なくならない希望

ローマ5:1-5

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5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 今日からアドベント、待降節に入ります。主のご降誕を待ち望み、クリスマスまで四回の礼拝を守りましょう。アドベントの礼拝のカラーは紫です。今年の年間聖句が「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)でしたので、私は、くびきを表わすストールを身につけるようにしましたが、このストールの色も緑から紫になりました。今日から来年1月6日のエピファニー(公現日)まで、皆さんもクリスマス・ツリーを飾り、アドベント・キャンドルを灯すことでしょう。この礼拝でも昨年と同じように、四本のアドベント・キャンドルを毎週一本づつ灯していきます。

 四本のキャンドルにはそれぞれ、意味があります。覚えていますか。第一のキャンドルは「希望」、第二は「平和」、第三は「喜び」、そして第四は「愛」を表わします。今朝の聖書、ローマ5:1-5には、この四つのものがすべて出てきます。1節に「神との平和」ということばがあり、2、3節には「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。」とあって、キリストにある喜びが書かれています。5節の最後には「神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と、神の「愛」が示されています。アドベント第一日曜日の主題は「希望」ですが、5節のはじめに「この希望は失望に終わることがありません。」と、キリストが与えてくださる希望が力強く宣言されています。

 聖書が言う「失望に終わらない希望」とはどういう希望でしょうか。キリストは、どのようにしてこの「なくならない希望」を私たちに与えてくださるのでしょうか。

 一、希望と失望

 「失望に終わらない希望」と言いますが、私たちは、毎日の生活の中で、希望を持つことよりも、失望してしまうことが多いものです。私は、最近 New Jersey のお店からインターネットで買い物をしました。それが壊れたので、メーカーが指定するリペア・ショップに持っていきました。パッケージ・リストを持っていったのですが、領収書でなければだめだというので、その品物を買った店に電話をして、どうしたら領収書をもらえるかと聞きました。そうしたら、ウェブページに注文記録があるからそれを印刷して持っていけば良いと言われ、その通りにしました。ところが、リペア・ショップの人は、ここには製品のシリアル・ナンバーがないからダメだと言うのです。それで、また買い物をした店に電話をし、事情を話しましたが、「うちではシリアル・ナンバーを記録していない。請求書を送る。」ということでした。送られてきた請求書にはシリアル・ナンバーの記録はありませんでしたが、リペア・ショップで、「これしかもらえなかった。」と説明して、なんとか修理を受け付けてもいました。リペア・ショップが家の近くにあったので良かったのですが、リペア・ショップが遠くにあれば三度も足を運ぶのは大変なことでした。インターネットでは、ローカルストアで買えないものも手に入り、便利なのですが、こういうトラブルがあるとがっかりしてしまいます。

 今回、私は買い物のことでがっかりしたのですが、これが、人間に関しての失望ならもっと気持ちが重かったことでしょう。信頼して話したのに、プライバシーを守ってもらえなかった。約束してあったのに、それをまるで気にも留めてもらえなかった。苦労して準備したのに、真面目に受けとめてもらえなかった、人を大切にしようとして相手に譲ったため、かえって踏みつけられるような目にあったなどといったことがあると、本当に深く失望してしまいます。そして、そういう失望が重なると、人への信頼を無くしてしまい、誰の言うことも、することも信じられなくなってしまうことがあります。信頼のないところに愛は育ちませんから、人間関係がギクシャクしてしまいます。そればかりではなく、「神さま、どうしてあなたは何もしてくださらないのですか。」という気持ちにもなって、神への信頼を失ってしまうこともあります。ある人が「クリスチャンをダメにする一番のものは失望である。」と言いましたが、失望は、人間関係だけでなく、人と神との関係を壊し、神への信仰を失わせ、愛を冷やしてしまうのです。まさに失望は信仰の敵です。

 二、希望と訓練

 では、私たちはどうしたら、失望に打ち勝ち、希望を保ち続けることができるのでしょうか。キリストはどのようにして私たちになくならない希望を与えてくださるのでしょうか。ローマ5:3-4に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とあります。鉄は鉄鉱石を堀り出すことから始まり、掘り出した鉄鉱石を選別し、それを千数百度という高熱で溶かし、酸化鉄から酸素をとりのぞいて造ります。鉄にかぎらず、どんなものでも、それをつくるには「工程」というものがあります。インテル・ミュージアムに行くと、コンピュータなどに使われる半導体の製造工程が展示されています。以前、日本の醤油工場を見学したことがあります。醤油が出来上がっていく工程のひとつひとつを見せてもらいました。醤油をつくるには、蒸した大豆と煎った小麦を用意し、それを攪拌機で混ぜ、そこに酵母を入れて醤油麹を作ります。その麹を醸造タンクに入れ長い時間をかけて発酵させます。醸造タンクで発酵したものを諸味と言うのですが、諸味が熟成したら、それを圧搾機にかけて絞り生醤油を取り出します。その生醤油をさらに加熱して、醤油が出来上がります。これと同じように、聖書は、希望が生み出される「工程」を、「試練→忍耐→練られた品性→希望」の順で示しています。ローマ5:3-4にある工程のどれかを省いたり、その順序を変えたなら決して醤油が出来上がらないように、希望もまた、希望の工程のどれを省いても、私たちのものにはならないのです。希望を自分のものとするためには、まず「試練」という攪拌機の中でかきまぜられなくてはなりません。また、「忍耐」という醸造タンクでじっと待つ必要があります。醤油工場でツアーを案内してくれた人が「醤油の製造には手がかかりますが、時間もかかります。一番大事なのは時間です。」と言っていました。私たちも、試練の中で忍耐することを学ばないと、「練られた品性」を得ることができないのです。

 「練られた品性」という言葉は口語訳や新共同訳では「練達」、現代訳では「りっぱな品性」、バルバロ訳では「鍛錬された徳」と訳されています。英語の聖書では experience, character, proven character などと訳されています。もとの言葉 dokimeh は別のところでは、「試練」(コリント第二8:2)、「証拠」(コリント第二13:3)などと訳されています。ですから、「練られた品性」とは「試練によって試され、忍耐によって本物だと認められたもの」ということになります。製品に Passed というスティッカーやスタンプがつけられていることがありますが、「練られた品性」というのは、そのスティッカーのようなものです。神が与えた試練に耐えて、この人は大丈夫と、神が与えてくださった「検査合格証」のことだと言って良いでしょう。私たちはこの合格証をいただいているでしょうか。「練られた品性が希望を生み出す。」とあるように、かわらない希望は、この合格証と引き換えに与えられるものなのです。

 希望を持つということは、一度も失望しないということではありません。私たちのまわりには失望の材料はいくらでもあります。真剣に生きようとしたら、他の何かに失望する前に、まず自分自身に失望するでしょう。そんな時も、神がこの失望から立ち上がらせてくださると信じ、忍耐していくとき、私たちは「練られた品性」を与えられ、希望へと進むことができるのです。今年、私たちは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)とのみことばによって、キリストの弟子として生きることを学んできました。すべてのものは、キリストのもとに身を低くして、くびきを負うことによって与えられます。練られた品性は好き勝手にしていて与えられるものではありませんし、希望も、なんとなく与えらるとか、ふってわいたように突然与えられるものでもありません。躓いても、そこから立ち上がり、失敗しても、そこからやり直し、失望しても、そこからキリストとくびきをともにすることよって、私たちはなくならない希望に導かれていくのです。

 三、希望と永続

 神が与えてくださる希望は、なくならない希望です。永遠の神が与えてくださるものは、どれも永遠のものです。神の与えてくださるいのちは「永遠のいのち」であり、神がなしとげてくださった救いは「永遠の救い」です。コリント第一13:13に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」とあるように、神のくださる希望も「いつまでも残る希望」です。

 いつまでも残る希望を表わす信仰の物語があります。それは、「宮きよめの祭り」にまつわる物語です。ヨハネの福音書に「宮きよめの祭り」のことが書かれています。ヨハネ10:22-23に「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。」とありますように、宮きよめの祭りは、キスレウの月(12月)の25日にに祝われるので、クリスマスと重なることもありますが、ユダヤの暦と現代の暦にはずれがありますので、今年の宮きよめの祭は12月5日になっています。

 宮きよめの祭りの起原は、旧約続編(アポクリファ)のひとつにあります。この書物は、マタティアの子ユダのニックネーム「マカバイ」の名を取って「マカバイ記」と名づけられました。ユダ・マカバイが、アンティオコス朝シリアからユダヤの独立を勝ち取り、アンティオコス・エピファネスが汚した神殿をきよめたことが書かれています。スポーツの大会の表彰式でよく演奏される「見よ、勇者は帰る」というおなじみの曲がありますが、これは、ヘンデルのオラトリオ「ユダ・マカベウス」から取られたもので、アンティオコスを打ち破って凱旋するユダ・マカバイの勝利を歌ったものです。

 この「マカバイ記一」1:41-50にこうあります。

王は領域内の全域に、すべての人々が一つの民族となるために、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発した。そこで異邦人たちは皆、王の命令に従った。また、イスラエルの多くの者たちが、進んで王の宗教を受け入れ、偶像にいけにえを献げ、安息日を汚した。更に、王は使者を立て、エルサレムならびに他のユダの町々に勅書を送った。その内容は、他国人の慣習に従い、聖所での焼き尽くす献げ物、いけにえ、ぶどう酒の献げ物を中止し、安息日や祝祭日を犯し、聖所と聖なる人々を汚し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物をいけにえとしてささげ、息子たちは無割礼のままにしておき、あらゆる不浄で身を汚し、自らを忌むべきものとすること、要するに律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。そして王のこの命令に従わない者は死刑に処せられることになった。
この「王」とはアンティオコス・エピファネスのことです。「エピファネス」とは「神の顕れ」という意味で、アンティオコスは人々に自分を神として拝ませました。しかし、ユダヤの人々は彼を「アンティオコス・エピマネス」と呼びました。「エピマネス」というのは「気の狂った人」という意味です。聖なる神の宮を汚すのは、まさに気の狂った人でなければできないことだったからです。

 ユダ・マカバイは、このアンティオコスが遣わした軍勢を打ち破り、宮をきよめました。紀元前160年ころのことです。これが宮きよめの祭りのはじまりで、「マカバイ記一」4章に

キスレウの月の二十五日に、彼らは朝早く起き、焼き尽くす献げ物のための新しい祭壇の上に律法に従っていけにえを供えた。異教徒が祭壇を汚したのと同じ日、同じ時に、歌と琴、竪琴とシンバルに合わせて、その日に祭壇を新たに奉献した。…ユダとその兄弟たち、およびイスラエルの全会衆はこの祭壇奉献の日を、以後毎年同じ時期、キスレウの月の二十五日から八日間、喜びと楽しみをもって祝うことにした。
とあります。この祭りは今も、ユダヤの人々の間で「ハヌカー」と呼ばれ、守られています。ユダヤのシンボルは「メノラ」と呼ばれる七つの枝に分かれた燭台ですが、「ハヌカー」のときは「ハヌキヤ」と呼ばれる九つの枝に分かれた燭台が使われます。真ん中が種火になっていて、「ハヌカー」の八日間、燭台のひとつひとつに灯をともしていきます。

 ユダヤの伝説によると、ユダ・マカバイが宮きよめをした時、異邦人たちは、神殿の燈油をすべて燃やしてしまっていたので、一日分の燈油しか残っていませんでした。しかし、その一日分の燈油が、八日間、ともしびを灯しつづけるという奇跡が起こりました。ですから、「ハヌカー」のときにこどもたちが遊ぶ、サイコロのようなもの「ドレイドル」には四つの面に「ネス・ガドール・ハヤ・シャム」(偉大な奇跡がそこで起こった)という言葉の最初の四文字(ヌン、ギメル、ヘト、シン)が書かれるのです。「マカバイ記一」にはユダヤの独立戦争のことが書かれていますが、これは、単なる「戦記文学」ではなく、信仰の書物です。ユダ・マカバイは「天が救おうとされるときには、兵力の多少に何の違いのあるものか。戦いの勝利は兵士の数の多さによるのではなく、ただ天の力によるのみだ。」(マカバイ一3:18-19)と言ってユダヤの兵士たちを励ましています。神への信仰があるかぎり、希望は消えません。それは「ハヌカー」の奇跡のように燃えつづけます。このアドベントに希望のキャンドルに灯をともした私たちは、こころにも、信仰によって希望の灯を燃えつづけさせていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、なくならない希望を主イエスによって与えてくださることを感謝します。私たちのまわりには、希望を消し去ってしまうような嵐が吹いています。なんど希望の灯が消されそうになったことでしょうか。それが消えてしまったかのように思われたときもありました。しかし、くすぶる燈芯を消すことのない主は、絶えず私たちに助けと励ましたの手を差し伸べ、私たちの希望を守り続けてくださいました。どうぞ、私たちに目に見えるものに左右されることなく、あなたとあなたの恵みのお力を思い見させてくださり、これからも私たちのうちにある希望の灯火を守り続けてください。キリストの弟子となって、練られた品性を養い、希望をいただくことができるよう、助けてください。そして、あなたからのなくならない希望を人々に語り伝えることのできる私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/2/2007