯してきましたが、今日は、「愛」のキャンドルに灯をともしました。今朝は、神の愛をごいっしょに思い見ましょう。

 一、神の愛

 ローマ5:1-5には、アドベントの四つの主題、「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」のすべてが含まれています。1節には「神との平和」が、2節と3節には「喜び」が、4節と5節には「希望」があります。そして、5節には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあって、「神の愛」があります。

 聖書は「希望は失望に終わらない」と言っていますが、残念ながら、多くの人が「希望が失望に終わる」のを体験しています。あの大学に入りたいと思って一所懸命勉強したのに、入学してみたら本当に勉強したいことを勉強することができなかった。この会社に就職したいと努力し、入社したが、そこでやりがいを見つけられなかった、などといった失望は多くの人が少なからず体験していることです。「この人なら分かってくれるだろう。」と信頼して心の内を話したのに、裏切られてしまったという失望はもっと深刻です。そうした残念な体験をしてしまうと、人間不信に陥ってしまうことがあります。しかし、聖書は、そんな失望から立ち直る道を教えています。それは、神にあって希望をいだくことです。そのような希望は決して失望に終わりません。なぜかと言えば、「神の愛が…心に注がれているから」です。神の愛が、私たちの希望を支えてくれるのです。希望だけでなく、平和も、喜びも、じつは神の愛によって支えられているのです。聖書に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(コリント第一13:13)とあります。愛が「一番すぐれている」と言われているのは、愛が、このように信仰や希望を支えているからなのです。

 聖書で一番大切なメッセージは「神は愛である」というメッセージです。しかし、神が愛であると言うとき、その神の愛が人間のレベルのものでないことは言うまでもありません。人間の愛は条件つきの愛です。しかし、神の愛は無条件の愛です。人間の愛は、「だから」の愛か、「もしも」の愛です。「あなたは素敵だから愛する。」「あなたには才能があるから愛する。」「あなたはお金持ちだから愛する。」というのは、「だから」の愛で、条件つきの愛です。「もし、このことをしてくれたら、あなたを愛しましょう。」というのは、「もしも」の愛で、要求する愛です。自分の子どもに「もし、きみがいい子だったら、うんとかわいがってあげるんだが。」と言ったらどうなるでしょうか。子どもは「いい子」になろうと努力する前に、「ぼくはお父さんに好かれていない。」「わたしはお母さんから愛してもらっていない。」と感じ、心に大きな傷を持つでしょう。親子でも相性が良い場合もあれば、相性が悪いときもあります。親の愛は、神の愛に最も近いと言われますが、親の愛でさえ、こどもを自分との相性で愛したり、嫌ったりすることがあるのです。しかし、神の愛は、人間の愛とは違って、一切の条件や要求を求めない愛です。神は私たちに何の条件もつけず、何の要求もなさらずに、私たちを愛してくださるのです。

 現代は人をその能力で量る時代です。政治や経済、学問や技術、芸術やスポーツなど、どんな分野でも、人より抜きん出た人がいると、もてはやすのです。しかし、神は、私たちを能力に基づいて愛されたのではありません。ローマ5:6に「私たちがまだ弱かったとき」とあります。神は、無力なもの、助けのないものを愛し、あわれんでくださいました。

 神は、神に対して真実な者を愛してくださいます。しかし、私たちは、神に対して真実な者、敬虔な者ではありませんでした。あからさまに神に反逆することは無かったとしても、どれだけ心を込めて神を愛し、神に従ってきたでしょうか。神の目をごまかせるわけはないのに、あたかもそれができるかのように適当に取り繕った生活をしてきたのではありませんか。6節にあるように私たちは「不敬虔な者」だったのに、神はそんな私たちをも愛してくださったのです。

 また、キリストを知らなかったときの私たちは、決して正しい者ではありませんでした。正しくありたいと願い努力していたとしても、神の基準に達しない者でした。しかし、8節に「私たちがまだ罪人であったとき」とあるように、神は「罪びと」を愛してくださたのです。罪を嫌われる神が「罪びと」を愛してくださったのです。神の愛は、私たちの善良さに基づく愛ではなく、それを超えた愛です。

 ローマ5:10には「敵であった私たち」ということばがあります。私たちは、神の前に正しくない、申し訳けのない者です。私たちは、ただ神のあわれみを乞い求めることしかできない者なのに、「神なんかいるものか。」「真理なんてあるものか。」「なぜ、神に従う必要があるのだ。」と言って神に敵対してきました。イエス・キリストは私たちに「敵をも愛せよ。」と教えられましたが、神ご自身は、本当に敵であった私たちを愛してくださったのです。

 私たちが、無力で、不敬虔で、罪びとで、神に敵対していたときに、神は私たちを愛してくださいました。神の愛は無条件の愛です。「だから」の愛でも、「もしも」の愛でもありません。神の愛は「にもかかわらず」の愛です。この神の純粋な愛、大きな愛、ひたむきな愛が、私たちの希望を支えているのです。人間の愛には失望がつきまとうかもしれません。しかし、この神の愛に期待するなら、決して失望に終わらないのです。

 二、神の愛の確認

 では、この神の愛は、どうやって知ることができるのでしょうか。愛は、愛によってだけ知ることができます。愛に応答できるのは愛だけです。神がまず私たちを愛してくださり、その愛を私たちに注ぎ込んでくださいました。私たちは神の愛を注がれ、神を愛することができるようになりました。私たちは神を愛することによって、神に愛されていることを知ります。神への愛によって、神からの愛を知るのです。神の私たちへの愛は変わりません。神はどんなときでも、私たちを愛してくださっています。しかし、私たちの神への愛は変わります。私たちの神への愛が冷え、神からの愛を見失ってしまうこともあります。そして、神からの愛を見失うとき、私たちは不安になります。ちいさいこどもが両親に「おとうさん、わたしのこと好き?」「お母さん、ぼくのこと好き?」と聞き、両親から「大好きだよ。」と言ってもらって満足するように、私たちも、神の愛を確認できなければ、たましいにほんとうの満足が与えられないのです。では、どのようにして神の愛を確認することができるのでしょうか。ローマ人への手紙は、ふたつのことを教えています。第一に聖霊によって、第二に十字架によってです。

 5節に、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。ここで「注がれている」と訳されていることばは、ペンテコステのときに弟子たちに聖霊が注がれたことを表わすことばです。神は、信じる者に聖霊を注ぐことによって、神の愛を注いでくださっているのです。聖霊が私たちに神の愛を確認させてくださるのです。では、聖霊はどのようにして、そのことをしてくださるのでしょうか。それは、私たちを神のこどもとして生まれ変わらせ、神のこどもとしての身分を保証し、神のこどもとしての性質を育てることによってです。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)とあるように、聖霊は、イエス・キリストを信じる者を、神のこどもとして生まれかわらせてくださいます。イエス・キリストが聖霊によってお生まれになったように、キリストを信じる者も、聖霊によって、神の子どもとして生まれるのです。では、聖霊は、神のこどもを生み出したあと、「おまえはもう神のこどもになったのだから、あとは自分でやりなさい。」と私たちから離れてしまわれるのでしょうか。そうではありません。キリストを信じる者のうちにとどまってくださるのです。聖霊はまるで母親のように、神のこどもと共にいて、神のこどもを養い、育ててくださるのです。私たちが神のこどもであることの確信と自覚を持ち、神を「アバ、父。」(ローマ8:15)と呼ぶことができるようにしてくださるのは聖霊です。

 そして、この神のこどもとしての確信と自覚が私たちに、神の愛を覚えさせるのです。ローマ8:31、35、38、39に「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」とあります。神が味方なら、どんなものも、私たちをキリストの愛、神の愛から引き離すことはできないと宣言されています。キリストを信じて、義と認められた者は、神の味方です。神の友です。いいえ、それ以上に神のこどもです。親はつねにこどもの味方です。聖霊によって神のこどもとされ、神のこどもとしての確信と自覚を与えられることによって、私たちは神の愛を確認するのです。

 三、神の愛の証明

 神の愛を確認するために、神が与えてくださった第二のものは、十字架です。ローマ5:3-5は「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と言っています。患難が希望に導き、さらに神の愛にまで導くと教えています。しかし、あまりにも患難が重なると、私たちはしばしば失望・落胆してしまいます。そして失望・落胆がくりかえされると、「神はほんとうに私を愛しておられるのだろうか。」という疑いが心に湧いてきて、神の愛を見失ってしまうことがあります。不信仰や疑いによって聖霊とのまじわりを避け、聖霊を悲しませ、聖霊の働きを消してしまうと、聖霊から来る神の愛の確信をなくしてしまうのです。しかし、そんなときでも、神は、それを見れば神の愛が分かるというもの、そこで神の愛を見ることができるものを与えてくださっています。それがイエス・キリストの十字架です。

 ローマ5:8に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。キリストの十字架は神の愛を「明らかにするもの」、神の愛を指し示すものです。使徒ヨハネが十字架を指し示して「ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)と言ったように、神の愛は十字架に示されています。ローマ5:8で「明らかにする」という言葉は「証明する」と訳すことができます。「神の愛」はたんなる概念ではありません。それは、十字架に形をとって示されたものです。十字架は神の愛の証明です。「神は愛である。」という真理は、十字架で証明済みなのです。テサロニケ第一1:3に「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」ということばがあります。「自分は信仰がある。」といっても信仰を表わす働きがなければ、それを見せることはできず、自分は希望を保っていると言っても、忍耐がなければ、希望を持っていることを証明できないように、「愛」もまた、愛する者のためにどれだけの労苦を、犠牲を払ったかによって証明されます。神は、ご自分のひとり子というかけがえのないもの、最も価値あるものを犠牲にすることによって、私たちへの愛を証明してくださったのです。

 聖霊が与えてくださる神のこどもとしての確信は、私たちのたましいの内側に与えられるもの、主観的なものです。ですから、私たちと聖霊とのまじわりがそこなわれるとき、その確信は揺らぎます。しかし、イエス・キリストの十字架は、歴史の中で起こった客観的な事実です。キリストの十字架の事実は、私たちの主観的な確信がどうあろうと、変わるものではありません。主イエスが十字架にかけられたとき、イエスを憎んだ者たちは、その憎しみをあらわにしました。イエスに従ってきた弟子たちでさえ、イエスを裏切り、見捨てました。キリストの十字架の回りには、罪と憎しみ、裏切りと不真実など、人間の醜いものがいっせいに噴き出して荒れ狂っていました。しかし、その中でも、キリストの十字架は神の愛を示しつづけていました。カルバリの丘に立てられた木の十字架は、今はもうありません。しかし、キリストが私たちを愛して、私たちの身代わりに死んでくださったという事実は消えてなくなりません。キリストを卑しめ、キリストに逆らっているこの時代にも、キリストの救いの十字架、愛の十字架は立っています。十字架は今も、神の愛を語り続けています。

 昨年の12月25日、クリスマスの日、私は家の近くの教会でクリスマスの礼拝を守りました。「イエス・キリストは、十字架でそのからだをささげるために、肉体をとって地上に来られました。」と、説教が語られ、イエス・キリストの十字架を覚えて、聖餐式が行われました。私は、その礼拝でイエス・キリストの十字架を深く覚えることができました。キリストの十字架を覚えるのはクリスマスにふさわしいことです。キリストがお生まれになったのは、じつに、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれるためだったからです。神は、私たちを愛して、ご自分のひとり子をこの地上に遣わしてくださいました。この神の愛は、キリストの十字架によって示されているのです。そこから流れ出て、私たちに注がれているのです。

 ですから、イエス・キリストの十字架によって神の愛を覚える者は、どんな時も神の愛から引き離されることはないのです。たとえ、神の愛を見失うようなことがあったとしても、キリストの十字架のもとに帰ってくるなら、自分が神の愛によって取り囲まれていることを見出すのです。クリスマスこそ、キリストの十字架に帰る日です。この十字架のもとで、聖霊によって神の愛の注ぎを受けましょう。注がれている神の愛によって、私たちも、私たちの愛を十字架の主イエスに注ぎましょう。従順な神のこどもとなって、クリスマスを愛の神に信頼して憩う日としましょう。

 (祈り)

 ひとり子、イエス・キリストをお与えになったほどに私たちを愛してくださった父なる神さま。あなたは弱い者、不敬虔な者、罪びと、あなたに敵対する者さえ愛して、そのためにご自分の御子を私たちにお与えになりました。あなたは、最も大切なもの、最も価値あるものを与えてくださいました。なのに、私たちがあなたに与えるものは、なんと、しばしば、心のこもらないものであることでしょうか。そのような私たちを赦し、あわれみ、あなたの愛へと導いてください。私たちがあなたを真実な愛で愛することができるために、私たちをあなたの愛で満たしてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/23/2007