1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
一、神の怒りと人の怒り
今朝のメッセージのテーマは「神の怒り」ですが、おそらく、多くの人々が、「神の怒り」という言葉を聞いて、なんらかの抵抗を感じるのではないかと思います。宗教改革以前には、「神の怒り」や「神の審判」などという説教が、人々を当時の教会に従順な者にするために使われたという、不幸なことがありました。礼拝を休んだり、献金を怠ったりすると、地獄の火で焼かれてしまうなどと教えられ、人々は、神への愛からではなく、恐怖心から教会の規則に従う生活をしていました。どんなに口先で「神を愛します。」と言ったとしても、従順の無い愛は、偽者の愛ですが、同時に、ただ形式だけを守る、愛のない従順も、決して神を喜ばせるものではありません。「神の怒り」についてのメッセージは、正しく語られないと、人々を信仰に導くどころか、みせかけの信仰を生み出したり、精神的な暴力となることがあります。
そんなことから、長い間キリスト教国であったヨーロッパでは「神の怒り」という言葉に嫌気をさしている人々が多いようです。日本人は、キリスト教の長い歴史の背景を持っていませんので、「神の怒り」という言葉を聞いても、ヨーロッパの人々が感じるような嫌悪感を感じるということは、あまりないでしょう。けれども、「神の怒り」を人間の怒りと混同して、神が怒るということ、「神の怒り」ということ自体を認めることができない人が多いのではないかと思います。「神の怒り」を、神が、人間のように、短気を起こしてイライラしたり、顔を真っ赤にしてどなり散らしたり、あるいは、人を避けて引きこもったりすることと考えてしまうのです。そして、「怒りは、どんな怒りでも悪いことだから、神が怒りを持つのは正しいことではない。愛こそ、神にふさわしいのであって、怒りは神にふさわしいことではない。だから、キリスト教の怒る神を信じることはできない。」という結論を導き出すのです。多くの人は、孫が何をしても「ああ、よし、よし。」と言うだけの気の良いおじいさんのような存在に、神を考えるようになってしまいました。
人間の怒りの多くは、自己中心性から出ています。多くの人は、順番を待っている列の、自分の前に誰かが割り込んだら、たちまち腹を立てることでしょう。並んでいる列に誰かが割り込んでも、それが自分の後ろだったらかまわないという人もいるかもしれません。直接自分にかかわることなら、どんなに小さいことでも怒るのに、社会でどんな不正が行なわれていても、それに対して怒ることをしないということの中に、人間の自己中心的な姿が現れているように思います。社会的に弱い立場の人々が苦しめられていても無頓着なのに、自分のプライドが少しでも傷つけられると、そのことを恨みに思い続けることも多いのではないでしょうか。人間の怒りは、このように自己中心的なものなのですが、神の怒りは、そうではありません。神が最も怒られるのは、権力者が弱い人々を踏みにじることに対してです。ゼカリヤ書に「万軍の主はこう仰せられる。『正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。』それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。」(ゼカリヤ7:9-12)とあります。神は聖書のいたるところで「やもめ、みなしご、在留異国人の神」と呼ばれていますが、神の怒りは、神に身を寄せる者たちを守るためのものでした。人間の怒りは自分を守るための怒りですが、神の怒りは、他者を守るための怒りです。神の怒りは、人間の怒りのように自己中心的なものではなく、正義と愛にもとづいています。
また、人間の怒りは、多くの場合、人間の不完全さから、また、その不完全さを正しく満たしていないことから来ています。劣等感のある人、孤独をいやされないでいる人、不道徳な生活をしている人は、怒りにとらわれやすいと言われます。心理学者たちは「怒りとは、自分の価値、根本的な必要、基本的な確信を守ろうとする意図である。」と定義していますが、神から与えられている自分の価値を正しく受け容れていない人は、必要以上に人の目を気にし、人から誉められようとして、誤った方法で自分を満たそうとするのです。そして、その結果、賞賛の言葉をもらえないと、怒りの感情をいだいてしまうのです。神とともに生きる時、私たちは孤独をいやされるのですが、それをしないで、他の人々の関心だけを求めている人は、人がいつも自分をかまってくれないと、そのことで恨みを抱いてしまいます。神によって自分の必要を満たしていない人は、間違った手段でそれを満たそうとします。そして、自分のしている間違ったことを隠しているために平安がなくなり、落ち着きを失い、小さなことに当り散らすようになるのです。何らかの罪を隠し持っている人にかぎって、他人の失敗を、すぐに咎目立てようとします。人の罪を非難することによって、自分の間違った生活や罪から目をそらそうとしているのです。人の怒りというものは、このようにさまざまな複雑な心の動きから出てくるもので、簡単には説明できないものですが、それが、人間の不完全さから来ていることは確かです。自分の必要が満たされない時、人は怒りを覚えるのです。しかし、神は完全なお方で、神の怒りは、けっして、人間のように、不完全さから出てきたものではありません。完全な神は、この世界に完全を求められ、神の完全さを損なうものに対して怒られるのです。神は、不完全であるから怒るのではなく、完全であるから怒るのです。神を、悲しみも怒りもない、機械のようなお方と考えるのは、正しくありませんが、さりとて、人間のように、怒りにコントロールされて後先が見えなくなるようなお方であると考えるのも間違っています。神を神として、正しく知る時、「神の怒り」が私たちに教えようとしていることを正しく理解することができます。
二、神の怒りと神のさばき
ギリシャ語の新約聖書では、神の「怒り」も、人間の「怒り」も同じ言葉を使っていますが、英語では、神の「怒り」には "wrath" を使い、人の「怒り」には "anger" を使っています。それは、とても賢明なことで、神の「怒り」と人の「怒り」とは根本的に違っていることを教えてくれます。「神の怒り」は、審判者としての怒りで、「神の怒り」は、常に、神の「裁き」と結びついています。
ローマ1:18に「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」とあります。「天から啓示されている」というのは、17節に「福音のうちには神の義が啓示されている」というのと対をなす表現です。17節の「福音のうちに」に対して18節の「天から」が、17節の「神の義」に対して18節の「神の怒り」が対比されています。17節の「神の義」というのは、キリストを信じる信仰によって私たちが正しいものとされること、つまり、神の救いのことを言っています。この救いは、福音、つまり、イエス・キリストについてのメッセージの中に示されており、人は、この福音に耳を傾け、それを受け容れることによって救われるのです。人は、福音を信じる信仰によって救われるのであって、この福音は、あらゆる民族に、全世界に宣べ伝えられなければならないのです。18節のはじめに「というのは」とあるのは、なぜ福音が全世界に宣べ伝えられなければならないかということへの答えがこの部分にあるからです。「神の怒りが天から啓示されている」というのは、罪は神によってかならず裁かれるということが、人類の歴史を通して、また、全世界の人々に、神が明らかに示してこられたことであって、それは、誰でも知っていることがらであるという意味です。太陽の光のもとにすべてがあきらかになるように、神の目には、すべての人の行いも、その心も明らかです。太陽の光とともに、紫外線などが降り注がれているように、神の怒りもまた、罪を犯している人々に降り注がれています。全人類が罪を犯しているなら、どの国の人々もひとしく神の怒りのもとにあります。全世界が神のさばきを受けなければならないからこそ、救いのメッセージ、福音もまた、全世界に伝えられなければならないのです。これが、この部分の論旨です。
罪が神の怒りの対象であり、神の裁きをもたらすことは、神の民であるユダヤ人だけにではなく、他の民族にも知らされていました。それは、神の民が選ばれる以前から、どこに住む人によっても認められてきたことでした。古代の人々は、罪の赦しのためにさまざまな儀式をし、神の怒りをなだめるためにさまざまな犠牲をささげてきました。そうしたものは、罪の赦しや神との和解をもたらすものではありませんでしたが、罪の赦しと、神との和解を待ち望ませるものでした。「神の怒り」という概念は、人々に、罪とその結果がいかに深刻なものであるかを教え、キリストの救いに対する心備えをさせたのです。
ところが、現代は、「神の怒り」そのものを否定する時代になりました。現代人が、神から離れ、キリストの福音に耳を傾けようとしないのは、「天から啓示されている神の怒り」を無視しているからです。「神の怒り」を無視することによって、聖書の中から「神の怒り」という言葉を消し去ろうとしています。それは、道路の終点が行き止まりで、しかも断崖絶壁になっているのに、通行止めのガードレールを取り外し、「この先行き止まり、断崖絶壁」と書いた標識を取り外しているようなもので、危険、きわまりないことです。たとえ、人々が神の怒りや神の裁きということについて考えたくなくても、事実を事実として知らせることは重要なことです。親は、「火に手を伸ばしたらやけどをする。」「刃物を触ったら傷がつく。」などということを、子どもに教えます。小さい子どもは、熱い思をしたり、危ない思いをすることによって、両親がしてはいけないと言ったのには、ちゃんとした理由があるのだということを、体験的に理解し、反射的に熱いものや危ないものから避けるようになります。子どもが大きくなって、自分でお金を使ったり、どこかに出かけたりできるようになった時には、親は、与えられたお金を何に使うか、どこに行って何をするかは自由であっても、自分のしたことには必ず結果が伴うということを言ってきかせます。親は子どもに、成り行きでものごとをするのではなく、よく考えてものごとを選択するようにと教えます。それは、人間には選択の自由は与えられていても、選択した結果からの自由は与えれていないからです。私たちは、自分が選択したことの結果から逃れることはできません。それで、私たちは、子どもたちに、間違った選択をしたら、どんなに惨めな結果になるかということを諭し、正しい選択をするようにと教えます。神も同じように、私たちに、罪とその結果を真剣に考えるようにと、教えておられます。罪を犯し続け、それを悔い改めないなら、かならず「神の怒り」が臨むと、私たちに警告しておられます。エペソ5:5-6に「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―これが偶像礼拝者です。―こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」(エペソ5:5-6)とあり、罪の結果は「神の怒り」であると教えられています。聖書が「神の怒り」と言うとき、それはたんなる言葉だけのものではありません。英語の聖書では人の怒りは "anger"、神の怒りは "wrath" と訳されていると言いましたが、英語では、"wrath" の方が "anger" よりももっと強い意味があります。"wrath" は「激しい怒り」「満ち満ちた怒り」あるいは、「積年の恨み」などと訳されるほどです。ヨハネの黙示録には、この「神の怒り」が「神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒」(黙示録14:10)「神の激しい怒りの大きな酒ぶね」(黙示録14:19)「永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢」(黙示録15:7)などという言葉で表現され、その厳しさ、激しさが描写されています。神の前にどのような態度であっても、どのように生きたとしても、その結果が同じであるはずはないのです。罪と罪深い生活には「神の怒り」が臨むのです。
しかし、私たちは、この来るべき「神の怒り」から、キリストによって救われています。ローマ5:9に「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」とあります。どんな儀式も、動物の犠牲も、また、私たちの善行や、奉仕活動も、私たちの罪を赦し、罪を償い、「神の怒り」から救うことはできません。ただイエス・キリストと、キリストが十字架で流された血潮だけが私たちを「神の怒り」から救うのです。私たちに出来ることは、自分の罪を言い表わして悔い改め、信仰によって罪の赦しときよめをいただくことです。これが、聖書が語っている福音であり、このメッセージを取り除いてしまったら、それは福音でなくなってしまいます。もし、私たちが、自分の罪を自分でなんとかできると考えているなら、その人は、「神の怒り」を心から恐れているとは言えず、したがって、「神の怒り」から救い出してくださったキリストの恵みがどんなに大きなものかを理解しているとは言えないのです。「神の怒り」を真剣に受け止める者だけが、その怒りから救い出してくださるキリストの救いの恵みの大きさ、豊かさを知ることができるのです。
ジョナサン・エドワーズといえば、1734年から起こったアメリカのリバイバル、また、1740年から起こった大覚醒運動(Great Awakening)の指導者として知られている人ですが、彼は、1741年に、「怒れる神の御手の中にある罪人」という説教をしています。それは、申命記32:35の「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」ということばに基づいたものでした。ジョナサン・エドワーズは、「生まれつきのままの人は、神の御手によって、地獄の穴の上にかざされている。」と語り、「ですから、みなさん、だれでもキリストから離れている人は、今こそ目覚めて、神の怒りから逃れて、主のみもとに来なさい。」と勧めました。この説教によってニューイングランドに霊的覚醒がもたらされたのです。「神の怒り」を思いみることがリバイバルにつながったのです。ヘブル12:28-29に「私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」とあります。神を「焼き尽くす火」として覚えること、「神の怒り」を正しく受けとめることによって、私たちは、神の前に、慎み深く生き、神に喜ばれる賛美と礼拝をささげることができるようになります。A・W・ピンクという神学者は「われわれが神の怒りについて瞑想する心の備えがあるか、それを嫌うかによって、われわれの心がどれほど主に向けられているかが、はっきりとわかるのである。」と言っています。「神の怒り」を思いみることによって、一時的にこころが乱れるかもしれませんが、やがて、それは、私たちを真実な信仰に導いてくれるでしょう。そのことが神への恐れと慎みとなり、神に喜ばれる奉仕となって実を結ぶように、そして、ジョナサン・エドワーズの時代のようなリバイバルへとつながるようにと、心から願います。
(祈り)
聖にして義なる神さま、私たちはみな「生まれながら御怒りを受けるべき」者たちでした。しかし、あなたは、「滅ぼされるべき怒りの器」をあわれんで、イエス・キリストによって、「あわれみの器」として造り変えてくださいました。この神の忍耐や寛容を思う時、私たちは、あなたを賛美し、礼拝せずにはおれません。また、私たちの忍耐を失わせるようなこの世で、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」とのみことばを思い起こし、忍耐と寛容のうちに生きることも教えられます。多くの人々が、天から啓示されている「神の怒り」のもとにさらされています。人々は、「神の怒り」を無視し、「神のさばき」を否定しょうとしますが、良心の呵責と、不安と、混乱の中にあります。こうした人々に、福音のうちに示されたあなたの救いあかしすることのできる私たちとしてください。救い主キリストの名によって祈ります。
6/12/2005