救われるには

ローマ10:9-13

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10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

 「目的の四十日」も、折り返し点を通過しました。みなさんの毎日のデボーションはいかがでしょうか。礼拝では、「五つの目的」を前もって学んでいますが、今日は、第五の目的、「私たちは使命のために造られた。」を取り上げます。日本語で、「使命」と訳されている言葉は、英語では "Mission" で、"Mission" という言葉は、「五つの目的」では、「宣教」という意味で使われています。ですから、第五の目的は、「私たちは宣教のために造られた。」と訳しても良いと思います。また、第五の目的のキーワードは「伝道」ですから、第五の目的を「私たちは伝道するために造られた。」とも、言い換えることができます。

 "Mission" と言うと、私は、"Missionary"(宣教師)という言葉を思い起こします。スエーデンから来た若い女性の宣教師によって、信仰に導かれたというあかしを、昨年、ある姉妹がしてくれました。その姉妹は、あかしの中で、この宣教師は、遠い国から、言葉も文化も違うこの国に、また誰一人知る人のいないこの町に、なぜやってきたのだろうと、不思議に思ったと話していました。今でこそ、世界が狭くなり、飛行機で自由に行き来できる時代になりましたが、数十年前までは、宣教師たちは、船に乗り海を越え、馬に乗って山を越え、何ヶ月もかかって宣教の地まで行ったものです。そして、たいていの宣教地には、困難が待ちかまえていました。赤道直下の国、エクアドルのアウカ人に伝道しようとした宣教師たちは、伝道する前に現地の人々に殺されてしまいました。しかし、残された宣教師夫人たちは、それにもひるまず、なおも現地の人々に伝道し続け、ついにそこに教会が建てられました。このことは、その宣教師夫人のひとり、エリザベス・エリオットが書いた『ジャングルの五人の殉教者』に詳しく描かれています。この人たちは、なぜ、それまでして、伝道したのでしょうか。それは、伝道が、彼らの使命であり、また、愛のためであり、伝道なしには、人は救われないことを知っていたからでした。第五の目的で「伝道」ということを学ぶにあたって、まず、私たちはなぜ伝道するのかということを確かめておきましょう。

 一、伝道の使命

 私たちは、なぜ伝道するのでしょうか。それは、まず第一に、主イエス・キリストによって与えられた使命だからです。主は、弟子たちに「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)と命じ、また、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われました。"Mission" という言葉が「宣教」とも「使命」とも訳されるのは、キリストが教会に与えた使命がじつに宣教だったからです。教会の使命は宣教であり、宣教は教会の使命です。ですから、伝道は、してもしなくてもよいようなものでも、できればしたほうがよいというものでもありません。それは、キリストが教会に命じられたもので、しなければならないものなのです。使徒パウロは、紀元一世紀の地中海世界のいたるところで伝道してきた人ですが、彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」(ローマ1:14)と言っています。伝道は、彼の義務であり、教会の義務であるというのです。使徒パウロは、「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。」(コリント第一9:16)とも言っています。

 伝道の使命は、使徒パウロやキリストの弟子たちだけに与えられたものではありません。それは、すべてのクリスチャンに、いつの時代の教会にも与えられています。私たちにも与えられているのです。会社の看板に "Since 1955" などと、創立年が刻まれていることがあります。「私たちは、1955年以来、50年間ビジネスを続けています。」という意味なのでしょう。このごろは、会社の名前は同じでも、全く違ったビジネスをしているところもあるので、"We are in the same business in 50 years." などと宣伝されることもありますが、教会は、50年どころか、もっと、長い間、二千年もの間、「伝道」という同じひとつのビジネスに専念してきました。私たちは、"We are in the same business in 2000 years!" と言うことができるのです。また、多くの企業は、たとえば、「私たちのミッションは、安全で、環境にやさしい製品を作ることです。」などという、「ミッション・ステートメント」を掲げています。教会には、二千年間、変わらないミッションがあります。それは伝道というミッションです。もし伝道しなければ、教会は、他のどんなことをしていたとしても、教会でなくなってしまいます。私たちには伝道という使命が与えられているのだということを、まず、自覚させていただきましょう。

 二、伝道と愛

 第二に、私たちは、神の愛のゆえに伝道します。神が、私たちに伝道を命じておられるのは、ひとりでも多くの人が罪とその結果から救われて欲しいと、愛をもって願っておられるからです。テモテへの手紙第一2:4に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあり、ペテロの手紙第二3:9には、「主は、…ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。

 時代は、どんどん悪くなっています。昔は、家に鍵などかけなくても良かったのに、今は、いくつも鍵をかけ、アラームシステムをはりめぐらすようになってきました。凶悪な犯罪が日常のことになり、二組に一組の夫婦が離婚し、家庭が壊れています。子どもたちは自制が効かなくなり、生きる目当ても、希望も無くしています。人の心が冷たくなり、ゆがんでしまい、本当は互いに愛し合うべき家族がいがみ合っています。互いに認め合い、尊敬しあう正しい人間関係を持つことができないで、人間関係というと、他の人を利用したり、支配することだと思っている人がどんどん増えています。人間関係が利害関係になっているのです。人の心が病んでいるのです。人の心が病んでいるだけではありません。病んだ心を持つ人間が住む、この世界も病んでいます。自然界は人間の欲望のため破壊され、その結果、様々な災害が起こり、以前は無かったような病気が増え続けています。医学は発達しました。しかし、医学の発達が追いつかないほど、難しい病気が増え、人々は、苦しみ、うめいています。

 人類の歴史は、罪の歴史です。人間はいつの時代も頑固で、罪を認めようとはしませんでしたが、それでも、一昔前までは、人々は聖なる神への恐れを持っていました。まだ、良心が機能していて、罪の意識がありました。しかし、現代は、聖なる神に対する恐れも、自然に対する恐れも、生命に対する畏敬もどんどんうすれ、消えかかっています。時代が悪くなればなるほど人は、人間の罪深さを認めなければならないのに、逆に、人はますます罪を認めなくなっています。大きな災害が起これば起こるほど、人間は、その無力を覚えてへりくだらなければならないのに、どんどん高慢になっています。世界中で戦争が起こり、お互いに殺し合っているのに、人間はまだ、自分たちの愚かさを認めることができないでいるのです。神は、そんな人間をたちどころに滅ぼしてしまっても良いのに、今の今まで忍耐して、神のもとに立ち返るのを待っておられます。いいえ、ただ待っておられるだけでなく、宣教師を派遣し、伝道者を送り出し、教会の伝道を、クリスチャンのあかしを用いて、人々を救いに招いておられます。

 伝道とは、神が私たちを救おうとしておられるこの愛に動かされて、この愛を人々に伝えることです。使徒パウロは、同民族のユダヤ人のために、こう言っています。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ9:1-3)パウロが、どんなにか神に愛され、キリストを愛していたかは、聖書を読めば分かることですが、そのパウロが、この神の愛から、キリストから引き離されても良いとさえ言っています。それは、彼がそれほどに、同胞ユダヤ人の救いを切に願ってのことでした。パウロはすべての人の救いを願っておられる神の心を自分の心として伝道していたのです。

 辞書によると、「伝道」という言葉は、キリスト教が日本に入ってきてからできた言葉のようです。他の宗教では「伝道」と言わず「布教」と言います。よく、「仏教は穏やかで、伝道なんかしない。」と言われますが、仏教にも、「折伏」という言葉があります。これは、間違った教えを持っている人をただして、仏とその教えに立ち返らせることを言います。クリスチャンが、真理を弁明したり、人々に悔い改めを促すのと同じ意味です。仏教にも、言葉は違っていますが、「伝道」という概念があるのです。しかし、その内容は大きく違っています。多くの宗教では、「伝道」とは、その宗教の信者を獲得するためのものです。数多くの信者を獲得し、その宗教が、社会的に認められると、そこで伝道は終わってしまいます。ところが、教会は、313年、ローマの皇帝、コンスタンティヌスによって認められ、信仰の自由が保障された後も、伝道をやめませんでした。それは、ひとりでも多くの人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる、神の愛によって、教会が動かされていたからです。

 リック・ウォレン師の父親もまた牧師でしたが、彼は、臨終のベッドで、何度も何度も "One more soul for Jesus." と叫びました。ひとりでも多く、救い主イエスのもとに立ち返って、救われる人が起こされるように、この願いが、リック・ウォレン師の父親の心からの願いでした。この神の愛が、私たちを動かしているので、私たちは伝道するのです。"Purpose Driven Life"―それは、同時に "Love Driven Life"(愛に駆り立てられる人生)なのです。

 三、伝道と救い

 私たちは、第一に、それが私たちの使命であるので伝道します。第二に、神の愛が私たちを駆り立てているから伝道します。そして、第三に、私たちは、神が伝道によって人を救われるから、伝道以外に人が救われる道がないから伝道するのです。

 ローマ10:9-10は、人はどうして救われるのかをはっきりと書きしるしています。ここでは、人が救われるには、まず、イエス・キリストを知る必要があると教えられています。「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。」とありますが、イエス・キリストについて聞くことなしに、どうして、人は、イエス・キリストを信じることができるでしょうか。伝道がなくて、どうして、人は、今から二千年前、ユダヤの国に生まれたイエスが、キリストである、主であると知ることができるでしょうか。キリストの十字架が、私たちの罪の身代わりであったことを、どのようにして理解するのでしょうか。誰かが、イエス・キリストを伝えなければならないのです。伝道なしには誰も、イエス・キリストが十字架の死から三日目に復活し、今も生きておられることを信じることはできないのです。

 また、この箇所は、救われるために、私たちがしなければならないことが二つあると教えています。ひとつは口でイエス・キリストを主であると言い表すこと、もうひとつは、心でイエス・キリストは死から復活されたということを信じることです。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。心で信じているだけでも、口で告白するだけでもだめなのです。主イエスは、信仰を口にしながら、心では信じていない人に対して「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)と言われ、心で信じていても、その信仰を言い表さない人について、「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32-33)と言われました。キリストは、頭で分かっていることを、心で信じるように、心で信じていることを、口で言い表せるほどになることを神は求めておられます。つまり、心と言葉が一致する時、人は救われるのです。しかし、伝道がなされなくては、誰も信仰の告白に導かれることはできません。「告白する」ということは、その告白を聞く誰かが必要なわけですから、そこに、伝道する人が必要なのです。私たちも、私たちに福音を語ってくれた人がいたので、キリストを知ったのです。キリストへの信仰に導いてくれた人がいたので、「イエス・キリストは主です。」と言い表すことができたのです。今度は、私たちが、他の誰かに同じことをしてあげる番ではないでしょうか。

 使徒パウロがアテネの町で伝道し、イエス・キリストは復活されたと語った時、多くの人々は、パウロをあざ笑い、パウロの語った福音を愚かなものとしました。しかし、福音を信じた人々は、救われたのです。(使徒の働き17章)人々は、伝道を嫌い、福音を馬鹿にするかもしれません。教会が、慈善事業や、福祉、教育、芸術の分野で活動している間は、社会に受け入れられ、喜ばれるのかもしれませんが、ひとたび、伝道に励むようになると、教会やクリスチャンは、人々から敬遠されるようになるかもしれません。しかし、私たちは、福音を語りつづけます。伝道し続けます。なぜなら、福音を伝えなければ人は救われないからです。人々が福音に耳を傾けてはくれないだろうと言うので、ほかのことを語ったとしても、それで人は救われるわけではありません。伝道が困難だからと言って、教会が他の事業に乗り出したなら、いったい誰が、人々の救いのために働くのでしょうか。パウロは言っています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(コリント第一1:21-24)福音は、人を救う神の力であり、福音を宣べ伝える伝道は、神の力を持ち運ぶ唯一の方法です。

 「神の力」とある「力」はギリシャ語で「デュナミス」と言います。この「デュナミス」という言葉から「ダイナマイト」という言葉が生まれました。ダイナマイトは、ノーベル賞を作ったスウェーデンのアルフレッド・ベルナルド・ノーベルによって発明されました。ノーベルは、通常ではすぐに爆発してしまうニトログリセリンを安全に運ぶため、それをケイソウ土に染み込ませるという方法を考えついたのです。ケイソウ土というのは、珪藻(けいそう)と呼ばれる植物プランクトンの化石から出来上がったもので、吸水性、吸着性に優れるという特性があって、それがダイナマイトに利用されたのです。その後、軍事用には、ニトログリセリンよりも、もっと爆発力の強いトリニトロトルエンが使われ、それは、略号で "TNT" と呼ばれますが、実は、ローマ10:9-10も "TNT" なのです。「ローマ人への手紙10章9節、10節」を英語では "Romans Ten Nine Ten" と言いますので、"Ten Nine Ten" の頭文字をとって "TNT" というわけです。イエス・キリストの十字架と復活を信じ、イエス・キリストを「主よ」と、真心から呼び求めるものに、神の救いの力、デュナミスが届くのです。ダイナマイトのニトログリセリンがケイソウ土に染み込んでいるように、福音には、人を救う神の力が染み込んでいます。この福音によって、人は救われます。ですから、私たちは、この福音を伝え、伝道するのです。パウロは言いました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)私たちも、パウロと同じように、福音に人を救う神の力があることを確信して、この福音を伝える、伝道に励みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、イエス・キリストの福音を聞き、それを信じて救われました。それは、誰かが私たちに福音を語り、私たちを信仰に導いてくれたからです。今度は、私たちが誰かに福音を語り、誰かを信仰に導きたいと、願っています。そうすることが、私たちに与えられたあなたからの使命であることを深く教えててください。その使命の背後に、人を救おうとしておられるあなたの大きな愛があることを悟らせてください。そして、この福音が人を救うものであることを確信させてください。誰に、どのようにして伝道すれば良いのかを教え、伝道する力を与え、導いてください。私たちを、神の力を持ち運ぶ器として選んでくださった、主イエスのお名前で祈ります。

3/6/2005