主の名を呼ぼう

ローマ10:11-13

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10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

 きょうの箇所の13節、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」、これは、「ローマ人への手紙による救いの道」の第五番目の御言葉です。救いの道を説明するのに、この御言葉をどう用いるかは、別の機会にお話しすることにして、きょうは、パームサンデーですので、イエスの受難の週の中で起こった出来事との関連の中で、この御言葉を想い巡らしてみたいと思います。日曜日、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々は「主の御名」を呼びました。木曜日の夜、イエスは十字架を前にして、「主の御名」を呼ぶことを弟子たちに教えています。そして、金曜日、イエスが十字架にかけられたとき、「主の御名を呼んで」救われた人がいました。これら三つの出来事を振り返ってみましょう。

 一、御名を呼んだ群衆

 「主の御名を呼ぶ。」これが聖書で最初に出てくるのは、創世記4:26です。新改訳第2版では「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」と訳されていますが、新改訳2017では「そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた」と訳されています。「主の御名を呼ぶ」には「祈る」という意味があるので、そう訳されたわけです。

 また、「主の御名を呼ぶ」には「祈る」だけでなく、「賛美する」あるいは「礼拝する」という意味もあります。アダムのふたりの子、カインとアベルが、アダムから教えられたとおりに祭壇に献げ物を持ってきたように、神への礼拝は人類の始めからありました。ところが、カインの子孫はまことの神から離れてしまいました。しかし、セツの子孫は神を敬い、神を礼拝する民となりました。それが、「主の御名を呼ぶ」ということでした。主の御名を呼んで礼拝する人々と、そうでない人々は今に至るまで別々の道を歩んでいます。神は、神を礼拝することのなかった人たちが神を礼拝するようになることを願っておられます。

 さて、イエスがエルサレムに入城されたとき、群衆は、手に手にしゅろの葉を持ってイエスを迎え、こう叫びました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)これは詩篇118篇から取られた言葉です。詩篇118:27に「枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで」とあるのですが、人々は聖書の言葉どおり、しゅろの葉や木の枝を手に持って賛美しながら神殿に向かいました。

 「ホサナ」は「救ってください」という言葉で、詩篇118:25では「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください」となっています。イエスに向かって救ってくださいと言うのですから、イエスが「救い主」であるということになります。

 「祝福あれ」には二通りの意味があって、ひとつは、神が人をいつくしみ、人に恵みを与えること、もうひとつは人が神を「あがめ、賛美する」とことです。詩篇118:28では「あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神、私はあなたをあがめます」とあって、ここでの「祝福あれ」が「主の御名によって来られる方」への賛美であることが分かります。群衆が「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と叫んだ、そのことは「主の御名を呼ぶ」ことであり、救い主への祈りまた賛美であったのです。

 イエスに反対していた人々はこの賛美の声を聞いて眉をしかめました。彼らはイエスに「先生。お弟子たちをしかってください」と言いましたが、イエスは答えて言われました。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:39-40)救い主が来られ、今まで「主の御名を呼ぶ」ことのなかった人々までもが、まことの神に祈り、主を賛美する時がやってくる。それは救いの成就のしるしとして聖書に預言されていたことでした。ゼカリヤ13:9に「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う」とあります。また、黙示録7:9に「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数え切れぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と子羊との前に立っていた」とあるように、かつて「異邦人」と呼ばれていた人々も、全世界で、救い主を信じ、礼拝する者とされました。「日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように」(詩篇113:3)との御言葉が、今、成就しています。私たちも「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と賛美し、主が十字架と復活によって成し遂げてくださった救いをあらためて感謝したいと思います。

 二、御名を与えられた弟子たち

 次に「主の御名」について書かれているのは、受難の週の木曜日のことです。この日、イエスは弟子たちと共に過越の食事を守った後、夜中まで長い時間、弟子たちに数々のことを教えました。イエスはその中でこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:23-24)イエスは、ここで弟子たちに、ご自分の名で祈ることを教え、イエスの御名が持つ権威や力を弟子たちに分け与えてくださったのです。

 今も多くの国では、監獄に入れられると名前では呼ばれず「囚人番号」で呼ばれます。これは人格を剥奪されることで、大変な侮辱です。「名前」、それはたんに個人を識別する記号ではありません。「名前」にはその人の人格や、地位、経歴、能力などが含まれています。

 これは実際の話ですが、アメリカの永住権を申請していた人が、いつまで経っても返事が来ないので、友人のアメリカ人に移民局に問い合わせてもらいました。その前にその州の上院議員のオフィスに連絡して、その議員の秘書からレターをもらっておいたそうです。それを持って移民局に行ったら、すぐに永住権の申請が受理されたというのです。「何の某」という名前は、その人が何らかの地位、立場にあれば、たんなる名前で終わらず、力を持つのです。地上の人間の名前にさえ、そのような力があるなら、あらゆるものの主であるイエスのお名前にはどんなに大きな力があることでしょうか。

 ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、生まれつき足の不自由な人を癒やしました。それを見て不思議に思っている人たちに、「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです」と言って、「イエスの御名」を宣べ伝えました(使徒3:6、16)。ペテロはそのために迫害を受けましたが、そのときも、ひるまずに「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言っています。イエスの御名にこそ全人類の救いがあるのです。私たちはこの御名を呼んで救われるのです。

 このように、弟子たちは、イエスの御名を宣べ伝え、イエスの御名によって祈り、礼拝しました。それで、彼らは「御名を呼ぶ人々」と言われました(使徒9:14、21)。サウロはこの「御名を呼ぶ人々」を迫害する人でしたが、ダマスコに向かう途中イエスに出会い、アナニヤから「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」と言われ、彼もまたイエスの「御名を呼ぶ」者とされました(使徒22:16)。

 「イエスの御名」には人を救い、造り変える力があります。なぜでしょうか。イエスが死から復活され、今も生きて、力をもって働いておられるからです。かつての弟子たちは目に見える形でイエスと一緒にいることができました。それは大きな特権でした。しかし、それはわずか数年のことでした。弟子たちはイエスを天に見送ってから、それまでよりも長い年月を過ごしています。けれども、彼らはいつもイエスを身近に感じていました。日々にイエスの命に生かされ、その力によって福音を伝えました。イエスの「御名」に、イエスの臨在があります。彼らはその「御名」を持ち、その「御名を呼び求め」ることによって、イエスと共にいることができたのです。

 この御名と、御名の持つ力は私たちにも与えられています。私たちは祈りの最後に「イエス・キリストのお名前で祈ります」と言いますが、これは単なる「決まり文句」ではありません。イエス・キリストの御名の力に信頼して、「イエス・キリストのお名前によって」と言うのです。私たちにも初代の弟子たちと同じ「イエス・キリストの御名」が与えられています。イエスの臨在と救いの力がそこにあります。この特権を、人々の救いのため、自分自身の信仰の成長のため用いようではありませんか。

 三、御名を呼んで救われた人

 さて、金曜日、イエスが十字架にかかられた時、御名を呼んで救われた人がいました。イエスの右と左にも十字架が立てられましたが、その一方にかけられた犯罪人が、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言いました(ルカ23:42)。これもまたイエスの「御名を呼ぶ」祈りでした。

 この人は「イエスさま」と呼びかけています。「イエスさま」という呼びかけそのものが「御名を呼ぶ」祈りなのです。古代から伝わる祈りに “Jesus Prayer” というものがあります。「主イエス・キリスト、神の御子、罪人である私をあわれんでください」という短い祈りです。私に “Jesus Prayer” を教えてくださった牧師は「Jesus だけでいいから、何度も口に出して祈りなさい。それから心の中で御名を唱えなさい」と指導してくださいました。「Jesus」、「イエスさま」と信頼を持って御名を呼ぶ、それだけでも立派な祈りになることを知りました。

 この犯罪人は「イエスさま」と、御名を呼んで救われました。イエスは彼に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:46)と言って救いを約束されました。このことは、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」という御言葉を見事に証明しています。そうです、まごころから主の御名を呼び求めるなら、私たちの罪は赦され、神の国に受け入れられるのです。罪の支払う報酬である死はイエスが代わって引き受けてくださいました。イエスは復活して永遠の命を無償の贈り物として私たちに与えてくださいます。皆さんはイエスの御名を呼び、それを受け取っているでしょうか。

 詩篇116篇に「主の御名を呼んだ」人の言葉があります。この人は、大きな苦しみに遭いました。そして、その中で主の御名を呼びました。「死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。そのとき、私は主の御名を呼び求めた。」(3-4節)すると、神はみごとにこの人を救い出されました。それで、こう言っています。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。」(12-13節)私たちもこの人のように主の御名を呼んで救われるのです。どんなことでも、神に助けを願い求めましょう。主はかならず、その願いを聞き、それに答えてくださいます。そして、私たちは、主が御名を呼ぶ者に答えてくださった感謝を献げるために、再び「主の御名を呼ぶ」のです。主の御名を呼んで答えられ、答えられて主の御名を呼ぶ。これは信仰の法則、また、祈りの法則です。詩篇116篇は1-2節でこの信仰の法則を宣言しています。「私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。」

 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」この御言葉の通り、どんなことでも「御名を呼び求めて」祈り、そして、祈りに答えてくださる神をほめたたえましょう。

 (祈り)

 恵み深い神さま。主の受難の週に、もういちど「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」との御言葉を与えられて感謝します。どんな人もまごころから主の御名を呼び求めれば救われる。この真理を私たちに堅く確信させてください。そして、私たちを生きるかぎり主の御名を呼び求める者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/28/2021