生活を明け渡す

ローマ12:1-2

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12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 2005年、私たちは「目的の四十日」のプログラムを教会をあげて行いました。リック・ワレンの『人生を導く5つの目的』を、個人で、グループで、サンデースクールで、また礼拝で学びました。しかし、たった四十日でその内容を良く理解し、自分のものにするのはとても無理でした。たとえ個人のレベルで「5つの目的」をマスターできたとしても、教会全体がそれに導かれていくには、もっと時間をかける必要がありました。それで、一年ごとに「5つの目的」のひとつづつをとりあげ、それに取り組んでいくことにしました。2005年は「礼拝」を、2006年は「まじわり」を学びました。今年は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)を年間聖句に選び、「弟子訓練」に取り組んできました。

 今年、私たちが取り組んでいる「弟子訓練」は大きな主題です。礼拝でどのように「弟子訓練」について話そうかと、年間の予定を考えていたとき「12ステップ」をとりあげてみてはというアイデアが浮かびました。「12ステップ」はもともとは依存症を持った人々の回復のためのステップですが、霊的な成長を目指すためのプログラムとしても用いられています。私自身が「12ステップ」に助けられ、また、「12ステップ」のサポート・グループによって、多くの人々が変えられ、成長してきたのを見てきました。「12ステップ」は「弟子訓練」にかならず役立つと確信して、これを取り上げることにしたのです。 

 「12ステップ」はその名のとおり、12の霊的訓練から成り立っており、私たちは第三のステップまで学んできました。第一は「自分の無力を認める」こと、第二は「神の力を信じる」こと、そして、第三が「自分を神に明け渡す」ことでした。この三つのステップは、依存症から回復した人々に限らず、すべてのクリスチャンがすでに体験しているステップです。私たちは、罪を認め、神の愛を信じ、そして、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れて救われました。三つのステップは何も特殊なものではなく、救われるためには誰もが通らなければならない道です。「12ステップ」は信仰訓練の道しるべであり、私たちに信仰を求めています。

 一、愛による信仰

 では、「12ステップ」が私たちに求めている信仰とはどんな信仰でしょうか。それは、第一に「愛による信仰」です。「12ステップ」は決して戒律的な教えも、セルフ・ヘルプの教えでもありません。依存症から解放されるために、このこともし、あのこともしろとは命じていません。もし、自分で自分を律することができるのなら、依存症にはかからなかったでしょう。「12ステップ」は、私たちが自分の力で依存症から解放され、自分の問題を解決できるとは言っていません。徹底して自分の無力を認め、神の力と愛に頼るようにと教えています。神は、私を救う力があるだけではない、私を愛して、私を救おうと願っておられます。「自分は無力だが、神は全能である」というのは、誰もが頭では知っていることです。無力な私がいて、全能の神がおられる。しかし、それだけでは、人は救われません。神と人とを結びつけるものがないからです。神の愛と、その愛にこたえていく信仰があってはじめて、人は神と出会い、神の全能が人間の無力を覆うのです。

 神の力だけしか知らず、神の愛を知らない信仰は「悪霊の信仰」と呼ばれます。ヤコブ2:19に「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」とあります。イエスがゲラサに行かれたとき、悪霊に憑かれた人は、イエスを見ると、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。」と言って、イエスを恐れています。これは悪霊がその人に言わせたことばで、悪霊は、イエスが「いと高き神の子」であることを知っていたのです。もし、私たちがイエスを神の御子であることを、頭で知っているだけなら、私たちは悪霊に劣るでしょう。おそらく、悪霊の方が、私たち人間よりももっと明確にイエスが神の御子であることを理解していたことでしょうし、なにより、神の御子イエスを心底から恐れていました。人間は、悪霊よりも高慢で、イエスが神の御子であると聞いても、「それがどうした。」と知らぬ顔でいるのです。ある人が、教会の礼拝について、「ここに大統領が入ってきたなら、私たちは起立し、敬意を表して迎えるだろう。だが、神の御子が目に見えぬ姿でここにおられるのに、ひざまずき、頭を垂れる人が少ない。」と言いましたが、残念なことに、イエスを王の王、主の主、いと高きお方として、恐れおののく人は少ないのです。

 そんな罪深い人間ですが、なお、人間には悔い改めて信じる道が残されています。悪霊はすでに裁かれており、滅びに定められています。悪霊はどんなに恐れおののいても救われることはないのです。しかし、神は人間には最終的な裁きをまだくだしてはおらません。裁きの日を遅らせ、私たちに救いの機会を与えてくださっているのです。この愛を受け取り、それにこたえるとき、私たちは救われるのです。知識だけで、神への愛のない信仰は、ほんとうの信仰ではありません。それは「悪霊の信仰」であって、人を救うことはないのです。

 ステップ3は「私たちの意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」と言っています。聖書はいたるところで「神の配慮」を教えています。イエスは「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などど言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:31-32)と言われ、使徒パウロは「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)と書き、使徒ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5:7)と教えています。「神の配慮」は神の愛から出たものです。神の愛が、私に注がれていることを信じる信仰、それが人を救うのです。

 二、意志による信仰

 「12ステップ」が教える信仰は、第二に、「意志による信仰」です。「12ステップ」は私たちに、理性を使って自分の無力を認め、意志を用いて神の愛と力を選択するように教えています。決して、感情的に訴えるだけのものではありません。そもそも依存症というのは感情を麻痺させたり、混乱させたりするものです。アルコールのために家族を苦しめ、職場に迷惑をかけていても、本人は「そんなことはたいしたことはない。」と、いっこうにそれを悲しむことがないわけですから、依存症の人の感情はあてにならないのです。

 頭だけで心に届かない信仰が「悪霊の信仰」と呼ばれましたが、感情だけで、理性や意志の働かない信仰は「奇蹟の信仰」と呼ばれます。イエスが五千人以上の人々にパンを与える奇蹟をなさったとき、人々は、イエスのまわりに群がり、イエスを追いかけ回しました。イエスを担ぎ出せば、ユダヤがローマ帝国から攻められ、籠城するようなことがあっても、食べ物に困ることはない、兵士が負傷してもたちまちいやされるなどと考えたのでしょう。そのような人々にイエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6:26-27)と言われました。イエスは奇蹟を「しるし」と呼んでいますが、イエスは、それによって、奇蹟そのものよりも、奇蹟が指し示めしているものを見るようにと言っておられるのです。「しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したからです。」というのは、パンの奇蹟を体験した人々が、胃袋の満たしだけで終わり、この奇蹟によって、イエスが人に永遠のいのちを与える「いのちのパン」であることを見ようとしなかったということを言っています。この後、イエスが「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」と言われたとき、多くの人がイエスから離れていきました。イエスとイエスから離れて行った人々との対話がヨハネの福音書の続く章に書かれており、そこに「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。」(ヨハネ8:31)とあります。イエスから離れて行った人たちも「イエスを信じた」と言われているのです。しかし、この「信じた」というのは、彼らが自分で「信じた」と主張していただけで、それは本当の信仰ではありませんでした。この人たちは、イエスのなさった奇蹟を見て「これはすごい」と感嘆しただけでした。それで、こうした一時的、感情的な「信仰」が「奇蹟の信仰」と呼ばれるようになったのです。「種蒔きのたとえ」(マタイ13:18-23)にも、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れたが、根がないためしばらくしか続かなかった信仰のことが書かれています。「奇蹟の信仰」というのは、そのようなものをさします。神が求められる信仰は、そのようなものではなく、理性を用いて自分の姿を正しく知り、意志を使ってキリストに従っていくことを選びとる信仰です。

 ローマ12:2は「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と教えています。ここにも、信仰が決して感情的なものではなく、神のみこころを知り、悟ることだと言われています。「心の一新によって自分を変えなさい。」とある「心」には「理性」を表わす言葉が使われています。神を信じるとは、自分が中心だった世界観が神を中心とする世界観に変わることであり、自分の幸福が第一目的だった人生観が神の栄光を第一の目的とする人生観に変わっていくことなのです。私たちはこの世の価値観、世界観、人生観の影響を受け、ものの考え方がそうしたものによって形作られてしまっています。この世に形作られるのではなく、神のみこころに従ってものの考え方が形作られていくために、私たちは、礼拝をささげ、祈り、みことばを学ぶのです。ものの考え方がただされていくとき、私たちは意志の力を取り戻すことができるようになります。そして、意志の力を取り戻すとき、私たちの感情もまた変えられていきます。私たちの感情の大部分は、私たちのものの考え方から出ています。ものごとが正しく見えるようになり、意志にもとづいた決断ができると、今まで自分にとって心地よいと思っていた依存物が嫌なものになってきます。今まで自分が誇っていたものが罪だとわかると、それを悲しむようになります。自分を卑下していた人も、神の愛がわかると、自分の弱ささえも受け入れられるようになります。理性と意志による信仰は、私たちに人間らしい豊かな感情を取り戻してくれるのです。一時的、感情的なもので終わらない、ほんとうの信仰をみことばによって養われようではありませんか。

 三、生活の信仰

 「12ステップ」が教える信仰は、第三に「生活の信仰」です。ステップ3は、英語では "We made a decision to turn our will and our lives over to the care of God." となっています。ここで使われている "our lives" ということばには、多くの意味があります。英語の "life" は「命」「人生」「生涯」「生活」などと訳すことができますが、ステップ3では、そのすべての意味でこのことばが使われています。私たちが神を求めるのにはいろいろな動機があるでしょうが、神を信じる時には、決していいかげんな気持ちではなく、文字どおり、自分の命を神にあずけるのです。信仰を持つというのは、キリスト教という宗教に入ることでも、教会というコミュニティの一員となるだけのことでもありません。先週、「あなたは命を選びなさい。」というみことばを聞いたように、信仰とは、命を選びとることです。信じるものに永遠の命が与えられる、この約束にしがみつくことです。神を信じる、キリストを受け入れる、信仰を選ぶということは、どの料理を食べようか、どの洋服を着ようかといったこと以上のもの、死か命かの選択なのです。

 また、神を信じるとは、生涯を通して、神を信じ続け、神に頼り続けるライフタイムのコミットメントです。何かのイベントやプロジェクトならコミットメントするのは数ヶ月が、長くて数年です。しかし、信仰は生涯のものです。多くの人は、信仰が一生涯のものだと聞くと、しり込みしてしまいます。結婚でさえ、一生涯のコミットメントでなくなりつつある時代だからです。今年9月に行われたドイツのキリスト教社会同盟の党首選挙では、ガブリエリ・パウリという候補者が「婚姻関係は7年間で終わる。夫婦が離婚を望まなければ再延長も可能。」という公約を掲げていました。この候補者は落選しましたが、この公約に賛成する人も大勢いたそうです。時代は変わっていきます。しかし、神は変わることのないお方です。私たちの神への信仰も、生涯をかけたものでなければなりません。

 そして、"life" が「生活」を意味するように、私たちの信仰もまた、日々の生活を支え、その中に生きて働くものでなければなりません。聖書の教える信仰は、生活の中に実を結ぶ信仰です。バプテスマのヨハネは、悔い改めの結果として「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者もそうしなさい。」と教え、取税人には「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」、兵士には「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と教えました。悔い改めの結果としてきわめて具体的な生活態度を要求しました(ルカ3:10-14)。使徒ヤコブも「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」(ヤコブ1:27)と教えています。使徒パウロは「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と言った後すぐに、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:8-10)と教えています。人は自分の力で自分を救うことはできません。行いから救いは生まれません。しかし、救いからは行いが生まれてくるのです。聖書は、ある箇所では「行い」と「信仰」とを対比させていますが、別の箇所では、信仰と行いは対立するものではなく、信仰から行いが出てくる、信仰は行いも含んでいると教えています。ヤコブの手紙に「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:17)とあるとおりです。

 ローマ12:1は「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と教えています。旧約時代の礼拝では、動物の犠牲がささげられました。旧約の動物の犠牲は、イエスが神の子羊となってご自分を十字架の上でささげてくださったことによって役割を終えました。ですから、もう動物の犠牲、血を流す犠牲は捧げられることはありません。では、新約時代の礼拝では、ささげるべきものは何もないのでしょうか。そうではありません。イエスがご自分のからだをささげられたように、私たちも自分のからだをささげるのです。「生きた供え物」とあるように、私たちは、自分のからだを生きたまま神にささげるのです。それは具体的にはどうすることかというと、私たちがこのからだを使ってするすべてのこと、とくに私たちの日々の生活を神に喜ばれるものにしていくということなのです。信仰は、たんなる頭脳のエクササイズでも、一時的な感情の解放でもありません。神のみこころを知った私たちがそれを、日々の生活の中で実践することです。礼拝で聞いた神のことばを、そのあとの一週間の日々の生活の中で、少しづつではあっても、実行していくよう励むのです。「生活の信仰」とはそのような信仰です。神は私たちの心と体、意志と生活の両方を求めていらっしゃいます。ステップ3が言うように、意志とともに生活をも神に明け渡していくよう努めたいと思います。

 生涯は一日一日の連続であり、人生は日々の積み重ねですから、洗礼のときに「生涯を神にささげます。」と決心しても、毎日の生活が神から遠く離れたものだったら、生涯をかけた決心も意味がなくなります。礼拝を守り、聖餐を守り、みことばを学び、祈りの時を持つ、そのような積み重ねが、洗礼のときに誓った信仰の決心を意味あるものにするのです。「一日一生」ということばがあります。これは、一日今日一日の命だと思って生きる、一日を一生だと思って生きるという意味です。ステップ3が「私たちの意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」と言うように、私たちは、毎日を大切にし、今日一日の生活を神の愛のご配慮に任せながら、生きていきたいと思います。そうしてこそ、私たちは日々を、生涯を、人生を、そして私たちの命を神に任せて生き抜くことができるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに「悪霊の信仰」でも「奇蹟の信仰」でもなく、日々の生活をあなたにささげて生きる「生活の信仰」を与えてください。この世に形作られてしまった私たちのものの考え方、ものの感じ方を、あなたのみこころにそったものとして造り変えてください。みことばによりあなたのみこころを知り、御霊によりそれを日々の生活の中で実行する者としてください。私たちは「私たちの意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました。」この決心を受け入れ、日々に意志と生活を捧げていくことができるよう、私たちを導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/18/2007