10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
一、伝道の必要性
先週だったと思いますが、ABCニュースで、日本の Suiside Club のことが紹介されていました。これは、インターネットでいっしょに自殺する人を誘うというもので、車の中に閉じこもって、一酸化炭素中毒で自殺を図るという事件が何度も起こっています。今年の1月28日に厚生労働省が発表したところによると、2003年の自殺者は32,109人で、過去最高だったそうです。2003年の交通事故による死亡者が約8,000人ですから、自殺者は、交通事故で亡くなった人の四倍に達します。1日に100人近い人々が自殺をしており、未遂の人も入れると、とんでもない数字になるでしょう。日本は、人口に占める自殺者の割合が先進七カ国の中では第一位です。秋田県は日本でも一番自殺者が多いところで、このため、秋田大学では、全学生を対象に自殺防止のための講座を開くことになったそうです。ABCニュースの、このトピックの最後に、Yoko という、何度も自殺未遂を経験し、今は精神科で治療を受けている若い女性が、たぶん東京だと思いますが、街角に立っている映像が映し出され、レポーターが「Yoko は、今でも死にたいと願っています。」と語っていたのには、やりきれない気持ちになりました。自殺したいと願っている人に、「自殺はいけない。」と言うだけでは、説得力はありません。「なぜ人は生きるのか、生きなければならないのか。」という明確な答えが必要です。そして、その答えは聖書の中にあり、キリストのうちにあります。自ら死を選ぼうとする人たちが、キリストを知っていたらと思います。皆さんも、きっと同じ気持ちでしょう。自殺をする人ばかりではありません。最近、破廉恥なことをして国会議員の地位を棒にふってしまった人がいますが、その人も、もし、キリストを知っていたら、そんなことをしなくて済んだかもしれません。凶悪な犯罪を犯した人であっても、もし、その人がキリストを知っていたら、そんなに大きな罪を犯さなくて済んだかもしれないのです。最近は親が子を、子が親を、夫が妻を、妻が夫を殺したりという暗い事件がいくつもあります。その中には、子どもの暴力に耐えかねてのことだったり、病気の配偶者を世話しきれなくなってという場合もありますが、もし、そうした人々がキリストを知っていたなら、きっと別の解決を見つけることができただろうにと思います。
ローマ10:13に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」とあるように、どんな苦しみ、どんな問題の中にある人であっても、主の御名を呼び求める者、つまり、イエスは救い主キリストであると心に信じ、「イエス・キリストは主です。」と口で告白し、悔い改め、へりくだって祈る者は、だれでも救われるのです。主イエスは「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)と約束してくださっています。どんなことでも、キリストのお名前によって祈ることができます。何をどう祈ってよいかわからない時でも、「主よ、主よ。」と主の名前を呼び続けるなら、その祈りは主のもとに届くのです。
しかし、誰かがその人たちにキリストを伝えなかったら、その人たちはキリストを信じて、祈ることが出来ないのです。ローマ10:14に「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」とあります。これを逆に言えば、キリストを語る人がいなければ、キリストのことを聞くことはなく、キリストのことを聞かなかったら、キリストを信じることもないのです。ローマ10:17に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とある通りです。そして、キリストを信じることがなければ、キリストを呼び求めることもなく、キリストを呼び求めることがなければ救いはないのです。こんなに素晴らしい救いがあるのに、もしそれを語ること、伝えること、知らせることがなければ、人は救われないのです。
ある人からこんな話を聞きました。その人は、あることで悩み、救いを求めて、自分ひとりで教会に来ました。そして、キリストに救いがあることを発見することができました。すると、同じ教会にふだん親しくしている友だちがいました。その人は、自分の友だちが実は、クリスチャンで、同じ教会に以前から来ていたのです。その人は、最初「知っている人がいて良かった。」と思ったのですが、しばらくして、少し不愉快な気持ちになったというのです。その人は、友だちに「あなたは、私の友だちで、私が悩んでいるのを知っていたのに、どうして私にキリストのことを話してくれなかったのですか。あなただけが教会に来て、どうして私をさそってくれなかったのですか。」と言いたかったというのです。私たちは、友だちから同じことを言われることがないように、普段から、機会をとらえて、自分がクリスチャンであること、キリストに救いがあることを知らせておきたいものです。聖書は、「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」と言っています。これは、神が、私たちに、伝道する者になって欲しいと願っておられる、その願いを表していることばです。私たちの周りには、キリストを知らない人が大勢います。苦しみのただ中にある人、破滅に向かっている人たちがいるかもしれません。その人たちがキリストを知るなら、その人たちの人生は大きく変わることでしょう。あなたの身近な人には、あなたが「宣べ伝える人」とならなければ、他の誰も代わることができないのです。『5つの目的』は、私たちに、そうした伝道の使命があたえれていると、教えています。この使命を、今朝、もう一度確認しておきたいと思います。
二、伝道の準備
しかし、自分に伝道の使命が与えられているということが分かったからと言って、すぐに伝道できるとは限りません。伝道しなければならない、伝道したいと願っていても、いったい、何をどう話せばいいのか分からない場合もあります。また、話すべきことが分かっていても、こんなことを話しても拒否されるのではないかという恐れが起こって来ることもあるでしょう。そうしたことを乗り越えるためには、伝道のために整えられている必要があります。聖書は「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」(ローマ10:15)と言っていますが、「遣わされる」という言葉の中には、整えられる、備えられるという意味も含まれています。伝道するためには、自分のためにも、伝道しょうとしている人のためにも祈る必要があります。また、聖書を学ぶ必要があります。伝道していて、難しい質問を浴びせられることもありますから、牧師や他のクリスチャンのサポートが必要でしょう。教会では、そうした祈りの場、学びの場がありますから、礼拝と共に、学びの場に進んで出ていただきたいと思います。しかし、そうしたものと共に持っていなければならないものがあります。それは、救いの確信と、きよめの体験です。
キリストを伝えるということは、数学や歴史を教えることとは違います。伝道は、たんに客観的な真理を伝達することでは終わりません。自分の救いの体験を通して、キリストを語ることです。それは、もっとパーソナルなものです。ですから、『5つの目的』では、「パーソナル・ヒストリーを通してキリストを伝える。」とあります。テレビで観たものや本で読んだことを人に教えるのと、自分が直接見たこと、聞いたこと、体験したことを語るのには、大きな違いがあります。「私はキリストによって救われました。このように変えられました。私の生活にはキリストが共にいてくださいます。」というあかしには、力があります。自分が体験したことは、情熱を持って語ることができ、その情熱によって、真理が相手に伝わるのです。自分自身がキリストの救いについてあやふやでは、力をもってキリストを伝えることはできません。
また、キリストの救いを確信していたとしても、私たちの中に、神に喜ばれない罪があったり、利己的な思いがあったり、人を恐れる思いがあるなら、それもまた、私たちがキリストを伝えるのを妨げます。そうしたものからきよめられる、きよめの体験が必要です。預言者イザヤは、神から遣わされる前に、きよめの体験をしています。彼は、神殿で聖なる神に出会い、神の栄光に触れました。その時、イザヤは「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」(イザヤ6:5)と叫びました。イザヤは、聖なる神のことばを語るにふさわしくないことを心底から認めたのです。しかし、同時に、イザヤは、「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:7)という声を聞き、罪の赦しときよめを確信しました。私たちにも、イザヤのような体験が必要です。イザヤと同じ体験と言っても、そっくり同じ体験をしなければならないというわけではありません。体験は、ひとりびとり違います。大きな体験もあれば、小さな体験もあります。また、きよめの体験は、一度限りというものではありません。生涯の中で何度か繰り返されます。それは、繰り返されるたびに深められるものです。それは、賛美をささげている時に心が燃えてくるような体験かもしれません。開いた聖書のことばに心を奪われ、それに釘付けになるということかもしれません。祈っている時に涙が止まらなくなってしまうこともあるでしょう。しかし、どんな体験であれ、きよめの体験には、罪を示され、それを悔い改めること、自分の知恵や力に頼ることをやめて、神のことばに聞き従い、神に信頼することが含まれていま。私たちが語る福音の中心は、キリストが私たちの罪のために死んでくださったこと、私たちの救いのために復活してくださったことにあります。つまり、罪からの救い、罪の赦しが福音の主題です。罪を認め、それを悔い改める体験なしには、罪からの救い主イエス・キリストを語り、罪の赦しの福音を語ることはできません。伝道するのに、聖書の知識が多くあればそれにこしたことはありませんが、どんなに、多くの知識を持っていても、こうした罪の赦しの体験がなければ、他の人をキリストに導くことはできないのです。
イザヤは、この体験の後、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」という主の声を聞き、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えました。「きよめ」があってはじめて神からの「使命」に応答することができるのです。「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」とあるのは、きよめられた心で神からの使命に応答することを意味しています。神は、私たちに伝道を命じておられます。私たちも、伝道したいと願っています。そうであるなら、神は、私たちに語ることばも、その方法も、そして何よりも伝道のための力を与えてくださらないわけはありません。私たちも、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と神にこたえ、神の備えを受けようではありませんか。
三、伝道の栄光
今朝は、第一に「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10:14)ということばを、第二に「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」(ローマ10:15)ということばについて考えましたが、最後に「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ということばに目を留めましょう。
ふだん、「足」は、「なんとりっぱでしょう。」とほめられることはあまりありません。しかし、聖書では、「足」がほめられ、大切なものとされています。教会は、キリストのからだで、教会に属するクリスチャンのひとりびとりは、キリストのからだの各部分です。コリント第一12章は、そのようなキリストのからだの一致について教えているところですが、そこには「たとい、足が『私は手ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が『私は目ではないから、からだに属さない。』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。」(コリント第一12:15-16)とあります。一般には足は身体の低い部分にあって、手よりも低く見られますが、実際は、足がからだ全体を支えているのです。足が弱ると、心臓から送られた血液を、再び心臓に送り返すことができなくなり、からだ全体が弱ります。「足は第二の心臓」とも言われ、「からだは足から弱る」とも言われます。キリストのからだでも、目立たなくても、足のようにからだ全体を支えている人々を、神は大切にしてくださいます。
「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ということばに戻りますが、「良いことの知らせ」そのものは、口で伝えるのですから、「口」がほめられても良いのかもしれませが、ここでは「足」がほめられています。なぜでしょうか。このことは、皆さんもよくご存じの「マラソン」の由来が良く言い表しています。紀元前450年、ペルシャのダリウス一世は、数万の大軍をアテネに近いマラトンの野に上陸させました。アテネは名将ミルティアデスに導かれた約一万の重装歩兵をもってこれを迎え討ちました。大激戦の後、ついにアテネはペルシャ軍を撃ち破りました。この時、フェイディビデスという名の兵士が、勝利の知らせをアテネの町まで伝える伝令の役を命じられました。彼は、およそ36キロの道のりをひたすらに走り続け、アテネの町に着いた時、ただ一言「わが軍勝てり。」と叫んで息絶えたというのです。「マラトン」という地名から「マラソン」という競技の名前が起こりました。このように、古代には、人々は、伝令の「足」によって情報を得ました。伝令が遠くから駈けてて来て、町を見下ろす丘の上に立つ、その足に、人々は注目したのです。情報は、生きた人間が実際に足を使って伝えるものだったのです。
現代は、情報は、テレビやラジオ、インターネットや新聞などによって伝えられ、福音もまた、こうしたメディアを通して、伝えられています。皆さんの中にも「みえますか愛」のテレビ番組を見て教会に来るようになった人がいることでしょう。私も、神を求めるきっかけになったのは、クリスチャンのラジオ番組でした。神は、こうしたメディアを用いてくださいます。しかし、神が、人を信仰に導かれる時には、人を用いられます。特別な場合は別として、メディアは伝道のきっかけとしては用いられても、それは、人を悔い改めや信仰に導くことはありません。人は何かをする時、物(Material)、金(Money)、方策(Method)に頼ります。しかし、神は常に人(Man)を用いられます。ある人が「伝道とは人格から人格へとイエス・キリストというご人格を伝えることである。」と言いましたが、おひとりの人格を他の人格に伝えるには、どうしても「人」が必要なのです。
しかし、神が、伝道のために私たちを必要としておられるというのは、よく考えてみるとおそれおおいことです。救いは、神の主権と愛によって備えれたもので、そこには人間の知恵や努力が入り込む余地は少しもありません。なのに、神が、救いの計画のなかに、私たちの伝道を組み入れてくださっているのです。もし、私たちが伝道しなければ、神の計画も、キリストの十字架の苦しみも無意味なものになるかもしれないのに、神は、私たちを信頼し、伝道を私たちに任せてくださったのです。これは、なんと驚くべきことでしょうか。天使は完全な存在ですから、神は天使に福音を伝えることを任せてもよかったのかもしれません。しかし、神は、不完全な人間にそれを任せました。なぜでしょうか。天使には罪がなく、罪の赦しの喜びを知らないからです。人間は不完全で罪を持っていますが、そのかわり、罪赦された喜びを知っています。だから、人間は、罪の赦しを伝えることができるのです。神は、罪に苦しんでいる人間への伝道を、罪の赦しを知っている人間に、お任せになったのです。羽のついた天使が世界を行き巡れば、たちまちにして福音は伝えられるかもしれません。しかし、神は、天使のように羽を持たない、足で歩き回ることしかできない私たちに福音を委ねられました。聖書では、「足で歩く」というのは、「地上の生活をする」あるいは「信仰の生活をする」という意味で使われています。神は、この地上の生活の中で、苦しみ、うめき、救いを求めている人々に、同じ現実の中で生きている私たちを遣わしてくださるのです。イエス・キリストご自身も、天使としてでなく、人間としてこの世に来られ、この地上を歩き回わり、伝道されました。私たちは、道の使命が与えられていることを頭で理解するだけに終わらず、きよめられた心をもってその使命にこたえ、自分の足を使い、実際の行動を通して、伝道に励みたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、伝道を考える時、私たちはその責任の重さのゆえに意気消沈してしまったり、自分の無力を嘆くことが多くあります。しかし、自分の無力を感じるところからきよめが始まり、きよめから伝道が始まることを、今朝、私たちは学びました。私たちは、自分の使命を確認し、きよめを求め、伝道のための一歩を踏み出したいと願っています。「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ6:15)とあるように、私たちの足を、福音を届ける足として整え、用いてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
3/13/2005