12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
12:4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
一、神の家族
昨年(2013年)「ゼロ・グラヴィティ」という映画がヒットしました。宇宙船で船外活動をしていた飛行士が宇宙ゴミのために宇宙空間に放り出されるという物語です。主演のサンドラ・ブロックが宇宙空間に漂う人間の不安や、なんとしても生き残ろうとする意欲を、宇宙服を着たまま、顔の表情だけで見事に演じたというので、良い評価を受けました。
人はみな、どこかに属すること、誰かとつながっていることを求めています。どこにも属していない、誰ともつながっていないとき、人は、宇宙空間に放り出されたような不安を抱くのです。現代のわたしたちは、家族を持ち、大勢の人々に囲まれて生きているのに、自分が属すべきところ、つながっているべきものを見失っています。カルト集団や暴力団に入る人の多くは、家族や学校、社会の中で自分の居場所のないと感じている人が多いそうです。カルト集団や暴力団が反社会的なものであったとしても、その強い結束に魅力を感じるのでしょう。しかし、その結束は本物の愛に基づかない、ゆがんだものです。どこかに属していたい、誰かとつながっていたいというのは、人にとって基本的な欲求です。しかし、その欲求を間違った形で満たそうとしても、一時的には満たされた気持ちになっても、ほんとうの安らぎが得られず、ふたたび宇宙空間をただようような不安と恐れに襲われるのです。
ではわたしたちがそこにつながってほんとうにこころ安らぐところはどこなのでしょうか。「神は人を神にむけてお造りなった。だから、人の心は、神のうちに憩うまで、安らぎを得ることができない」と言われているように、それは神です。神はわたしたちが神のもとに帰ることができるため、救い主キリストをくださいました。わたしたちはイエス・キリストを通して神に立ち帰るとき、自分の属すべきところに憩うことができるのです。神のもとに帰るとき、たましいのふるさとに、わが家に帰ってきたような平安を得るのです。神は、そのことを身近に感じることができるよう、わたしたちに教会を与えてくださいました。教会にはじめて来た人が「はじめて教会に来たのに、なにかなつかしいものを感じました」と言うのを、わたしは多く聞いてきました。それはアメリカにいて日本語がなつかしいというだけのものではありません。教会に神がおられ、キリストがおられるからです。神がそこにおられる、そのゆえに教会がわたしたちの帰るべきところ、安心して属していられるところとなるのです。
初代教会の指導者たちを「教父」(Church Fathers)と言いますが、教父たちは口をそろえて「信じることは属すること」("To believe is to belong.")と言っています。神を信じることは、教会に属することです。「クリスチャン」という言葉には「キリストに属する者」という意味があります。キリストを信じる者は「キリストに属する者」であり、キリストに属する者は同時に「教会に属する者」なのです。教会は神の家族です。バプテスマは、わたしたちの神への信仰の証しですが、同時に神からわたしたちへの救いの証しでもあります。神は、バプテスマによって「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ」(詩篇2:7)と語りかけてくださるのです。神の子どもなら、神の家族の一員です。神はご自分の子どもたちを神の家族である教会に委ねられました。教会は神の子どもたちの母であり、わたしたちは教会によって信仰を養われるのです。それで、教父たちは「教会を母としない者は、神を父とすることができない」とも言いました。
わたしたちは、神の家族に帰ってきてはじめて、自分がつながっているべきところ、自分の属すべきところを見つけ出すことができます。どんな理由であれ、教会から離れている人がありましたら、教会があなたのホームであることを覚えていてください。この世のどこででも与えられなかったほんとうのこころの安らぎを、教会で得てください。自分が何者なのかを知り、自分がなすべきことが何かを見出してください。
二、キリストのからだ
教会は神の家族、わたしたちのホームです。それは同時にキリストのからだです。教会につながるお互いはキリストのからだの肢体です。わたしたちはキリストのからだを通してお互いにつながっているのです。コリント第一12:26に「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ」とあります。からだのどの部分を痛めても、そこだけでなく、からだ全体が痛みます。そのように教会につながるお互いは痛みや喜びを分け合うのです。そうすることによって、お互いがいやされ、成長していくのです。互いが助け合い、分かち合うことの力は誰もがよく知っています。教会だけではなく、一般の団体でも、スポーツのチームでも、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」などのスローガンを掲げて、痛みや喜びを共有しようとしています。一般の団体でそうなら、教会はもっとそうしなければならないでしょう。しかし、教会には、悩みや喜びを互いに共有する以上の恵みがあります。悩みや喜びをキリストと共有することができるのです。キリストはご自分のからだである教会の痛みを感じ取って共に痛み、その喜びを共に喜んでくださるのです。
使徒行伝9章に、使徒パウロの回心のことが書かれています。パウロはもとの名をサウロと言いい、教会を迫害していました。エルサレムの教会だけではあきたらず、遠くダマスコの教会を迫害するために、そこに向かっていました。そのサウロにキリストが現われ「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語りかけました。サウロが「主よ。あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがありました。「サウロ、サウロ。なぜ、教会を迫害するのか」ではなく、「なぜわたしを迫害するのか」とイエスが言っておられることに注意してください。教会に鞭をふるうことは、キリストに鞭をふるうこと、教会を迫害することは、キリストを迫害することだというのです。からだのどの部分が痛んでも、その痛みが神経を通じて脳に伝わるように、教会のかしらであるキリストは、そのからだである教会に加えられた痛みをご自分の痛みとして感じておられるのです。
キリストは十字架にかかられる前、ローマ兵から鞭打たれました。キリストは十字架の苦しみをすべて、その極限まで受けられました。ですから、復活し、栄光のからだを持っておられる今は、もうどんな苦しみも受けられることはないと思われがちです。しかし、そうではありません。キリストの復活のからだを誰も傷つけることはできませんが、キリストのもうひとつのからだ、教会は人々から傷つけれることもあれば、自らを傷つけることもあります。今は、迫害の時代のような痛み、苦しみはないかもしれませんが、地上の教会には、今も、さまざまな痛み、苦しみ、悲しみがあります。教会が痛むとき、教会に属するわたしたちが痛みを感じるだけでなく、キリストがまっさきにそれを感じられるのです。教会が苦しむとき、互いが苦しむだけでなく、キリストご自身が苦しみ、教会が悲しむとき、キリストも悲しみ、涙されるのです。逆に、教会が喜びに満たされるなら、キリストも喜びに満たされます。教会が尊ばれるなら、それによってキリストは栄光をお受けになります。教会がいやされ、慰められるとき、キリストの心もまた慰めを受けられるのです。
「教会はキリストのからだ。」これは、とても意味深い真理です。日本語では人々のあつまりを「体」という言葉で表わします。「団体」とか「共同体」など、「体」という文字が使われます。英語でも「学生自治会」を "student body" と言います。組織を人間のからだになぞらえているのです。しかし、「教会はキリストのからだ」というとき、それは「教会はキリストのからだのようなもの」という意味ではありません。教会は、キリストがその痛みをご自分の痛みとしてお感じになる、文字通り、正真正銘のキリストのからだです。
キリストは復活のからだ、栄光のからだをお持ちなのに、弱く、痛みやすい教会をあえてご自分のからだとなさいました。それほどにキリストは教会を愛しておられるのです。教父たちは言いました。「からだを持たないかしらが不完全なように、キリストも教会がなければあたかもご自分が不完全であるかのように、教会をご自分のからだとされた。ここに、キリストの教会に対する愛がある。」初代教会は、教会がキリストのからだであることを、すでに深い意味でとらえていたのです。わたしたちも、もういちど、聖書に立ち返って、教会がキリストのからだであることの意味をもっと深く理解したいと思います。そして、キリストのからだにつながっている幸いを味わい、そのことによって力づけられたいと思います。
三、役割に生きる
心理学者のマズローは人間には五つの欲求があると言いました。まずは、食欲など、命を保つための欲求、次に自分の身を守る安全の欲求、そして、自分が誰かから必要とされていて、そこに属しているという社会的欲求、それから、自分が認められ、尊重されたいという欲求、さらに自分がなりえる者になるという自己実現の欲求です。今朝はマズローの第三の欲求が神によって満たされるということをお話ししているのですが、わたしたちは誰も自分が属するところで何かの役に立ちたい、自分が必要とされたいと願うものです。教会ではお互いがお互いを必要としています。人間のからだに必要でない器官がないように、キリストのからだである教会にも、必要のない人はありません。「私は年をとってしまって何もできなくなった。」「私は、あの人のような奉仕ができない。」だから自分は必要ないのだなどと、誰も言うことはできません。
私がはじめてカリフォルニアに来ましたころ、まだ数人の一世の方々がおられました。90歳近くになるひとりの姉妹は、体の調子の良い時にはお嬢さんに連れられて礼拝に出ていました。彼女が礼拝に出ているだけで、みんなが励まされ、その場の雰囲気が温かくなりました。彼女は、いつも「私は何もできなくて…」と言っていましたが、ほんとうは教会を温めるという大切な奉仕をしていたのです。奉仕というと手足を動かしてするだけのものと考えられがちですが、決してそうではありません。その人がそこにいるだけで、それが奉仕になることもあるのです。わたしはそれを「存在(being)の奉仕」と呼んでいます。Doing とbeing はともに大切です。どんな人にも役割が与えられており、誰もがそれを果たすことができます。礼拝に来る、そのことだけでも、それが神から与えられた役割を果たすことになり、神への奉仕となるのです。
田崎健作という牧師が「顔面革命」というお話を書きました。「ある日、顔の中で騒動が起こった。口が最初に不平を言い出した。『顔の中でおれが一番たくさん働いているのに、なぜ、おれは顔の一番下にいなければならないのだ。おれの上にがんばっている鼻など、においをかぐくらいのことしか出来ないのに、そのくせ鼻筋が通っているなどと威張っている。』これを聞いて鼻は言いました。『口君の言うことは確かにそうだ。しかし、ぼくの上にいる目はとんでもない怠け者だ。一日のうち半分はふとんをかぶって寝て、何もしていない』と言いました。今度は目が言いました。『皆さんのおっしゃることはごもっともです。しかし、私の上にいる眉は、どうなんでしょうね。何もしていないのに、顔の一番上であぐらをかいているではありませんか。こんな不合理はゆるされません。口が一番上に、二番目は鼻。鼻の穴はだいじですから、上を向いているほうがよいでしょう。それから私。眉は一番下に移ろうではありませんか。』こういって、それぞれ顔の中で順番を入れ替えました。次の日、朝の食卓につきました。味噌汁やごはんを口に運ぼうとするのですが、目が下についていますから、どこが口だかわかりません。頭のてっぺんまで運ぶのですが、見当がつかず、こぼれた味噌汁やご飯つぶが、口の下に上を向いている鼻に入ります。それで鼻がクシャミをすると、眉が目の下にあるものですから、それが鼻の下にある目に、容赦なく入ります。これはたまらんというので、顔面改革はおしまいにしてもとに戻ったということです。」
たいへん面白いお話ですが、顔の配置の中にも神の知恵が行き届いていることがわかります。キリストのからだにおいても、神はそこに属するひとりひとりに、その人でなければできない役割を与えておられます。生涯変わらない役割もあれば、年齢や立場によって変わっていく役割もあります。若い時には若い時の役割を果たし、年齢を重ねてからは、それにふさわしい役割が与えられることがあります。目立つ役割もあれば、目立たないものもあります。人間の身体で一番目立たないのは「足の裏」かも知れません。それである人が「教会がキリストのからだなら、わたしは足の裏になりたい」と言いました。その人は謙遜して言ったつもりなのでしょうが、足の裏は全身を支えている大切な部分です。実際はとても大きな役割です。目立たないところで、教会のため、ひとりひとりのために祈る、そんな「足の裏」のような人たちによって教会は支えられているのです。
わたしたちみな、教会の中で役割を与えられています。そのことを知るとき、わたしたちは教会に属している喜びだけでなく、自分が他の人の役に立っているという喜びをいただきます。みんながその喜びに生きるとき、それはどんなにキリストを喜ばせ、人々を活かすものとなることでしょう。キリストは教会をご自分のからだとして愛しておられます。そして、あなたもキリストのからだの一部分として、キリストに愛されており、キリストのために、他の人のために生きるという役割が与えられているのです。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちをキリストのからだの一部分、メンバーにしてくださったことをこころから感謝します。あなたがどんなにわたしたちを愛し、またわたしたちの存在を用いようとしておられるかを、さらに教えてください。あなたから与えられた役割を喜び、その役割に生きる者としてください。教会のかしらイエス・キリストのお名前で祈ります。
9/21/2014