12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
今朝は、「5つの目的」の第二、「私は、神の家族の一員として造られた。」ということについて学びます。私は、このことを考えるたびに、"To believe is to belong." ということばを思い起こします。"To believe is to belong." とは「信じることは、属すること」という意味で、これは、古代からずっと教会の中で大切にされてきたことばです。イエス・キリストを信じる者が、キリストの教会に属するということは、当然と言えば当然なのですが、このことは、必ずしも、はっきりと理解されてきたとは思えませんので、私たちはどのようにして教会に属するのか、なぜ教会に属していなければならないのか、また、教会に属するものとしてどうあるべきなのかを、もう一度、聖書から確かめておきたいと思います。
一、キリストに属する
聖書は、まず、キリストを信じる者は、キリストに属していると教えています。子どもたちが学校からもらってくるものに "This belongs to : " と書いてあることがありますね。その後に子どもの名前を書き込んでやると、「これはナンシーのもの」「これはロイのもの」などとなります。そのように、私たちも、キリストを信じた時、"This belongs to Christ" と書き記され、キリストに属する者、キリストの所有物となったのです。
ローマ6:5に「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」ということばがあります。キリストを信じる者は、キリストとつなぎ合わされ一体になったというのです。運動会で「二人三脚」という種目があります。ふたりの人が横に並び、肩を組んで、ふたりの右足、左足を紐で結びます。ふたりは、一体になりますから、調子をあわせて同じ方向に向かわないと、たちまち転んでしまいます。ひとりの人は右に、ひとりの人は左に向かうというわけにはいかなくなります。そのように、キリストを信じる者も、キリストとつながれて、キリストと共に歩むようになるのです。けれども、キリストとキリストを信じる者とのつながりを説明するのに、「二人三脚」のたとえでは十分ではないように思います。キリストに結び合わされるというのは、キリストとともに歩む以上のもの、キリストとともに生きることだからです。これは、とてもお気の毒なことなので、あまりたとえに使いたくはないのですが、キリストとクリスチャンとのつながりは、体がくっついて生まれて来る「シャム双生児」にたとえられるかもしれません。臓器を共有している双子の場合、ふたりを切り離すと、どちらかが死んでしまいます。クリスチャンとキリストとの結合は、そのような結合です。私たちはキリストから離れては生きてはいけないのです。私たちは、キリストと一体となり、キリストと共に十字架に死に、キリストと共に復活して、キリストの復活の命、永遠の命にあずかっているからです。
「キリストと共に十字架に死に、キリストと共に復活する。」このことは、にわかには理解しがたいことです。ローマ4:25に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。」とあるように、キリストの十字架は私たちのため、キリストの復活は私たちの救いのためでした。しかし、同時に、聖書は、キリストの十字架は、そこに私たちも共に死んだ、私たちの十字架であり、キリストの復活は、私たちも主と共によみがえった、私たちの復活であると教えています。あの十字架と復活は、「私たちのため」ばかりでなく、「私の」十字架であり、復活です。神は、キリストが私たちのために死なれ、よみがえられたことを信じる者に、私たちがキリストにあって死に、よみがえっていること、また、キリストのために死に、よみがえることを理解し、体験するように願っておられます。この理解、体験は、私たちのクリスチャンの生涯をかけてのものです。パウロは、ピリピ3:10-12で「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」と言っています。しかし、どこかで、このことの理解と体験を求め始めなければ、いつまでたっても、それは私たちのものとはなりません。今年のレントが、それを追い求めはじめる良い出発点になるよう、こころから願います。
私たちは、信じる時、なによりもまず、キリストに属するものとなります。キリストに属するものとなるのでなければ、私たちの名前が、たとえ教会の会員名簿にあったとしても、それが、私たちに天国を、永遠の命を保証するものとはなりません。天国の「いのちの書」には、キリストに属する者だけが、キリストといのちのつながりのある人だけが、その名を記されているのです。あなたは、キリストに属する者となっているでしょうか。その確信をはっきりと持っているでしょうか。
二、キリストのからだに属する
次に、私たちは信じる時、キリストのからだに属するようになります。ローマ12:4-5には、「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」とあります。キリストに属するということは、キリストのからだにの一部になるということです。そして、キリストのからだの一部になるということは、教会の一員になるということです。なぜなら、教会は「キリストのからだ」だからです。
昨日のリック・ウォレン師のメッセージの中にもありましたが、「キリストを信じてもよいが、教会には属したくない。」と言う人がいます。これは、正しいことではありません。キリストを信じることは、キリストに属することであり、キリストに属することは、キリストのからだである教会に属することだからです。ある教会では、洗礼を受けることと、教会のメンバーになることとを分けているところがありますが、私たちの教会では、洗礼と同時に教会のメンバーになります。洗礼は、キリストに属することだけでなく、教会に属することを表わすものだからです。私は、今まで、多くの方々に洗礼を授けてきましたが、たとえ、それが臨終の時の洗礼であったとしても、教会の執事会の承認を得て、その方を教会のメンバーとして受け入れるという形で行なってきました。私が洗礼を授けた人は、私が属する教会のメンバーとなるべきだと信じてきたからです。洗礼の水は、「産湯」のようなものであると言われます。洗礼は、洗礼を受けた人が神の子どもとして生まれたことを表わすものですが、その人は、霊的、信仰的には、まだ生まれたばかりの赤ちゃんなのです。生まれたばかりの赤ちゃんを、家族に迎え入れず、放り出してしまう家庭がどこにあるでしょうか。教会のメンバーに加えられることのない洗礼は、特別な例を除いて、生まれた子どもを放り出すようなもので、私には、無責任なものに思えるのです。教会は、「母なる教会」と呼ばれてきました。教会は、救われた者を養い、育てる、母親の役割を与えられています。教会が洗礼を授けた人に「メンバーになる、ならないはあなたの自由ですよ。」というのは、母親としての役割を放棄していることになると思います。また、教会に属そうとしない人がいるなら、その人は、教会の母親としての役割を無視していることになります。「教会を母としない者は、父なる神を侮蔑する。」ということばがあるほど、教会に属することは大切なことです。
また、「教会の外に救いはない。」ということばもあります。使徒たちや使徒たちの直弟子たちが世を去った時、間違った教えがどんどんと広がって、人々は正しい教えを持つ教会から離れていきました。「教会の外に救いはない。」とは、そんな時代に言われたことばですが、これは今も真理です。異端がはびこった時代、教会は、間違った教えから人々を守る砦でしたが、それは今も同じです。私たちは、教会ではじめて真理を、救いにいたる真理を聞きます。教会から離れては、どんなに聖書を研究したとしても、それは、頭だけの知識で終わってしまい、救いにいたることはできません。教会に属し、教会に留まっていないと、たちまち、間違った教えに引っ張られ、救いを失ってしまいます。
キリストを信じる者は神から生まれた者です。そして、神は、キリストを信じる者たちを神の家族の一員として生んでくださいました。私たちは、イエス・キリストへの信仰を告白することによって、その告白を二千年の間守りつづけてきた教会に加わるのです。キリストを信じる者はキリストに属し、キリストに属する者は、教会に属します。そして、教会に属することによって、キリストへの信仰を正しく守り、それを成長させることができるのです。
三、まじわりに属する
使徒信条は、「我は…聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白していますが、これは、教会とは、具体的には「聖徒の交わり」であるということを言っています。教会は、本質的には、建物でも、組織でもありません。それは「まじわり」です。しかし、「まじわり」と言っても、たんなる「ソーシャル」のことではありません。アメリカにある日系の教会には、日系コミュニティに奉仕するという側面があって、日系団体のひとつであるかのように考えられがちですが、教会は、数多くある日系コミュニティのひとつではありません。教会は、「聖徒」、つまりキリストを信じ、この世から選び分かたれた者たちのまじわりです。ですから、教会のまじわりは、同じ日本人だから、同じ故郷の人だから、同じ学校の同窓生だから、同じ職種の人だからというので、保たれていくものではありません。たとえ言葉や文化、世代や境遇が違っても、キリストを信じる信仰によって結びあわされていくところ、それが教会です。教会は、好きな人同士が仲良くするところではありませんから、人間的なコネクションを越えて、互いを「キリストにあって」見るところです。昨日のリック・ウォレン師のメッセージの中で、「あなたは、あなたの隣に座っている人に属しているのです。」という部分がありました。私の隣に座っていた桜井先生が、私をつついて、"I belong to you." と言いましたが、しかし、私たちは、直接、互いに属しているのではありません。キリストを介して属しているのです。クリスチャンひとりびとりはキリストに属し、キリストに属することによって、キリストのからだに属し、キリストのからだに属することによって、他のクリスチャンに属するのです。キリストを飛び越えて、直接他の人とのつながりを持ち、それを保とうとしても、それは人間的なもので終わってしまいます。「キリストにあって」のまじわり、これが分からなければ、教会は「聖徒のまじわり」とはなりません。そこに「おつきあい」はあっても「まじわり」は生まれてきません。
今朝の聖書の箇所、ローマ12:9-16は、教会のまじわりがどんなものかを描いています。ここには、まず、「偽りのない愛」(9節)という言葉が出てきます。「愛」という言葉は、しばしば、安易に使われ、甘いだけのものや、自分によくしてもらいたいことだけを要求するわがままなものであると誤解されていますが、愛とは、本来は、もっと厳しいものです。「悪を憎み、善に親しみなさい。」とありますように、ほんとうの愛は、悪を憎む厳しさを持っています。人間関係は大切なものです。関係が壊れたら、それを修復しなければなりません。それは教会でも同じです。しかし、教会は、人間関係がすべてのところではありません。教会には、神との関係という、もっと大切なものがあります。人間関係が第一になって、トラブルを避けさえすれば、ものごとが丸く収まりさえすればそれでよいというのではありません。関係の修復とともに、問題の解決に真剣に取り組んでいく、それが、聖徒のまじわりです。
10節に「兄弟愛をもって」ということばが続いています。教会では、クリスチャンはお互いを「兄弟」「姉妹」と呼びますが、それが、教会の「しきたり」だからそう呼ぶというのでなく、心からそう呼び交わすものでありたいと思います。しかし、心から互いを「兄弟」「姉妹」と呼ぶのは、人間の思いでできるものではありません。私たちは、人間的な好き嫌いの感情で左右されてしまいやすいものですから、神への信仰と祈りなしにはできるものではありません。しかし、ひとたび、神からの愛が与えられる時、私たちは、人を見かけで見るのでなく、その人を「キリストにあって」見ることができるようになります。どの人をも「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」(ローマ14:15)として見ることができるようになります。あなたの隣に座っているクリスチャンは、あなたにとって「兄弟」でしょうか。「姉妹」でしょうか。「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」でしょうか。
次に、10節と、16節を見ましょう。10節に「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」16節に「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」とあります。まじわりにおいて「謙遜」ほど大切なものはありません。「謙遜」はまじわりの基礎です。謙遜が失われる時、教会のまじわりは壊されてしまいます。
完全なまじわりを保っている、完全な教会は、地上のどこにもありません。どの教会も、いろいろな試練や苦しみを通りながら、そのまじわりを、よりきよめられたもの、より暖かいものにしていこうと努力しています。教会のまじわりを批判することは簡単です。しかし、神の家族の一員とされた私たちは、教会のまじわりを批判するためにではなく、それを育てるために召されたのです。リック・ウォレン師が「キリストへのコミットメントは教会へのコミットメントによって表わされなければならない。」と言うように、私たちも、神への愛を、教会への愛によって表わしたいと思います。
「日本にはわずか1パーセントのクリスチャンしかいない。」と、良く言われます。紛争の最中にあるイラクでさえ、3パーセントのクリスチャンがいるのですから、それは、悲しいことです。しかし、日本では、その1パーセントのクリスチャンが、とても素晴らしい働きをしているということも見逃してはならないと思います。日本のクリスチャンはとても、真面目で、忠実です。私は日本で伝道してきて、そのことを体験してきました。ある教会にクリーニングの仕事をしている兄弟姉妹がいましたが、この兄弟姉妹は何をするにも、教会を中心にして考える人たちでした。新しくお店を開く時も、仕事が終わってから祈祷会に行けるように、またお客さんに教会の案内ができるようにと、教会の近くにお店を開きました。私が奉仕していた教会では、ある時期、青年会のメンバーが、ひとりの姉妹だけになったことがありました。彼女には他の地域の人との結婚の話もあったのですが、彼女は、教会に留まって教会のために働きたいと願って、神が教会内で結婚相手を与えてくださるのを待ちました。神は、彼女の祈りに答えて、彼女に素晴らしい男性を与えてくださいました。その後、次々と青年たちが加えられ、彼らは結婚して教会に留まり、教会は目に見えて成長していきました。東京の練馬で奉仕していた時には、ひとりの兄弟が千葉から二時間もかけて教会に通い、毎週礼拝後も残って、会計の仕事をして帰っていました。学校を選ぶ時も、就職する時も、また結婚においても、教会を第一に考えてくださった方々によって、教会は支えられてきました。アメリカでも、神は日本人の忠実さを用いて、ここにこのように教会のまじわりをつくりあげてくださいました。このまじわりに加えられた私たちは、今、その恩恵を受けている、このまじわりに甘えるだけでなく、このまじわりを「聖徒のまじわり」として育てていくために、自分をささげたいと思います。積極的に、しかし謙遜に、そのために、自分の役割を果たしたいと願います。
(祈り)
父なる神さま、あなたを知らない時には、人との関係が、私たちにとって、人生のすべてでした。人の目を気にしながら、それでいて、自分のしていることが人の目に触れ、認められることを求めて生きてきました。キリストを知ってからは、他の人との関係を、あなたとの関係でとらえるようにと教えられてきました。しかし、以前の生き方からは完全に抜け出せず苦闘することが多くあります。しかし、あなたは、その苦闘の中で、私たちに、まず、あなたとの関係を確立し、それを深めるようにと、教えてくださいました。あなたとの関係を深めることによって、私たちに、偽りのない愛と真の兄弟愛、そして、謙遜を与えてください。そして、教会のまじわりに何かを求めるだけでなく、それを育てるために用いられるものとしてください。教会のかしら、主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/13/2005