信仰による救い

ローマ3:21-26

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3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 古代のローマ帝国は、ヨーロッパの中心でした。その文化、法律、制度は今も残っています。身近なものでは、ラテン文字は日本では「ローマ字」と呼ばれています。また、I と V と X を組み合わせた「ローマ数字」は時計などで使われています。「ローマ」が入ったことわざもいくつかあります。「ローマは一日にして成らず(Rome was not built in a day.)」「ローマに入りてはローマに従え(When in Rome, do as the Romans do.)」「すべての道はローマに通じる(All roads lead to Rome.)」などです。

 聖書にも「ローマ人への手紙」があります。そこには、ローマに至る街道が舗装され、整えられていたように、救いの道が論理的に整った形で書かれています。それは “Romans Road to Salvation” と呼ばれ、これにはローマ3:23、6:23、5:8、10:9-10、10:13の五つの箇所が選ばれています。きょうはその最初の、ローマ3:23を学びます。

 一、創造者である神

 ローマ3:23は、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と言って、私たちに罪からの救いが必要であることを教えています。しかし、いきなり、「罪」とか「神からの栄誉」と言われても、聖書を学んだことのない人にはなんのことか分からないでしょう。その場合は、ローマ1:20から始めるとよいでしょう。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ここには、神が創造者であり、神はご自分が造られた世界を通して、ご自身を示しておられ、私たちは神を否定することができないと書かれています。私たちに神を正しく伝えてくれるものは、なによりも聖書ですが、神が造られたこの世界もまた、神がどんなに偉大なお方であるかを示し、神が決して木や石に刻み、どこかに収めておけるようなお方ではないことを教えています。詩篇に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた」(詩篇19:1-4)とある通りです。

 日本では高い山があると、それを神として拝んできました。たいていの川は山から流れ出て田畑を潤すので、農耕民族にとって山は自分たちを生かしてくれる神そのものだったのです。しかし、創造者である神を知る人々は、山を見上げる時、その山を造られた神を思い見て、神に信頼を寄せました。詩篇121:1-2に、こう歌われています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」すべての物を造り、あらゆる物を治める神だからこそ、私たちを守り、助け、救うことが出来るのです。私たちを救うお方は、じつに「天地を造られた」創造者である神です。

 人々はかつてはさまざまな物を神々として拝み、そこから「神話」が生まれました。今では、「神話」をそのまま信じる人はいなくなりましたが、かわりに「科学」をそのまま信じるようになりました。「科学的にはこうだ」と言われると、それが本当かどうかを確かめずに鵜呑みにしてしまうのです。“Scientifically Proven” とか “Doctor Recommended” などという言葉を使うと商品が良く売れるのはそのためです。「科学信仰」「科学崇拝」あるいは「主知主義」が人々に創造者である神を見失わせています。そのひとつが進化論です。進化論では世界は最初小さな物質の塊であったが、それが爆発し、そこから星が生まれた。その一つが太陽で、この太陽の3番目の惑星に地球があった。地球はたまたま太陽からほどよい距離にあり、自転しながら太陽のまわりを回るようになった。地球に「月」があるために海に潮の満干ができ、海の水が腐敗せずに済むようになった。その海から最初に単純な生命体が生まれ、そこからより複雑な生命体へと変化し、最終的に人間が生まれた。今日の世界は、偶然と偶然とが重なって出来たものだというのが進化論です。進化論では宇宙は138億年前に始まり、20万年前に人類が生まれたと言います。何億年という長い時間があれば、無生物から生物が生まれ、単純な細胞から知性も意志も感情も持った人間が出来ても不思議ではないというのです。しかし、進化論は仮説にすぎず、数多くの矛盾があります。ところが、人々は、あたかも進化論が証明された事実であるかのように信じ、創造者である神を締め出しています。

 しかし、神を締め出したなら、人は、自分が生きている意味を見失います。進化論では、私たちは偶然の産物で、偶然ここにいるだけで、人生には何の意味も、価値も、目的もないからです。アメリカの独立宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」とあります。アメリカは創造者である神への信仰に基づいて建てられた国家です。創造者である神を信じなくなったなら、人々の自由や平等が失われます。力のある者が力のない者を思いのままにしてもよいことになってしまいます。創造者である神を知らないこと、また、神を信じないことは、自分を不幸にするだけでなく、社会をも惨めなところにしてしまうのです。

 二、神に対する罪

 神は、その全知全能のお力によってこの世界を創造されましたが、同時に、人間を神とコミュニケーションができる特別な存在としてくださいました。自然界に法則を定めてくださった神は、神と人との間にも信仰と道徳の法則を定め、人がそれに従うとき、最も幸せになれるようにしてくださいました。ところが人は、まことの神を捨て、神ならぬものを神として礼拝するようになりました。ローマ1:21-23に、こう書かれています。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人々はさまざまな形の偶像を作りましたが、自分たちが作ったものが神であると本気で信じていたわけではありません。自分たちが従わなくてもよい神々、自分の思い通りになる神々を作り出したのです。人間が神を作り出すことによって、神の上に立とうとしたのです。神と人間との関係を逆さまにしてしまったのです。神と人との関係が逆さまになれば、人と人との関係も逆さまになり、壊れていくのは当然です。そして、それが社会の秩序を逆さまにし、壊していくのです。現代社会は、人々がどんどん神から離れ、社会が急速に壊れています。私たちは今、それを見ています。

 ローマ1:21に「神を神としてあがめず、感謝もしない」とありましたが、ここに人間の罪があります。聖書は、直接神に向かう罪を教え、また、どんな罪も、それを「罪」と定めた神に対する罪となると教えています。皆さんも、まことの神を知らなかった時、良心が痛むようなことをしてしまったとき、「どこかで神が見ておられる」と感じたことはありませんでしたか。自分のしたことが神に対する罪なのだということを心のどこかで感じませんでしたか。それは、神がすべての人に神を求める思いを与え、神の戒めをその良心に書き込んでおられるからなのです(ローマ2:15)。たとえ聖書の言葉を知らなかったとしても、人はその良心に刻まれた戒めによって、神に対する自分の罪を知らされていたのです。

 三、罪からの救い

 すべての罪には罰が伴います。交通違反をすれば罰金を払わなければなりませんし、重い罪であれば実際に刑務所に行かなければなりません。同じように、神に対する罪にも刑罰が伴います。聖書ではそれは「さばき」と呼ばれています。私たちは誰も、神が正しい「さばき」を行われることを知っており、また、それを期待しています。もし、私たちに損害を与えた者が何の罰も受けなかったら、きっと納得できないでしょう。人間が裁けないのなら、神に正しいさばきをして欲しいと願うでしょう。私たちは神に正義を求め、さばきを願うのです。ところが、自分のこととなると、さばき行う神は嫌だと言うのです。確かに誰も「さばき」などといった厳しい言葉は聞きたくありません。しかし、聖書は私たちを脅すために「さばき」を語っているのではありません。私たちをそこから救うために「さばき」について語り、神が人をさばくだけの神ではなく、愛と、いつくしみと、忍耐と寛容の神であり、私たちを悔い改めに導びこうとしておられることを教えています(ローマ2:4)。

 実際、神は、ご自分のさばきを曲げることなく、私たちの罪を赦す道を作ってくださいました。私たちに向けられるさばきが、誰か他の人に向けられ、代わりに私たちが罪の赦しを受けるという方法です。そして、その「誰か他の人」が、神の御子イエス・キリストです。罪のないお方が、私たちが受けなければならない「さばき」を受けてくださり、私たちはそれによって赦されました。そして神は、自分の罪を認めた者を「義と認めて」くだると定めてくださいました。何の罪も犯したことのない者とみなすだけでなく、神の栄誉、つまり、神の子どもとしての身分、神の愛、永遠の命を与え、永遠の神の国を受け継ぐ資格をも与えてくださったのです。

 もし、聖書がローマ3:23で終わっていたら希望はありません。しかし、続く24節があります。23節と24節はもともと一つの文章ですから、一緒に読んでみましょう。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」イエス・キリストの救いの範囲は「すべての人」、その原因は「恵み」、救いの方法はイエス・キリストの贖い、つまり、十字架と復活です。救いの手段は「価なしに」、つまり、信仰によってイエス・キリストが成し遂げてくださった救いを受け取ることによってです。具体的には、26節に「イエスを信じる者を義とお認めになるため」とあるように、イエス・キリストを救い主として受け入れることによってです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 人々が神を否定しようとするのはなぜでしょうか。良心が責められ、神のさばきを恐れるからです。神がいなければ、罪もなく、さばきもなくなると考え、神を締め出そうとしてきたのです。しかし、そこにはたましいの平安も満足もありません。私たちは神のない教育を受け、神のない生活をし、神のない社会を作り、神なしに世を去っていくだけの人生を送るだけで終わってしまいます。救いへのただひとつの道は神を認め、自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として受け入れることです。そのとき、さばきは取り除かれ、私たちは義と認められ、たましいは神の平安で満たされます。これが、聖書の教える「救いの道」です。きょう、その一歩を踏み出しましょう。すでにその一歩を踏み出した者は、この救いの道を歩み続け、この救いの道に人々を招こうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、きょうは、聖書が教える「救いの道」の第一歩を学びました。これを知ったすべての人が、そこに向かって信仰の第一歩を踏み出すことができますように。この道を歩んでいる私たちが、より多くの人をこの道に招き、ともにこの道を歩み続けることができますように。救い主イエス・キリストの御名で祈ります。

1/24/2021