12:6 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
12:7 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
12:8 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
一、日常の賜物
教会で良く使われる言葉に「賜物」という言葉があります。国語辞典によるとふたつの意味があります。ひとつは「恩恵や祝福として与えられたもの。たまわりもの」という意味で、「水は天からの賜物」などというふうに使います。もうひとつは、「あることの結果として現れたよいもの、または事柄。成果」という意味で、「この発明はこの開発チームの努力の賜物だ」などというときに使います。聖書の「賜物」という言葉は「恵み」という言葉から出たもので、「恵みとして与えられるもの」、「無償の贈り物」、「神の恵みのあらわれ」という意味で使われています。英語では“gift” と訳されます。
考えてみると、わたしたちが受けているほとんどのものは、神からのギフト、賜物です。国語辞典に「水は天からの賜物」という用例がありますが、水ばかりでなく、空気も、食物も、そして、それらのものを生み出す自然もすべて賜物です。なにより、自分に与えられた命自体が神からの賜物です。神はわたしたちに命だけでなく、その命を支える物をも賜物として与えてくださっているのです。
神は人間を創造的な存在として造られましたので、人間もまた知恵や力、才能や努力によって何かを生み出すことができます。たとえば大地は神が創造されたものですが、そこに町を作り、道路を作ったのは人間の努力です。大空も大海原も神が創造されたものですが、そこに飛行機を飛ばし、船を走らせたのは人間の知恵によるものです。しかし、大地に人々の営みを支えるものを備えられたのは神です。飛行機が空を飛び、船が水に浮かぶという法則を与えたのも神です。自然の法則は神が造り定められたもので、人間が作ったものではありません。人間はそれを発見し利用しているだけです。
ある人は「俺が一所懸命働いて家族を養っているんだ」と言うかもしれません。それは事実で、そうした努力は尊いものです。しかし、仕事の機会、それをこなす才能、それを成し遂げる健康や精神力などは、じつは神からの賜物です。わたしたちが持っている物で、神の「賜物」でないものはおそらく何一つないでしょう。聖書も「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」(コリント第一4:7)と言っています。
わたしたちの持っているもののすべて、百パーセントは神からいただいたものです。人間の努力を最大限見積もったとしても、九〇パーセントは神からの賜物です。ですから、わたしたちが神から受けたもののうち九〇パーセントを神にお返ししても当然なのですが、神は、わたしたちにただ十パーセントだけを神にお返しすればよい、残りの九〇パーセントはわたしたちが自由に使ってよいと言ってくださっています。神はなんと寛大なお方でしょう。わたしたちが神から与えられたものの一部を神にお返しするのは、自分が自分の力によってではなく、神によって生かされていることを覚えて、感謝をささげるためです。受けるだけでなく、与える生活がどんなに豊かなものであるかを体験するためです。
わたしたちに必要なすべてのものは賜物として神から与えられる。このことを信じて歩むなら、安定した人生を送ることができます。たとえ自分の努力が実を結ばず、すべて失敗だったと思えるようなときも、物事をあきらめたり、人生を投げ出すことはありません。人生の基盤を、いつ崩れるかもしれない人間の努力ではなく、神の賜物に置いているからです。「神の賜物に人生の基盤を置く」というのは、どんな努力もしないで「棚からぼた餅」を期待する無気力な生き方をするということではありません。それとは逆に、わたしたちの努力を正しい方向に向けるということです。現代、若い人々の間に「鬱」や「ひきこもり」が増えています。鬱になると、今しなければならないことが分かっていてもそれができなくなります。そして、今、心配しなくてよい将来のことを思い患ってしまうのです。それで鬱の人は努力が欠けている、頑張りが足らないと思われがちですが、実際はそうではありません。一般的に鬱の人は頑張り過ぎているのです。何事でも自分の努力でなんとかしようとするので、疲れ果てるのです。しかし、わたしたちの命も人生も神からの賜物であることを知り、信じ、将来を神に任せるなら、わたしたちは鬱やひきこもりから抜けだして、確かな人生へと歩み出すことができるのです。
二、救いの賜物
わたしたちの毎日の生活は神の賜物によって支えられています。真っ直ぐで謙虚な心を持つなら、誰にもそれは見えるのです。しかし、聖書はさらに大きな賜物を教えています。それは、「救いの賜物」です。ローマ6:23に「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」とあります。神は、わたしたちがこの世でさいわいな人生を送ることができるよう、さまざまな賜物をお与えくださっています。しかし、わたしたちがそうした賜物に感謝もせず、賜物の与え主である神を自分の人生に迎え入れることがなかったらどうでしょうか。どんなに真面目に生きたとしても、善い行いに励んだとしても、いのちのみなもとであるお方から離れたところにはいのちはないのです。「罪の支払う報酬は死である」とは人を殺して死刑になる人のことを言っているのではありません。普通に生活していても、その心に希望も喜びもなく、心が死んでいるような人、忙しく動きまわってはいても、神と愛のまじわりがない人、神に対しては死んでいる人のことです。そういう人は天国の希望や確信がないまま、人生の終りを迎えます。それ以上に悲しく、つらいことはありません。一所懸命生きてきて受ける「報酬」が「死」であるとしたら、それ以上に悲惨なことはありません。
「罪の支払う報酬は死」です。しかし、「神の賜物は永遠のいのち」です。イエス・キリストは神に背を向けて生きてきたわたしたちの罪を赦し、わたしたちを神に連れ戻すためにこの世に来てくださいました。このお方によってわたしたちの罪は赦され、わたしたちは「永遠のいのち」をいただきます。「永遠のいのち」とは、それによって、神によって生かされ、神と共に生き、神のために生きることができるいのちです。永遠のいのちによって生きるとき、わたしたちは人生に意味と目的を見出し、生きる力と喜びを受けるのです。この「いのち」は「永遠の」と呼ばれるように、死によって終わらないいのち、なくならないいのちです。肉体のいのちは時間とともに減っていきます。しかし、永遠のいのちを持つ者は、死を越えて神と共に生きるのです。神は永遠のお方で、人が永遠に神と共にあることを望まれ、永遠に人が神に愛され、神を愛することができるため、永遠のいのちをくださるのです。
この永遠のいのちがわたしたちのものとなるためには、わたしたちの罪が処分され、罪の支払う報酬である「死」がキャンセルされなければなりません。そして、それをしてくださったのが、イエス・キリストです。キリストはわたしたちの罪の一切を引き受け、十字架の上で死なれました。「罪の支払う報酬」をわたしたちに代わって引き受けてくださったのです。さらに、キリストは三日目に復活し、死を滅ぼして、わたしたちのために永遠のいのちを確かなものとしてくださいました。聖書は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)と言っています。イエス・キリストご自身が、神からわたしたちへの最高の賜物なのです。
「報酬」というものは働きに応じて与えられるものですが、「賜物」は、働きに関係なく与えられます。救いは無償の贈り物です。それはわたしたちの努力で勝ち取るものではなく、ただ受け取るだけのものです。そう聞いて「そんな話はあまりにも虫が良すぎる」と思う人もいるでしょう。もしそう思うなら、自分の力で「永遠のいのち」を勝ち取ろうと努力してみてください。ただし、そのためには、神の戒めのすべてを完全に守る必要があります。ひとつ欠けてもだめです。わたしたちにそんなことができるでしょうか。できるわけがありません。しかし、人ができないことを神はしてくださいました。わたしたちがしなければならないことをイエス・キリストが代わって成し遂げてくださったのです。ですから、救いは賜物なのです。この救いの賜物はすでにあなたのものとなっているでしょうか。もしそうでなければ、明日と言わず、今日、この賜物を素直な心、感謝の思いで受けとってください。今、この時から、人生を永遠のいのちによって生きる幸いな人生を始めていただきたいと、こころから祈ります。
三、奉仕の賜物
さて、最後に「奉仕の賜物」について学びましょう。このメッセージでは奉仕の賜物について触れるのが最後になってしまいましたが、クリスチャンの間では、「賜物」という言葉を聞くと、まず奉仕の賜物のことを考えるのが普通だと思います。そして、奉仕の賜物というと、コリント第一12:8-10にある「知恵の言葉、知識の言、信仰、いやしの賜物、力あるわざ、預言、霊を見わける力、異言、異言を解く力」などに限定してしまう傾向があります。最初に話しましたように「恵み」(カリス)から「賜物」(カリスマ)という言葉が生まれました。コリント第一にある九つの賜物は霊的なことがらに奉仕する大切なものですが、そうした特別なものだけが賜物ではないことを知っおきたいと思います。ローマ12:6-8には「預言、奉仕、教え、勧め、寄附、指導、慈善」などが挙げられています。このうち「預言」や「指導」は「わたしにはそんな賜物はありません」と言えるかもしれませんが、「奉仕、教え、勧め、寄附、指導、慈善」は誰にでも与えられている一般的な賜物であり、実際に多くのクリスチャンがその賜物を使って神に仕えています。
聖書に「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである」(ペテロ第一4:10)とあります。「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいている」とあるように、クリスチャンひとりびとりには、例外なく、ひとつ以上の賜物、神に仕えるための特別な能力が与えられています。それは何も「カリスマ的」な賜物でなくて良いのです。ちょっとした心遣いで人に仕えること、こどもたちや初心の人に神のことを教えること、まわりの人々を慰めたり、励ましたりすること、自分の持っているものを分け与えること、より大変な目にあっている人を助けること、教会の必要にできることで応えることなどは、誰もができ、してきたことです。そうしたことを自分の頑張りではなく、神が備える力によってするなら、その奉仕はどんなにか実を結ぶものとなることでしょう。そのようにしてする奉仕は、神に喜ばれるだけでなく、自分にも大きな喜びが返ってくることでしょう。
「日常の賜物」がすべての人に与えられ、「救いの賜物」もすべての人に差し出されているように、「奉仕の賜物」もすべてのクリスチャンに与えられています。「わたしにはどんな賜物もありません。わたしは何もできません」と、誰も言うことはできません。たとえ寝たきりになったとしても、ベッドの上で人々のために祈ることができます。皆さんは、病気の方をお見舞いに行って、かえって病気の方から励まされて帰ってきたことがありませんか。わたしも病気の方のために祈るつもりで行ったのに、その方から祈っていただいて帰ってくることがよくありました。その方はご自分が病気で苦しい思いをしているのに、牧師のために、メンバーのために、自分を看護している人のために祈り続けていました。わたしはそのとき、教会は、このような祈りの奉仕によって支えられているのだと実感しました。神が与えてくださる奉仕の賜物は、人間の能力以上のものです。自分では出来ないと思っていても、それによって、神の愛や恵み、力や栄光が表されていくことが多くあるのです。
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいている」などと言われると、「さあ、あなたの賜物を活用しなさい。頑張って奉仕をしなさい」とせきたてられているように感じる人もいるかも知れません。聖書は、奉仕の賜物について、それをより良く用いるのはわたしたちの責任であると教えています。ローマ12:8にも「寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである」とあって、「惜しみなく、熱心に、快く」奉仕をするよう教えています。しかし、こうした教えは決して脅迫でも強制でもありません。神はわたしたちが進んで、喜んですることを願っておられます。そのためには、「救いの恵み」に立ち返ることが大切です。ある時、イエスの弟子たちが、伝道から帰ってきて、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と言いました。大きな賜物を与えられたことに興奮している弟子たちにイエスは言われました。「霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:17、20)奉仕の賜物は素晴らしいものですが、救いの賜物に勝りません。それは救いの賜物を受けた者が、なんとかして、救い主にお仕えしたいと願う、その心に応じて与えられるものです。奉仕の賜物は救いの賜物があってはじめて意味を持ちます。「賜物より癒しより、与え主ぞ、さらに良き」(新聖歌346)という賛美のように、キリストの救いの賜物から目を離さないでいたいと思います。そのとき、わたしたちは、自分に与えられた賜物が何であるかを発見するでしょう。それをさらに成長させ、よりすぐれた賜物を願い求めるようになるでしょう。その賜物によって「惜しみなく、熱心に、快く」奉仕することができるようになるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、わたしたちが人生を喜び、楽しむために、多くの賜物を与えてくださいました。イエス・キリストによる救いの賜物をいただくまでは、そうしたことがわからず、感謝も信頼もない日々を過ごしていました。しかし、恵み深いあなたを知り、救いの賜物を受けた今、わたしたちは、あなたの恵みに応えて、あなたにお仕えし、人々とあなたの豊かな賜物を分けあいたいと願っています。わたしたちに与えられた奉仕の賜物を聖書の教えに従って、正しく、また豊かに用いることができますように。それによってあなたの恵みを証しすることができますように。あなたがわたしたちに与えてくださった最高の賜物、イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/26/2014