12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
チャック・スウィンドール先生は "So, You Want to Be Like Christ? - Eight Essentials to Get You There" という本の中で、「神との親密さ」、「シンプルであること」、「沈黙と孤独」、「明け渡し」、「祈り」、「謙遜」、「犠牲」という八つの訓練について書いています。この夏は、「キリストのようになるために」ということで、この八つの訓練について学んできましたが、イエス・キリストのご生涯にはこれら八つのものすべてを見ることができます。主イエスほど、父なる神と親密な時を求められた方はありません。主はそのために人々から離れ、しばしばひとりで時を過ごされました。主はご自分を明け渡し、父なる神の御心に服従されました。主はことあるごとに、ある時は喜びをもって祈り、ある時は嘆きと涙をもって祈りました。また主イエスほどへりくだったお方はありませんでした。そして、主イエスほど価値ある犠牲をささげられたお方はありません。主イエスは、私たちの罪のために、ご自分の命を犠牲としてささげてくださったのです。主イエスは、私たちに必要な八つの訓練のどれにおいても、私たちの完全な模範です。私たちがイエス・キリストのようになりたいと願うなら、これら八つの訓練は避けて通ることができないと思います。
しかし、どうやって私たちは「犠牲」の訓練を受けるのでしょうか。私たちも主イエスと同じように自分の命をささげなければならないのでしょうか。初代教会では多くのクリスチャンがキリストとおなじように十字架にかけられ死んでいきました。日本でも、豊臣秀吉の「キリスト禁教令」にさからったとして京都で捕まえられ、長崎に送られた24人の殉教者がいました。京都から長崎への道中でさらに2名が加えられ、最終的には26名となりました。のちに「長崎の二十六聖人」として知られるようになった人々です。その中にはわずか12歳、13歳、14歳の三人の少年もいて、人々の涙をさそいました。これらの人々は道中何度も「信仰を捨てれば赦してやる。」との誘いを受けたのですが、それを拒否し信仰を守り通しました。これらの人々は殉教という形でキリストの犠牲にならいましたが、キリストの犠牲にならうためにはクリスチャンがみな殉教しなければならないということではありません。「神との親密さ」から「謙遜」にいたる訓練がみな私たちの日々の生活の中での訓練であったように、「犠牲」もまた私たちの日常における訓練なのです。それは、まず、私たちの日常をささげることからはじまります。
一、日常をささげる
ローマ12:1に「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。ここに「生きた供え物」という言葉が使われていますが、じつは「生きた供え物」という表現はとても矛盾した表現なのです。「供え物」ということばは旧約聖書に頻繁に出てくる動物の犠牲を表しています。旧約の時代、人々は神を礼拝する時に、羊などの家畜を神殿に連れてきて、それを屠り、火で焼き、神にささげました。神に供える動物は必ず死ななければならないもので、「生きた供え物」というのはなかったのです。しかし、新約時代には、私たちは動物ではなく、自分のからだをささげます。「からだ」をささげるといっても、動物の犠牲のように自分のからだを火で焼いたり、手足を切り取ってさささげるということではありませんね。それは「死んだ供え物」です。ローマ6:13に「また、あなたがたの手足を不義の器として神にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」とあるように、「生きた供え物」というのは、私たちのからだが神のために用いられ、私たちの手足が神のみこころに従って動くということを意味しています。
では、ささげるのは「手足」だけでいいのかというとそうではありません。手足を動かすのはその人の心や意志なのですから、まず自分の心をささげなければなりません。ローマ6:13でも「<あなたがた自身>とその手足を義の器として神にささげなさい。」と教えられていました。心が伴わないで手足だけをささげても、それは神の喜ばれるものにはなりません。コリント第一13:3に「私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とある通りです。心が伴わないものは、たとえそれが全身をささげるようなことであったとしても、それは「生きた供え物」ではなく、「死んだ供え物」にすぎません。聖書でいう「からだ」という言葉には、その人の「身体」だけでなく、その身体に宿るたましい、人格、そして、その身体を用いて営む生活のすべてが意味されています。ですから「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」というのは「身も心も、また生活のすべてを神にささげなさい。」という意味になります。
「手足をささげる」というと、すぐにあれこれと動き回ることのように考えられがちですが、神は私たちの活動だけを喜ばれるわけではありません。もしそうだとしたら、時間があっていろんなことが出来る人だけが神に喜ばれる、そういう人たちだけが教会を支えている、また、そういう人たちによって伝道がなされているという、間違った考えが生じてきます。実際は教会を支え、神をあかししているのは、見えるところで活動している人々だけでなく、見えないところで教会のために祈り、日々の生活の中で神の愛を表している人々でもあるのです。病気の方にとっては、教会での奉仕どころか、自分を支えるのが精一杯かもしれません。しかし、具体的な奉仕は何もできなくても、神はその人の人生そのものをどんな奉仕にもまさるものとして用いてくださいます。「私には小さなことしかできません。」といって陰でしてくださるその「小さなこと」を神は用いて、神の大きな愛を示してくださるのです。大切なのは奉仕や活動の大小ではありません。神を愛し、進んでささげるものが、神に喜ばれるもの、聖なるもの、また「生きた供え物」となるのです。
「生活のすべてをささげる」といっても、それは一日中教会に入り浸りになっているというようなことではありません。礼拝を守り、主にある交わりを守ることが大切なことは言うまでもないことですが、それ以外の時間もまた、たとえそこが職場であっても、家庭であっても、その時間がしっかりと神にむすびつけられているということが大切なのです。多くの人にとって職場で過ごす時間が一番多いことでしょうが、その職場の中でキリスト者として生き、キリスト者として働くことが自分を「生きた供え物」としてささげることであり、また、それは「霊的な礼拝」となるのです。主の日の礼拝で神をあがめ、賛美しても、毎日の仕事では「仕事はおもしろくないし、給料も安い。ボスは自分を認めてくれないし、同僚もいやなやつばかりだ。」と不平不満のうちにつぶやいているだけなら、主の日の礼拝がウィークデーにはまったく生かされていないことになります。礼拝は主の日の一時間で終わるのではありません。日曜日の礼拝は、月曜日から土曜日までの仕事や、家事、育児の中に続いていくものなのです。日曜日の朝にささげる礼拝は、ウィークデーの一日、一日に「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」として自分をささげていく、その第一歩なのです。「犠牲」の訓練は、このように日常を主にささげることからはじまります。
二、自己をささげる
「犠牲」という言葉には、自分にとっていちばん大切なもの、これだけはと最後まで握りしめているものを明け渡すという意味があります。「自分にとっていちばん大切なもの」、それは何でしょうか。それは「自分」です。ちいさな子どもは "Me first." と言って他の子をおしのけたり "This mine." と言って他の子が使っているおもちゃをとりあげたりします。大人はあからさまにはそんなことはしませんが、やはり、心の中では「私が…」「私の…」ということが一番大事なことになっているのではないでしょうか。ルカ12:16-21に「愚かな金持ち」のたとえ話があります。そこにこう書かれています。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」日本語の聖書には訳されていないのですが、ここには「私の作物」、「私の倉」、「私の財産」、そして「私のたましい」という言葉が使われています。この金持ちは「私の」、「私の」と言って、彼の財産も、彼のいのちも神からの贈り物であって、本当の所有者が神であることを忘れていたのです。「犠牲」というのは、このような人間の自己中心性を神にささげていくことなのです。
「犠牲」というのは、単に高価なものを差し出す、多くの時間をささげるというだけのことではありません。人間というものは罪深いもので、そうした行為と引き替えに、人々から賞賛を得たい、あるいは自分を満足させたいという思いが働くことがあります。神にささげられるものは「聖い」ものでなけいればなりません。そして「聖い」ということは、その動機が自己中心的なものからきよめられているということです。本当の「犠牲」とは、自分を喜ばせるためではなく、神に喜んでいただこうとする思いをもって神にささげられたもののことを言うのです。ローマ15:1-3に「私たち力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。』と書いてあるとおりです。」とあります。ここには、キリストにある者たちの互いの関係が教えられていますが、今、注目したいのは、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」ということばです。キリストは主であって、すべてをご自分の望むままになさることのできるお方です。しかし、キリストは、いっさいご自分を主張せず、父なる神の御心に服従しました。賞賛と誉れを受けて当然のお方が、神を愛し、私たちを愛するゆえに、人々のそしりと非難の的となられたのです。キリストに従う者も、同じようにして自分をささげ、キリストにならおうとするのです。
私は最初「生きた供え物」というのは矛盾した言葉だと言いました。「供え物」というのはいったん死ななければならないものだからです。私たちは、「生きた供え物」として自分をささげるのですが、それでも、自分を「供え物」とするためには、「死ぬ」という体験、つまり「自己に死ぬ」という体験を通っていなければなりません。ガラテヤ2:20の体験です。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」誰も、自分で自分を死なせること、つまり、古い自分、自己中心な自分というものを働かなくさせることはできません。それができるのは神だけです。そして、神はそのことも、キリストの十字架によって成し遂げてくださったのです。キリストが十字架におかかりなった時、二千年という時間をさかのぼって、私たちもキリストと共に死んだのです。キリストの十字架は私たちの罪のためのものですが、同時に、そこで私たちもキリストと共に死ぬためのものだったのです。そして、キリストと共に死ぬことによって、私たちはキリストと共に生きるようになるのです。みなさんは「私は自分の力で生きているのではなく、主イエス・キリストによって生かされている。私は自分のために生きているのではなく、キリストのために生きている。」という確信を持っているでしょうか。「私のためのキリスト」を知っているだけにとどまらず、「キリストのための私」をも知っているでしょうか。このことを知っている者は、キリストが私のために背負ってくださった十字架を感謝するとともに、自分の十字架をも背負うのです。主イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と言われました。「<自分を捨て>、日々自分の十字架を負い」とあるように、「十字架を負う」とは「自分を捨てる」ことを意味します。自己中心、自分本位、自己満足、自己憐憫、自己愛という古い自分に死ぬのです。しかも、それは、「<日々>自分の十字架を負い」とあるように、日常の中でくりかえしくりかえし実行されていくものなのです。このように、日々自己に死んでいくこと、これが「犠牲」の訓練であり、これによって私たちは「生きた供え物」を神にささげることができるのです。
三、あわれみによってささげる
聖書は、私たちが自分を神にささげることについて、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と言っています。私たちが神に自分自身をささげることは当然のことなのですから、「お願いします」と言わずに「命じます」と言っても良いはずです。しかし、聖書が「お願いします」と言っているのは、神へのささげものが強制ではなく、自発的なものでなければならないからです。また、それは自動的に出来るものではなく、私たちが意志を働かせて、神のことばに応答していくことによってはじめて実現するものだからです。
私たちは、自分の力では自分を「生きた供え物」としてささげることができないのを知っています。聖書が「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と言っているように、私たちはまず、神のあわれみを知り、神のあわれみに包まれてはじめて、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」をささげることができるのです。「自分をささげること」や「犠牲」というと、厳しくて堅苦しいものと思われがちですが、決してそうではなく、私たちが自分をささげることができるのもまた神のあわれみの働きなのです。私たちは、自分の罪を知っています。私たちが罪から救われたのは、ただ神のあわれみによることも知っています。その同じあわれみによって、私たちは自分を神にささげることができます。そして、そのことによってより一層、神のあわれみを体験していくことができるのです。
神のあわれみから出たものは、すべて良いものです。私たちはキリストがご自分を喜ばせることをしなかったことを知っています。しかし、キリストのご生涯が苦しみだけでそこに何の喜びもないものかといえば、決してそうでないことも知っています。ヘブル12:2に「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。キリストに従う私たちも、キリストに従うゆえの苦しみを受けますが、同時にキリストに従うことによって与えられる天からの喜びに満たされるのです。「自分を喜ばせること」から解放されてはじめて、こうした本当の喜びを味わうことができます。「自分を喜ばせないところに喜びがある。」「自我に死ぬことの中にいのちがある。」などという聖書の教えは決して「分かりやすい」教えではありません。私たちは「分かりやすい」教えを求めがちですが、そうしたものは、ものごとをある一面から見るだけのもので、たんなる人生訓にすぎない場合が多いのです。「分かりやすい」と言われるものには落とし穴があります。また、どんなことでもそうですが、信仰の歩みにおいては、「分かったつもり」が一番危険です。神のことばをこの世の基準や頭だけで分かろうとせず、それに聞き従い実行することが大切です。神は、神の無限のあわれみで私たちを救ってくださいました。そして、救われた者たちに、同じあわれみをもって、自分をささげるようにと呼びかけておられます。この神のあわれみの招きに、私たちも答えていきましょう。
チャック・スウィンドール先生は、"So, You Want to Be Like Christ?" の第一章で、1958年、第二次大戦の時沖縄に派遣されたことによって、人生が全く変えられたということを書いていました。私も説教でそのことを紹介しました。先生は、「犠牲」について書いている最後の章でも、その時のことに触れています。サンフランシスコにいた先生は、サンディエゴのキャンプ・ペンデルトンに呼び戻され、そこで沖縄に向かう準備をしていました。その時のスウィンドール先生は、「なぜ、神は私が沖縄に送られるのを許したのか。」という思いで心がいっぱいで、神に対して苦々しい思いを持ち、自分を哀れむ思いでいっぱいでした。先生は、「その時の私は、人生に対して非常に否定的だった。」と、その本に書いています。
しかし、神にはご計画があって、スウィンドール先生は、沖縄でボブ・ニューカークという人に会い、「私の人生の目的はキリストを知ることである。」(ピリピ3:10)とのみことばに出会うのですが、じつはこのみことばの前にスウィンドール先生を導いたものがありました。それは、その年に出版されたばかりの "Through Gates of Splendor" という書物でした。スウィンドール先生は、沖縄に行く直前、バスに乗ってパサデナにいるお兄さんを訪ねたのですが、その時お兄さんからもらったのがこの本でした。
スウィンドール先生は、パサデナから再びバスに乗ってキャンプ・ペンデルトンに向いましたが、その夜はとても寒く、雨が激しく降っていました。スウィンドール先生はまだ自己憐憫にふけっていたのですが、バスの中で、お兄さんからもらった本を取り出しました。そして、これがたんなる物語でなく、二年前の1956年に実際に起こった出来事であることを知って興味を持ち、読み続けました。これは、エリザベス・エリオットによって書かれたもので、彼女の夫をはじめ、五人の若い宣教師たちが、赤道直下の国、エクアドルのアウカ人に伝道しようと出かけたのですが、伝道する前に現地の人々に殺されてしまったのです。槍で刺され、その遺体は川に流されました。しかし、残された宣教師夫人たちは、それにもひるまず、なおもアウカ人に伝道し続け、ついにそこに教会が建てられたのです。
スウィンドール先生はバスを降り、キャンプ・ペンデルトンの兵舎に戻ってからもその本を読み続けました。その本を読み終えた時には、もう夜が明けかかっていました。スウィンドール先生は兵舎のコンクリートの床に頭をかかえて座り込んでいました。自分と同じ年齢の若い人々が、神を愛し、アウカのひとびとを愛し、命がけで伝道しているのに、自分は自分のことしか考えず、自分をかわいそうに思うだけだったということに気づき、そのことで自分を責めていました。しかし、同時に窓から差し込む日の光とともに、自分の心が変わっていくのを感じていました。神のあわれみがスウィンドール先生を変えていったのです。それまでのスウィンドール先生は、自分にとって居心地の良いこと、自分の願望、自分の夢、自分の計画にこだわっていました。「自分」、「自分」、「自分」と、自分中心の世界の中にいたのですが、神は、エクアドルで殉教した宣教師たちの利己心のない犠牲の模範をとおして、スウィンドール先生の心を、神に、キリストに向かうよう導いてくださったのです。スウィンドール先生はこう書いています。「この人たちは殉教するために宣教師になったのではない。死ぬことが目標ではなかった。彼らの死は、キリストのためには犠牲をいとわないという彼らのふだんの生き方の結果だった。彼らの命は、1956年エクワドル内地の川のほとりで絶えた。だが、彼らの死は無駄ではなかった。彼らの死は私に生きるということ、真に生きるということがどんなことかを教えてくれた。」
スウィンドール先生は、神のあわれみを知っていました。ただそれを知っていただけでなく、最も困難な時に、神のあわれみによる呼びかけを聞き、それを受け入れました。そして、神のあわれみよって自分を「生きた供え物」としてささげていったのです。同じことが、スウィンドール先生をはじめ、多くのクリスチャンの人生の上に起こっています。あなたの人生にも、それが起こるよう、心から願っています。
(祈り)
父なる神さま、あなたを信じるまことの信仰者たちは、特別な時に形式的なささげものをささげるだけでなく、日々の生活の中で自分自身をあなたにささげてきました。あなたは、そのようなささげものを喜び、それを「聖なるもの」として、また「霊的な礼拝」として受け入れてくださいました。今朝も、私たちに、あなたは、あなたのあわれみをもって、そのようなささげものをささげるようにと、呼びかけてくださっています。私たちは、あなたのことばに精一杯の信仰をもって応答します。今日からはじまる一週間のすべてがあなたへの礼拝となるために、この主の日の礼拝で、「死んだ供え物」をささげるのでなく、「生きた供え物」をあなたにささげる私たちとしてください。あわれみ深い主イエスのお名前で祈ります。
8/28/2005