10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ3:23、6:23、5:8、10:9-10、10:13の五つの箇所を使って救いの道を伝える方法があり、それは“Romans Road to Salvation”(ローマ人への手紙による救いの道)と呼ばれています。きょうはその4番目、ローマ10:9-10を学びます。
ローマ10:9-10は英語で“Romans ten nine ten” と言い、聖書の “TNT” だと言われています。“TNT” はダイナマイトに使われるトリ・ニトロ・トルエンという爆薬のことで、“Romans ten nine ten” も「ダイナマイト」のような力を持った言葉だというのです。確かにそうで、ローマ10:9-10は神の救いの力を受ける方法を教えています。
一、十字架と復活
ローマ10:9-10は、まず、「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださった」と言って、神の救いの力は、イエスの十字架と復活にあると教えています。
十字架はキリスト教のシンボルで、イエスが十字架で死なれたことは、誰もが知っています。しかし、なぜ、何のためにイエスが十字架で死なれたのかを知る人は少ないのです。福音書はそれを教えるために書かれ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書のどれもが、四分の一以上のページを使って、イエスの十字架と復活を描いています。それで、福音のメッセージは「十字架のことば」(コリント第一1:18)と呼ばれ、また、福音を語る人々は「復活の証人」と呼ばれたのです。
イエスはご自分が聖書が預言し、約束している救い主であると主張しました。それを数々の奇蹟によって証明したのですが、当時のユダヤの指導者たちはイエスを信じようとはしませんでした。逆に、イエスを亡き者にしようとしました。彼らは宗教裁判でイエスに死刑判決をくだしましたが、宗教裁判では人を十字架につけることはできません。それで、イエスをローマ総督のもとに連れていきました。総督ポンテオ・ピラトはイエスに何の罪も認めることができませんでしたが、人々の声に押し切られてイエスを十字架につけることを許しました。それで、イエスは宗教上のトラブルや政治的な思惑に巻き込まれ、不幸にも、志なかばにして、世を去ったのだと多くの人が考えるようになりました。
しかし、事実は違います。イエスには十字架を避ける力がありました。反対者たちや政治の力に負けたのではありません。イエスはご自分の意志で十字架に向かわれました。それは、私たちの罪をご自分の身に背負い、それによって私たちの罪を赦すためでした。
イエスの身代わりの死は、イエスが世に来られる千数百年前に、すでに預言され、具体的に示されていました。出エジプトのとき、「過越の子羊」が屠られ、それによってイスラエルはエジプトの奴隷から救い出されましたが、神はそのとき、すべての人を罪の奴隷から救い出す「神の子羊」を約束しておられたのです。バプテスマのヨハネはイエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と叫びました。そして、イエスはその通り、過越の祭のときに死なれたのです。
イエスが来られる800年前、イザヤは救い主について「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」と預言し、それは十字架によって、そのまま成就しています。イエスは全世界の人々のために、その血を流してくださいました。私たちはこの血によって罪をおおわれ、赦され、救われるのです。
イエスは十字架の上で死なれました。人は20パーセントの血液を一度に失うと出血性ショックを起こし死にます。30パーセントになるとほとんど命は助かりません。50パーセントなら完全に死にます。イエスの心臓は脇腹から槍で突かれ、そこから血と水がほとんどすべてといってよいほど流れ出ました。その死は、何人もの犯罪人を処刑してきたローマ兵によって確認されています。彼らが間違えるはずはありません。イエスの遺体は弟子たちによって葬られましたが、彼らもイエスの死を確認しています。イエスの死は疑う余地のないものです。
復活とは、死にかけていたが息を吹き返したということではありません。イエスは完全に死なれましたが、ご自分の死によって、「死」そのものを死なせ、死に勝利して復活されたのです。イエスはひとたび死なれましたが、ふたたびよみがえられました。イエスはもう死ぬことのない栄光のからだによみがえったのです。そのようなことは歴史の中で一度もなかったことです。人類の歴史は、人が生まれては死ぬという繰り返しでした。創世記の「アダムの系図」には「こうして彼は死んだ」という言葉が8回も繰り返されています(創世記5章)。人は皆、アダムの子として、「こうして彼は死んだ」「こうして彼女は死んだ」と言われて人生を終わります。しかし、キリストにある者は違います。イエス・キリストが復活されたように、やがて栄光のからだに復活するのです。罪からの救いを与えてくださったイエスは、罪の結果である死からの救いをも与えてくださるのです。イエスが復活されたのは、私たちの復活のさきがけとなるためであり、それを保証するためでした。そればかりでなく、イエスの復活のいのちは、信じる者のうちに今、働いて、信じる者を新しい存在にし、地上の人生を力強く生き抜く力を与えるのです。イエス・キリストの十字架と復活、ここに救いがあります。
二、信仰
ある教会のイースターの案内に「イエス・キリストは十字架から三日目によみがえったと言われています」と書いてありました。私はそれを読んで、驚き、またがっかりし、憤りさえ覚えました。「キリストは…よみがえったと言われています」ではなく、「キリストは…よみがえりました」と書くべきだからです。クリスチャンでない人たちがそういうのはしかたがないとしても、教会はイエス・キリストの復活の証人で、人々にキリストの復活を知らせなければならないのです。復活の事実を信じればこそイースターを祝い、毎週日曜日、イエスの復活の日を記念して礼拝に集まり、「小さなイースター」を祝っているのです。信仰は事実に基づきます。「復活があったかどうかは分からないけど、そう言われているから、そういうことにしておきましょう」というのは信仰ではありません。使徒パウロは「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(コリント第一15:14)と言っています。信仰の土台は歴史の事実です。もし、キリストの十字架や復活がたんなる物語で事実でないなら、そこにいくら意味付けをしても、私たちに救いはないのです。パウロはこうも言っています。「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。…もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で、一番哀れな者です。」(同15:17、19)しかし、事実、キリストは復活されました。イエスは復活によって、私たちの罪が十字架によって赦され、神の前に正しい者とされていることを確かなものとされたのです。
それで、ローマ10:9-10は「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」と告げているのです。ローマ4:25にも「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」とあります。十字架と復活を「信じる」とは、たんに十字架と復活という出来事があったことを認めるだけではありません。それが「私たちの罪のため」であり、「私たちが義と認められるため」であることを知って、その罪の赦し、救いを受け取ることです。イエスの十字架と復活は、「イエスは十字架で死なれたそうですね。おかわいそうでしたね。でも、復活されたそうですよ。それはよかったですね」と言って済まされるものではありません。十字架と復活の事実は、それがこの私のためであったことを知って、イエス・キリストを信じ、受け入れる信仰を私たちに求めています。十字架と復活による救いは、信仰を通して私たちにのところに来る。私たちのところに来て、私たちのうちに働くのです。
三、告白
ローマ10:9-10は信仰と共に、告白を教えています。順序としては心に信じてから口で告白するのですが、ローマ10:9-10は、「口で…告白し、心で…信じるなら、あなたは救われる…人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」と言って、心に信じることと口で告白することとを、別々のものではなく、ひとつのことと見ています。心で信じるなら、それは必ず口に上るはずであり、口で告白することによって、さらに心に堅く信じることができるからです。
人にもよりますが、たいていの人は心の中にあることを黙ってはいられないものです。それが辛いことであれ、嬉しいことであれ誰かに話したいのです。誰も聞いていなくても、ついひとりでつぶやいたり、叫んだりしてしまうことがあるでしょう。神が私の罪を赦してくださる。正しい者と認めて受け入れてくださる。神の子どもとして愛を注いでくださる。それを聞いて、知って、分かって、黙っていることはできないはずです。「神さま、私の罪を赦してください。御国に受け入れてください」と心で祈るだけでなく、実際に声を出して、「イエスさま、あなたは救い主です。主です」と叫びたくなるのです。心にある信仰は、告白となって唇に上るものなのです。
しかし、どのような言葉で、信仰を言い表わせばよいのでしょうか。じつは、「告白」は、もとの言葉で「ホモロゲオー」と言い、それには「同じことを言う」という意味があります。何と同じことを言うのでしょうか。神の言葉とです。神の言葉が「すべての人は罪を犯した」と言うので、私たちも「私は罪を犯しました」と告白するのです。神の言葉が「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言うので、私たちも「私を死から救い出し、永遠の命を与えてください」と願うのです。
信仰を告白する言葉は、聖書に数多くありますが、そのひとつはピリピ2:6-11です。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ここに「イエス・キリストは主である」という言葉がありますが、これは、信仰告白の要約の言葉です。その前後の言葉にあるように、「イエスは私たちの罪のために十字架で死なれた救い主キリストです。復活し、天に昇り、御座に着き、すべてを治めておられる主です」という意味が、「イエス・キリストは主です」という言葉に含まれています。
「イエス・キリストは主である」をもっと短くしたのが「イエスは主です」という言葉です(コリント第一12:3)。ローマ10:9-10は、この一番短い告白の言葉「イエスは主です」を取り上げて、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白するなら救われる」と言っています。みなさんは、いつその告白をしましたか。私は、伝道集会のあと教会の執事の方に導かれ、その人が与えてくれた言葉の通り、「私はイエスさまを私の救い主と信じます」と祈りました。その日のことは長い年月の経った今も、昨日のことのようにして思い起こすことができます。
最初の告白以来、私たちは礼拝に集まって「イエスは主です」と告白し続けています。礼拝では、他の人々と一緒にひとつの心、ひとつの言葉で、共に「イエスは主です」と告白します。そして、礼拝を終えてそれぞれの場所に遣わされていくときも、「イエスは主です。わたしの主です」と告白し続けるのです。心に信じるものが、素直に口に上ってくる、それが証しとなり伝道となるのです。信仰の告白は、自分を救うだけでなく、その告白に触れる人々をも救います。信仰の告白にはダイナマイトのような大きな力があります。この週も、その告白の力を見せていただきましょう。「心に信じ、口で告白する。」これが救いの道です。この道を歩みましょう。
(祈り)
真実な神さま、あなたは「イエスは主である」と信じて告白するなら救われると、救いの道をはっきりと示してくださいました。これ以上に明確な救いの道はどこにもありません。御言葉の通り、心に信じ、口で告白してあなたに応えていく私たちとしてください。私たちの救いのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストのお名前で祈ります。
3/21/2021