霊に燃え

ローマ12:9-18

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12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

 まだ建築用の機械などなかったずっと以前のこと、人々は山から石を切り出し、人力でそれを町に運び、それを積み重ねて建物を建てました。ある時、ある町の丘の上に大きな建築用の石が、大勢の男たちによって運ばれていました。通りかかった旅人が、その男たちに聞きました。「ずいぶん大きな石を運んでいるが、あの丘の上にはいったい何が建つのかね。」男たちのひとりが、ぶあいそうにこう答えました。「何が建つかって?そんなこと知るもんか。俺たちはきょう一日雇われて、この石を引っ張りあげているだけさ。あーあ、こんなきつい仕事だとは思わなかったぜ。これじゃ、割りにあわねえや。」それを聞いていたもうひとりの男が、額の汗を手でぬぐってこういいました。「旦那、あの丘の上には教会が建つんだ。それも、千人は入れるという大聖堂なんだ。この町の人ばかりか、このあたりの村の人たちもみんな集まって、それはきっと素晴らしい礼拝が行われるに違いない。この石は、その教会の礎石に使われることになっているんだ。」こう言った男の顔には喜びが溢れていました。この男は、自分が何のために働いているか知っていたのです。彼は自分の仕事に目的を持っていたのです。

 すべてのものには目的があります。私たちの人生にも目的があります。今日の一日にも目的があります。目的を持って生きている人には喜びがあり希望があります。私たちは2004年以来、Purpose Driven Life(目的を持って生きる人生)を学んでいます。私たちの人生の目的は、私たちの造り主である神によって与えられています。それは、「礼拝」、「まじわり」、「弟子訓練」、「奉仕」、「伝道」の五つです。私たちは聖書の中に、この五つの目的を見い出し、信仰によってこれらを受け入れました。そして毎年、この五つの目的を確認しながら進んできました。私たちの多くは毎日忙しい生活をしています。うかうかしていると、人生の第一の目的が神を礼拝することであることを忘れてしまいます。神の栄光をたたえるよりも、自分の満足や栄誉を追求したり、人間の能力をたたえるようになってしまいます。神の国を求めるよりも、地上の成功を求め、教会のまじわりが、信仰のまじわりよりも、人間的なおつきあいになってしまうのです。キリストの弟子として受けなければならない訓練を避けて通るようになってしまいます。「礼拝」、「まじわり」、「弟子訓練」、「奉仕」、「伝道」の五つの目的は、いつも意識していないと自分のものとはならず、私たちは安易な方に流されてしまいます。今年は五つの目的の四年目で「奉仕」に焦点を合わせていきますが、年のはじめに「神さま、私はこの年を自分の願いによってではなく、あなたの目的に従って生きていきます。」という決心を改めてささげていきたいと思います。

 一、勤勉

 ある会社の社員募集要項に「勤勉で努力を怠らず創意工夫につとめ、誠意のある人を求めます。」とありました。「勤勉」「努力」「誠意」は、誰もが求めることですが、神もまた、奉仕する者に「勤勉」を求めておられます。「努力に勝る天才無し」ということばは、たとえ天才的な才能を持っていても、コツコツ努力している人にはかなわないということを言っています。マリナーズのイチローといえば、野球に詳しくない私でも知っている選手で、メジャー・リーグで記録を塗り替えています。イチローは、どんなボールでも打って、それを安打にしてしまうので、「天才」打者と言われますが、小川 勝という人が『イチローは「天才」ではない』という本に書いているように、イチローは単に才能に恵まれているというよりは、自分の劣っているところを良く知っていて、視力でも筋力でも、弱いところを鍛錬する努力を惜しまず、その努力が今のイチローを作りあげたのだそうです。ですから、別の本ではイチローのことを「努力の天才バッター」と呼んでいます。目標をかかげて、そこに至るために徹底的に努力する。イチローはまさに努力することの天才なのかもしれません。

 "Genius is 1% inspiration, and 99% perspiration."(天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗である)と言ったのはエジソンです。彼は、電球を作るとき、フィラメントの材料を見つけるのにとても苦労しました。電気を通すとそれが燃えて光るようにするのですが、すぐ燃え尽きるようではだめで、明るく輝き、しかも長く保つ材料をみつけるのに、エジソンはなんと1600もの材料を試しています。そして、やっと見つけたのが、日本の京都の竹でした。これを炭にし、細い線にして、電球が出来上がったというのはよく知られていることです。このことは、何かを成し遂げるのに一番大切なのは、勤勉でたゆまない努力であることを教えています。

 聖書も「不精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」(箴言10:4)と教えています。ローマ12:11では「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。「勤勉で怠らず」とは、同じことを繰り返しており、少しくどい言い方かもしれませんが、じつは「怠らず」というのはとても大切な教えなのです。聖書は「勤勉で怠らず」ということによって、私たちが罪を犯さないように、罪からきよめられていくようにと教えているのです。罪には、「過ち」と「怠り」の二種類の罪があります。「過ち」というのは、漢字を見れば分かるように、「過ぎたもの」です。してはいけないことをしてしまうことです。「怠り」というのは「足らない」ことです。しなければならないことをしていないことです。

 以前にもお話ししましたが、一昨年(2006年)横浜で、トラックに積んだショベルカーのアームが電線を引っ掛け、その弾みで街路灯が倒れ、近くを歩いていた筑井康隆さんと長女の愛ちゃん(1歳)を直撃し、筑井さんは重傷、愛ちゃんは脳挫傷で亡くなるという痛ましい事故が起こりました。トラックに積んだ荷物の高さ制限は「3メートル80センチ」なのですが、このトラックの荷物はそれを45センチ超えた「4メートル25センチ」の高さがありました。トラックの運転手は制限を越えた荷物を積むという「過ぎたこと」をし、罪を犯したのです。警察は、トラックの運転手とショベルカーを所有していた会社を訴え、裁判が行われました。

 ところが、この事件はそれだけでは終わりませんでした。さらに調べを進めていくと、倒れた街路灯の電線の高さが、規則で定めた基準「4メートル50センチ」より30センチも低い「4メートル20センチ」だったことが分かってきたのです。電線の高さが基準どおりだったら、たとえトラックの荷物の高さが制限を超えていたとしても、事故は起こらなかったでしょう。「4メートル20センチ」の高さの電線を、「4メートル25センチ」の高さのトラックが通ろうとしたため、たった5センチの差で、1歳の愛ちゃんの命が奪われたのです。この電線は、街路灯にとりつけた防犯カメラに電気を送るためのものでしたが、それを設置した会社も、許可を与えた横浜市も基準にあっているかどうかの確認を怠っていたのです。電線をつけた会社、それを許可した横浜市は、基準に「足らない」罪を犯していたのです。「過ぎた」罪は、誰の目にもあきらかです。「足らない」罪は、人の目には触れず、隠れたままになっていることが多いのですが、それもまた罪であって、世の中の多くの不幸は、「怠り」によって引き起こされているものが多いのです。聖書は「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)と教えています。

 怠りの罪は、ものごとや人に対してなされる前に神に対してなされます。「十戒」の最初の三つの戒めは「してはならない。」と命じていますが、第四番目の戒めは「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と命じています。クリスチャンなら、神以外のものを神としたり、偶像を作ったり、神のお名前を汚すようなことは口にしないでしょう。しかし、神を愛すること、神をあがめること、神の栄光をほめたたえることを怠ることがおおいにあります。人と争ったり、誰かを傷つけたりすれば、誰もがそれを罪だと感じますが、自分の都合で礼拝に来なかったり、礼拝に来ていても、神の栄光をあがめるよりも、人間の肩書きや栄誉をたたえることに心が向いているなら、それは、神をあがめることへの怠りとなるのです。怠りの罪は、他の人にも、自分にも罪と感じさせないため、しばしば罪を犯していることに気付かないでいるのですが、しかし、より神に近づき、神のお心を感じ取ることができるようになると、この罪を意識するようになります。「あんな悪いことはしていない。こんな罪も犯していない。」というだけで人は罪から免れているわけではありません。「なすべきことをしなかった」罪があるのです。「勤勉で怠らず」というみことば、私たちに、怠りの罪を悔い改め、そこからきよめられるよう教えています。

 私たちが、自分の「怠りの罪」を数え上げたら、それこそきりがないでしょう。この罪を悔い改め、そこからきよめられるために、どこからはじめたらいいのでしょうか。まずは、神への祈り、礼拝からはじめるのが良いでしょう。お正月、日本に帰ったある姉妹から、「連鎖祈祷がありますが、どの時間に祈ったらよいのでしょうか。日本時間ですか。カリフォルニア時間ですか。祈りの課題をメールで送っていただけせんか。聖書通読表もお願いします。」という連絡がありました。聖書通読表はウェブページで見ることができるので、そのことを教え、祈りの課題を送ってあげました。「日本でお正月を過ごすときぐらい、デボーションをスキップして、連鎖祈祷も免除してもらって、日曜日に礼拝に行けなくてもしかたがない。」と彼女は考えませんでした。その態度に私も励まされました。私たちはお互いに足らないところが多くあります。多くの罪を犯します。しかし、まず、神への愛において、祈りにおいて忠実であるなら、「勤勉で怠らない」生活へと導かれていくことでしょう。

 二、熱心

 主に仕えるのに必要なことは、第一に「勤勉」でした。第二は「熱心」です。聖書は「勤勉で怠らず」と言ったあと、「霊に燃え、主に仕えなさい。」と教えています。

 「熱心」ということで私はまず、ヨハネ2:17を思いうかべました。主イエスは、犠牲にささげる動物を売っている人々や両替をしている人々を神殿から鞭で追い払い、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われました。そのとき、弟子たちは「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」という聖書のことばを思い起こしたとあります。「霊に燃え」の「燃える」という言葉は、もとは「煮えたぎる」という意味の言葉です。お湯が沸騰してボコボコと泡を立てるように、心が沸き立つ様子を表わしています。イエスの心には、つねに、神と神の家への沸き立つような、燃えるような熱心がありました。それが「宮きよめ」となって現れたのです。次に私が思い浮かべたことばは、ルカ24:52でした。復活されたイエスに出会ったふたりの弟子は、互いに「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」と言いました。ルカの福音書の「燃える」と訳されている言葉はローマ人への手紙の言葉とは同じではありませんが、真理に対する熱い思いを表わしています。このように、私たちの熱心は、まず、神と真理に対するものでなければなりません。

 真理に対する熱心ということで、いつも思うことは、ウェスト・コビナ教会の岩永先生のことです。「ダヴィンチ・コード」が映画になったとき、私は、あの小説で言われていることが、でたらめなのに腹立たしく思って、それに対する反論を書き、ニュースレターに載せたことがあります。他の牧師たちに意見を求めたのですが、私が聞いた牧師たちはの多くは「あんなものはそのうち忘れられて行くよ。」というだけで、あまりとりあってもらえませんでした。そんなとき、岩永先生が教団の集まりで、「ダビンチ・コード」の映画にふれて、「私の愛する主をさげすむようなものに、私は怒りを覚えます。」と言われました。私は、そのことばにとても励まされました。そして、多くの人のうちに真理への愛が燃えるようにと祈りました。

 「燃える」ことは素晴らしいことですが、それはいたずらに忙しく走り回わることではありませんし、自分たちの手にあまる重荷を背負い込んで燃え尽きてしまうことでもありません。一昨年のアドベント・キャンドルはうまく燃えてくれたのですが、昨年のアドベント・キャンドルは、会堂の暖房の風のせいでしょうか、45分くらいのうちに茫々と燃え尽きてしまいました。私たちの熱心も、人間的な風にあおられて、茫々と燃えて、すぐに尽きてしまうようなものであってはいけません。聖書は熱心を薦めていますが、自分の栄誉のために何かを達成しようとするような人間的な「熱心」を戒めています。また、「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」(箴言19:2)と言って、たとえ純粋な動機からであっても、神のみこころを学び、導きを求めずに突っ走るようなことがないようにと諭しています。

 燃え尽きないで輝いているためにはどうしたら良いのでしょうか。それは、神とのまじわりを絶やさず、絶えず聖霊の力を受けることです。ゼカリヤ書に、そのことを教える幻があります。預言者ゼカリヤは七つのともし火皿のある燭台の幻を見ました。ふつう、ともし火皿にはオリーブから取られた油を注ぐのですが、この燭台の七つのともし火皿にはそれぞれに金の管がついていて、それが直接、二本のオリーブの木につながっているのです。ですから、この燭台の油は決して無くならず、それは燃え続け、輝き続けていました。この幻では、燭台は神の民をあらわし、二本のオリーブの木は、神の民の指導者、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルをあらわしています。神は、神のしもべたちを通して、聖霊を注ぎ、神の民を燃やし続け、輝かせ続けてくださるのです。ゼカリヤ書は言います。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」(ゼカリヤ4:6)私たちも、信仰という金の管によって、神に結びつくなら、聖霊によって燃え続けることができるのです。「霊に燃え」の「霊」は、人間の霊と、神の霊の両方をさしています。霊の反対は「肉」で、聖書は肉の熱心では神に仕えることはできないと教えています。しかし、人間の霊だけでも、神に仕え続けることはできないのです。私たちの霊が、聖霊によって燃やされるとき、私たちは神のために燃え続け、輝き続けることができるのです。

 こんな話があります。一代で財を成した中国人のビジネスマンがいました。彼は引退を決意し、自分の部屋に3人の息子を呼んでこう話しました。「わしはこの事業を分割して、お前たち3人全員に譲ることはしたくない。お前たちのうち誰かひとりに、わしのすべてを引き継いでもらいたいのだ。わしが、知りたいのは、お前たちのうちで、誰がわしの事業を引き継ぐのにふさわしいかということだ。そこで、これからお前たち3人をテストする。」と言って、父親は息子たちひとりひとりに100ドルづつ手渡して、そのお金でめいめいが何かを買って、このがらんとした大部屋を一杯にするようにと言いました。この部屋を一杯にできたものが、親の事業を引き継ぐのです。最初の息子は出かけていって、葉がいっぱいに茂った大きな木を買い、それを切り倒して部屋の中に運び込ませましたが、部屋の半分が一杯になっただけでした。2番目の息子も出かけていって、牧草を全部買い取り、部屋に持ち込むみました。部屋はほぼ一杯になりましたが、まだ隙間がありました。3番目の息子は、父親からの100ドルは使わずに、自分が持っている25セントでろうそくを1本買ってきました。夕方暗くなって、彼は父親の部屋の真ん中にろうそくを置き、火を灯しました。そして、父親に言いました。「お父さん、ぼくは、部屋の隅々までろうそくの明かりで一杯にしましたよ。」と言いました。父親は、この息子にすべての財産を譲ったということです。

 「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える。」とは、私たち自身が聖霊に燃やされ、神の真理の光、愛の光を人々に届けるともしびになることです。大きなこと、特別なことをすることだけが、主への奉仕ではありません。ギラギラ、テカテカ輝いている必要はないのです。そうそくのような小さな光でもいいのです。小さなことであっても、神への愛のゆえに、聖霊の力によってコツコツと継続し、積み重ねていくとき、それは、暗いこの世界を照らし、満たすものとなるのです。この年も、そのようにして、主に仕え続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、新しい年を、あなたとともにはじめることができ、心から感謝いたします。自分のためには熱心であっても、あなたを愛することにおいて、勤勉でなく、怠たることばかりの私たちですが、もういちど、聖霊によってあなたへの愛を燃やされ、あなたに仕えることができるよう、私たちを励まし、助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/6/2008