変化の恵み

ローマ12:1-2

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12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 先週の月曜日から木曜日まで、教団の牧師リトリートに行ってきました。前の日まで天候が悪く、フリーウェーは大丈夫だろうかと心配したのですが、行きも帰りも良いお天気で順調にドライブできました。皆さんのお祈りを感謝いたします。

 さて、今週の「灰の水曜日」から「レント」が始まります。「レント」の四十日は、エジプトから救われたイスラエルが荒野を四十年旅したことや、主イエスが公のご生涯に備えて荒野で四十日間断食なさったことにちなんでいます。この四十日は、悔い改めのうちに、主イエスの十字架の恵みを思いみる期間です。いままで、レントの期間にさまざまなデボーションを用意してきましたが、今年は、「12ステップ」のデボーションを用意しました。「12ステップ」は悔い改めのステップですので、レントの期間に用いるのにふさわしいと思います。今日最初の二週間分が礼拝プログラムに入っています。残りは二週間ごとに配布します。明日の連鎖祈祷では、このレントの期間、私たちが自分の内面により深く降りていき、主イエスの恵みにより高く上っていくことができるよう祈りましょう。

 一、後悔と悔い改め

 私たちは今、「12ステップ」によって「悔い改め」を習っています。まず、「悔い改め」とは何かを確認しておきましょう。コリント第二7:8-11にこうあります。

 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。

 この手紙が書かれたころ、不名誉なことですが、コリントは不道徳な町として知られていました。当時、快楽を追求して、ふしだらな生活をすることが「コリント風に生きる」と言われていたほどです。たとえコリントの町がそうであっても、教会はきよい心ときよい生活を求めるところでなければならなかったのですが、残念ながら、コリントの町の気風が教会の中に入りこんできて、コリントの教会にはさまざまな道徳的な問題や信仰的な問題がありました。使徒パウロは、その報告を受けたとき、すぐコリントに行けなかったので、厳しい手紙を書いて、コリントの教会を責めました。使徒パウロは、その手紙を書き送ってからずいぶん心配しました。コリントの教会の中にはパウロの使徒としての権威を認めない人もいましたので、そうした人々が彼の手紙に反発して、もっと不道徳な方向に流れはしないだろうかと憂えたかもしれません。あるいは、愛を持たないでただ問題だけを責める人々を助長し、教会の中で冷酷なだけの責め合いが始まるのではないかと恐れたことでしょう。また、真剣なクリスチャンたちが、うなだれ、悲しみに打ちひしがれて、キリストの恵みを見失ってしまわないだろうかとの心配もあったでしょう。実際、パウロは、彼の手紙がコリントのクリスチャンを悲しませたことに心を痛め、一時的ですが後悔したと言っています。ある人は「後悔するようなことをするのは使徒にふさわしくない。そんなに心配するのは信仰者らしくない。」というかも知れませんが、はたしてそうでしょうか。パウロは使徒としてコリント教会を生み出した人です。パウロは、父親、母親のように常にコリントの教会のことを気にかけていました。いったい子供のことを心配しない親があるでしょうか。パウロの心配は彼の教会に対する愛でした。パウロはコリント第二11:28-29で「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」と言っています。パウロの教会にたいする愛の心がよく分かることばです。使徒パウロが真理のために断固とした態度で戦っていると、「高慢で、頑固で、融通の利かない人物だ。」と非難され、人々への愛のために身を低くしていると、「弱々しくて頼りにならない優柔不断な人だ。」と批評されました。パウロの語ったこと、書いたこと、行ったことの背後にある教会の父としての愛の心を見ることのできる人は多くはなかったのです。

 けれども、コリントの教会は、パウロの手紙によって悔い改めへと導かれ、罪を犯した人への処罰を断行し、問題を解決しました。そして神への悔い改めに進むにつれて、コリント教会のパウロに対する愛と尊敬が回復していったのです。このパウロのことばは、そのようなコリント教会の悔い改めについて語っている部分なのですが、この中でパウロは「後悔」と「悔い改め」とを区別しています。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。」の「悔いた」というのは「後悔した」という意味です。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」の「悔いのない」というのは「後悔しない」という意味です。ここでは「後悔」と「悔い改め」は似てはいても違うもの、「悔い改め」は「後悔」以上のものであると教えられています。

 では、「後悔」と「悔い改め」とはどう違うのでしょう。第一に、「後悔」は自分に焦点があわさっていますが、「悔い改め」は神に焦点が当てられます。「後悔」は自分のことに思いが向いています。「あんなことをしなければ良かった。」と自分を責め、落ち込んでしまい、それ以外のことが目に入らなくなるのが「後悔」です。しかし、「悔い改め」は、自分ではなく、神と他の人に目が向けられます。「悔い改め」に伴う悲しみは、自分の失敗を嘆くだけのものではなく、自分の罪によって神の栄光を傷つけ、他の人を傷つけたという悲しみです。自分のしたことを悔やむだけで終わるのは「悔い改め」ではありません。「悔い改め」とは、自分から一歩踏み出すことです。自分のしたことが神に対する罪であることをまごころから認め、それを言い表し、神に赦しを願うことです。

 第二に、「後悔」は後ろ向きですが「悔い改め」は前向きです。「後悔」は過去だけを見ます。それは、人を、過去の過ちの中に閉じこめます。「後悔先に立たず。」ということわざは、「いくら後悔しても、いったん起こったことはもとには戻らない。」ということを教える絶望的なことばです。たしかに誰も過去を変えることはできません。しかし、聖書の教える「悔い改め」は、罪の赦しによって私たちを過去から解放します。私たちを新しい思いと新しい生活に向かわせてくれます。「後悔」は誰をも救いません。絶望と悲しみしか与えません。「後悔」は過去を悔やむだけ、自分の失敗を嘆くだけです。「後悔」に留まっているかぎり「悔い改め」に進むことはできません。そこから一歩踏み出して、自分の罪を認め、告白し、キリストの赦しを願い求めましょう。過去に閉じこもらず、神があなたのために用意しておられる新しい心と、新しい生活に向かって進みましょう。「悔い改め」がなければ、あなたの生涯は「後悔」だけで終わります。しかし、「悔い改める」なら、私たちは「後悔」のない生涯を、いいえ、「後悔」のない永遠を過ごすことができるのです。

 二、悔い改めと変化

 第三に、「後悔」には変化がありませんが「悔い改め」には変化があります。「後悔」は決して変化を求めませんし、人を変化に導きません。しかし「悔い改め」は人を変化に導きます。ダビデは、悔い改めの祈りの中で、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)と、変化を祈り求めています。そして、ローマ人への手紙は、その変化がどうやってもたらされるかを教えています。

 まず、変化は、自分を神にささげることからきます。ローマ12:1に「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。旧約の礼拝では動物が犠牲として捧げられました。同じように私たちも自分自身を神に捧げます。神殿での犠牲は安息日や祭日だけではなく、毎日捧げられました。そのように私たちも、日ごとに自分を捧げるのです。何年何月の修養会で献身の祈りをささげたからそれで良いというのではありません。確かに特別な献身の祈りは大切です。しかし、それが昔懐かしい体験や思い出にしてしまってはいけません。ひとたび自分を神に捧げた人は、日々に自分を捧げ続けるはずです。

 しかし、自分の「からだ」を捧げるとは何を意味しているのでしょうか。「からだ」だけで、「心」は捧げなくて良いのでしょうか。「からだ」を捧げるというのは、手足を使って忙しく活動することなのでしょうか。そうではありません。「心」を捧げなければならないことはローマ12:2にはっきりと教えられています。ここで「からだ」と言われているのは「生活のすべて」という意味です。「全体」という言葉に「体」という文字が入っているように、生活の「全体」を神にささげるのです。個人の祈りの生活、教会で過ごす時間、伝道やチャリティのために働くことばかりでなく、会社で働くときも、家事をするときも、スポーツや趣味を楽しむときも、家族や友だちと楽しいときも持つときも、生活の一部だけでなく、そのすべてを、神に捧げるのです。生活のある部分は神のものだが、この部分は私のものだと切り分けないで、そのすべてを捧げるのです。一部だけを神に捧げても、それは、生活や人生にほんとうの変化をもたらしません。生活の全体を神に委ね、変えていただくのです。

 次に、変化は、ものの考え方を変えることによってもたらされます。ローマ12:2は「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言っています。この箇所で使われている「心」には、「感情」や「意志」よりも、「知性」や「理性」を表わす言葉が使われています。正しいものの考え方が私たちを正しい感情と正しい意志決定に導くからです。そして正しいものの考え方は、神のみこころを求め、それを知ることによって与えられます。ローマ12:2で言われている「心の一新」とは、神のみこころに自分の考えをあわせていくことです。昨年、ア・カペラのコラールを聞く機会がありました。大勢の人が無伴奏で歌いますので、音程が狂うと綺麗なハーモーニーが生まれません。それで、曲と曲の合間に指揮者が笛を吹き、メンバーはその音に音程を合わせていました。そのように、みことばに示された神のみこころに自分を合わせていくことが「心の一新」なのです。神を抜きにしたさまざまなものの考えに形作られた私たちの思いが、神のみこころにそって変えられていくこと、それが「悔い改め」です。

 私たちはさまざまな雑音にとりかこまれています。知らず知らずのうちに、この世のものの考え方に染められています。とくにテレビ、新聞、雑誌などのメディアの影響には強いものがあります。「テレビで言っていた」「新聞に書いてあった」というだけで、神のみこころと反する解説や評論を鵜呑みにしてしまうこともあります。神のことばに触れるよりも、この世のものに触れている時間のほうが何倍も多いのですから、この世の影響を受けないわけはありません。ですから、神のことばを学ぶ機会を逃さず、いつもみことばに触れている必要があります。

 そして、神とのまじわりの中に生きる必要ががあります。17世紀の人で、パリの修道院の料理番だったブラザー・ローレンスは、神とのまじわりに生きた人でした。牧師リトリートが始まる前に、今年の担当者から「ブラザー・ローレンスの "Practice of the Presence of God: The Best Rule of Holy Life" を読んでくるように。」とのメールが届きました。これは、三百年もの間、多くのクリスチャンに読み継がれてきた本で、『敬虔な生涯』という題で日本語版もあったのですが、今は、絶版になっているそうです。英語ならインターネットから無料でダウンロードすることができます。20ページほどの短い本ですので、ぜひ読んでいただきたいと思います。ブラザー・ローレンスはその本でこう言っています。「以前私は、一日のうちかなり長い間、神について考えない時間があった。しかもそのために平安を乱されることはなかった。しかしのちになり、自分がいかに神の御前にいかに邪悪であるかを知るようになり、以前よりいっそう大きな信頼をもって、神のみもとに帰った。なぜなら、神を忘れることがどのように邪悪であるかがわかったからである。」彼は、神とのまじわりを保たなかったことを罪だと言って、それを悔い改めたのです。私たちの「悔い改め」もこのような悔い改めでありたいと思います。自分のした悪を後悔する、なすべきことをしなかったことを悔やむというだけではなく、私たちの思いが神のみこころにつながらないで、この世につながっていたことに気付いて、それを悔い改めたいと思います。そして、自分の思いを神のみこころに合わせて変えていく、いや、神に変えていただきましょう。それが悔い改めなのです。

 ある英語の聖書では、ローマ12:2が "Don't copy the behavior and customs of this world, but let God transform you into a new person by changing the way you think." (NLT) と訳されていました。日本語で言えば、「この世の行動や習慣を真似てはいけない。むしろ、あなたのものの考え方を変えることによって、新しい人になるように、神に変えていただきなさい。」ということになります。「自分を変えなさい。」よりも「変えていただきなさい。」のほうがより原語に近い訳です。私たちは「悔い改めの恵みを与えてください。」と祈りますが、確かに「悔い改め」は求める者に与えられる神からの恵みです。悔い改めの恵みを神に求めましょう。その恵みによって新しい思いを与えられ、新しい生活を与えられ、新しい人へと変えられていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、私たちは、悔い改めが後ろ向きのものではなく、前向きのもの、単なる後悔ではなく、変化であることを学びました。私たちは自分で自分を変えることができません。しかし、あなたは私たちを造り変える力を持っておられ、悔い改めを通して私たちのうちにその力を働かせてくださいます。私たちは、自分に変化が必要であることを認めます。自分の心と生活をあなたにささげます。私たちがあなたのみこころを追い求め、あなたに変化を願い求めることができるよう導いてください。悔い改めを通して、自分が変えられ、まわりが変えられていく喜びを味わうことができるよう助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/3/2008