7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
7:10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
7:11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
7:12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」
一、主の祭壇で
アメリカでは、5月のメモリアルデーが亡くなられた方々を覚える日ですが、ヨーロッパでは、11月1日の All Saints Day や2日の All Souls Day に亡くなられた方々を偲びます。ドイツなどでは、アメリカのメモリアルデーと同じように、11月1、2日にお墓をきれいに飾る風習があるそうです。
初代教会では、毎週の礼拝が、亡くなられた方を覚える場でした。迫害の時代、教会は毎週のように殉教者を出しました。先週までいっしょに礼拝していた仲間が、今週の礼拝ではもう姿を見ることができないのです。それで初代教会では、聖餐で主の死を覚えるとき、同時に、主にあって亡くなられた方を思い起こしました。聖餐のテーブルの下に、亡くなった方の遺していったものを納めたりもしました。
ほとんどの教会には、礼拝堂の正面、十字架のもとに聖餐のテーブルが置かれています。どれもみな同じ形、同じ大きさで Do This In Rememberance Of Me(「わたしを覚えてこれを行いなさい」)とのイエスの言葉が刻まれています。聖餐のテーブルの形や大きさは、じつは、棺の形と大きさなのです。それはイエスが「死んで葬られた」ことを表わし、それを覚えるためのものです。教会は、イエスの死を覚えるとき、その聖餐のテーブル、祭壇で、イエスのために死んだ人たち、イエスにあって死んだ人たちを覚えたのです。
アウグスティヌスの母モニカのことは、皆さんもよくご存知でしょう。アウグスティヌスは母から信仰を伝えられたにも関わらず、それに逆らい、放蕩の生活をし、他の宗教に走りました。母モニカは息子のために毎日涙にくれる日でした。そのモニカを励ましたのが、「涙の子は滅びない」ということばでした。そのことばのとおり、アウグスティヌスはミラノの司教アンブロシゥスに導かれて、回心し、387年のイースターにバプテスマを受けました。母モニカの涙の祈りが聞かれたのです。アウグスティヌスは今までの生活をすべて精算し、母とともに故郷に帰る決心をし、ミラノからローマに向い、ローマ近郊のオスティアという港町でアフリカへの船を待っていました。オスティアに着いて数日後、モニカは病いに倒れ、8月27日、その生涯を閉じました。アウグスティヌスの回心とバプテスマを見届けてから数ヶ月後のことでした。
アウグスティヌスはじめ、まわりの人たちは、モニカが亡くなったらどこへ葬ろうかと話していました。アウグスティヌスは亡骸を故郷に持ち帰りたいと願っていました。それを耳にした母モニカはアウグスチヌスに「私はどこに葬られてもかまいません。私たちは主の祭壇で会えるのですから」と語りました。「主の祭壇で会う。」このことばは、礼拝が地上のものだけではなく、天につながっていて、先に天に帰った人々や天使たちとともに、天におられるお方に賛美と感謝、栄光と誉れを献げるものであることを教えています。
この世の戸籍では、亡くなった人の名前は、線を引いて消されていきます。しかし、教会の名簿は違います。亡くなられた方の名前は「召天会員」としていつまでも残るのです。日本のあるホーリネス教会を訪ねたとき、「召天者記念の部屋」があって、そこに、その教会で亡くなられた方のお名前が壁に記名されているのを見せてもらいました。歴史のある教会では、召天会員のほうが、地上の会員よりも多いかもしれません。でもそれは決して寂しいことではなく、多くの方を天に送った教会は、それだけ、天に近い教会となっているのだろうと思います。天を意識し、天を目指す教会になればなるほど、地上での使命を良く果たすことができることでしょう。
二、天の教会
ヘブル人への手紙に「天に登録されている長子たちの教会」(ヘブル12:23)とありますが、このことばは、教会が地上だけでなく、天にもあることを教えています。教会は、天と地の両方にあるのです。地上の教会は、建設中の教会です。まだまだ未完成です。しかし、天の教会は、完全なものとされた栄光の教会です。地上では、真理が曇らされたり、罪があったり、憎しみがあったり、争いがあったりします。教会は、この世の罪と闘うだけでなく、みずからの罪とも闘わなければなりません。失敗もあれば、分裂もあり、不完全です。しかし、天の教会は、そうした闘いに勝利した教会です。天に罪や憎しみや分裂があるわけがありませんから、天の教会は完全です。
このことは昔から、Church Militant(Ecclesia Militans)と Church Triumphant(Ecclesia Triumphans)という言葉で表わされてきました。日本語で言えば「闘う教会」と「勝利の教会」です。地上の「闘う教会」は、いつでも天の「勝利の教会」を見上げて、励ましを受け、力を受けてきました。
黙示録は天の教会について、「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」(14節)と言っています。天の教会のメンバーは、地上での苦しみに耐え、闘いに勝利した人々なのです。15−17節には聖書の中で最も慰めに満ちたことばがしるされています。
彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。天の教会は闘いに勝利し、神の完全な守りと安息の中にあります。黙示録のこのことばは、迫害の中にあった初代の教会をどんなに励まし、慰めたことでしょうか。たとえ迫害がなくても、生きる日の限り、私たちの生活には様々な苦しみや闘い、思い煩いや悩みがついてきます。その中には、神を信じるゆえの苦しみや悩みもあります。世の中の流れに合わせていればそんなに葛藤はないでしょうが、信仰を貫いて曲がった時代をまっすぐに生きようとすれば、どこかでぶつかるのは当然です。また、自分の思いではなく主のみこころを求めるがゆえの葛藤も起こるでしょう。しかし、地上でのそうした苦しみや闘いは無駄にはなりません。それは天で勝利にかわり、報いとして安息が与えられるからです。
ヘブル12:1にも天の教会のことが記されています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあります。「雲のように私たちを取り巻いている」証人というのは、天の教会のメンバーを指しています。使徒信条で「我は…聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と言うとき、それは天の教会と地上の教会のつながりを言い表わしています。
Samuel Stone が作り、世界中で愛唱されている The Church's One Fundation という賛美もこのことを歌っています。その四節にこうあります。
この世とあめにわかれ住めど私たちも、この賛美のように、礼拝ごとに、天の教会を仰ぎ見て、それによって、天に帰る日に備えたいと思います。
みたみはきよきかみにありて
ともにまじわりともに待てり
キリスト・イエスの来たる日をば
三、天への備え
やがて、私たちも天の教会に加わる、そのために必要な備えは何でしょうか。第一に、天に生まれることです。イエスは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)と言われました。日本で生まれた者がアメリカの市民になるには、沢山の書類を書いて、経歴をいろいろと調べられ、試験を受け、宣誓をしなければなりません。しかし、もしアメリカで生まれていれば、そんなことは何もしなくても、その人は生まれたときからアメリカ市民です。そのように私たちも天で生まれれば天の市民です。
では、どうしたら、天に生まれることができるのでしょうか。それは、ヨハネ1:12に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあるように、イエス・キリストを神、また主として信じ、受け入れることによってです。天の市民となるだけでも素晴らしいのですが、神の御子イエスを信じる者は、一般の市民という以上に、天の王の子ども、ロイヤル・ファミリーとして生まれ、天の栄光のすべてを受け継ぐのです。信仰によって神の子どもとされるという以上の恵み、特権はこの世にはありません。あなたはこの特権をすでに受けているでしょうか。
第二に、天の市民とされた者たちは、神から与えられた使命を果たすことによって、天に備えます。キリストを信じる者は、神によって天で生まれたのですが、ちょうど、神のひとり子イエスが父のもとからこの世に遣わされたように、天から地に、使命を与えられて遣わされているのです。その使命とは、キリストの証し人となって、誰かをキリストのもとに導くことです。真実なキリスト者は、それを果たさないでは、天に帰れない、そんな思いを持っています。母モニカが息子のアウグスティヌスをキリストのもとに導いてから天に帰ったように、私たちも、与えられた使命を果たしてから天に帰れますようにと、祈るのです。
第三に、私たちは神の子どもらしく成長することによって天に備えます。イエス・キリストを信じる者を神の子どもとして生んでくださったお方は、神の子どもたちが、神の子どもらしく成長していくことを願っておられます。赤ちゃんがいつまでたっても歩けない、ことばを話せないしたら、誰でも心配します。そのように神も、神の子どもたちが、いつまでも神のみこころのうちを歩むことができないでいたり、神のことばを自分のものにできないでいると、とても悲しまれることでしょう。私たちも成長して、神に喜ばれたいと願っています。もちろん、「成長させたのは神です」(コリント第一3:6)とあるように、成長の力は神から来ます。しかし、その力を受け取るのは信仰によってですから、私たちも信仰によって成長を求めるのです。そして、求める者には与えられるのです。
天の教会で神の前に立っている人々はみな「白い衣を着、しゅろの枝を手に持って」います。「しゅろの枝」は、神への賛美を表わし、「白い衣」は霊的なきよさ、ホーリネスを表わします。初代教会では、バプテスマを受ける人たちは、アルブと呼ばれる亜麻布の白い服を着ました。アルブは、バプテスマによって、罪の赦しときよめが与えられることを表わしています。けれども、きよめは、バプテスマの時で終わるのではありません。そこからはじまるのです。色や柄のついた服は汚れが目立ちません。しかし、真っ白な服は汚れやすいので、汚れないように注意しなくてはいけませんし、汚れたらすぐにきれいにしなければなりません。そのように、私たちは、バプテスマによって与えられたきよめを保ち、その後の歩みの中で白い衣を汚すようなことがあれば、いつもそれを洗って、白くしていなければなりません。
では、どうしたら、それを白く保つことができるのでしょうか。答えは黙示録7:14にあります。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」人々の白い衣は「小羊の血」、つまり、イエス・キリストが十字架の上で流された贖いの血によるものでした。神の前に立つ人々の中には、殉教者もいたでしょう。神からの使命を並外れた仕方で達成した人もいたでしょう。自分をきよめるために、人並みならない努力をした人もいたでしょう。しかし、そうした努力も、大きな働きも、殉教の血でさえも、それがその人をきよめたのではなく、ただ「小羊の血」だけが人をきよめるのです。努力も、働きも尊いものです。まして、殉教は、神にも人にも覚えられるものです。しかし、そうしたものも、「子羊の血」、キリストの贖いの血が無ければ、決して人を救い、きよめ、天に導き、神の前に立たせることはできないのです。罪の赦しも、きよめも、イエスの十字架から流れ出ます。イエス・キリストは天において、輝く栄光のうちにおられる王であるはずなのに、黙示録は、イエスを常に「小羊」として描いています。それは私たちの救いが、イエス・キリストの十字架にあることを、私たちが忘れないでいるためです。天でもイエス・キリストを「子羊」と覚えるとしたら、この地上ではなおのことではないでしょうか。
聖餐は、イエス・キリストを「神の小羊」として覚える最高の時です。私たちは日々の祈りの中で、自分の罪を認め、イエス・キリストの贖いによる赦しときよめを願い、それを受け取ります。しかし、最高の祈りである聖餐のときには、私たちの罪をきよめる「子羊の血」を手に取って受け取り、それを味わうことができるのです。バプテスマによって始まったきよめは、聖餐によってさらに強められ、成長していくのです。
このきよめ、ホーリネスを持たない限り、人は神の前に立つことはできません。ホーリネスは神の前に立つことができるために、求められる第一のものです。それはまた、すべてのたましいが求めている第一のものでもあるのです。どの人にも、自分は決して聖なる神の前に立つことができない、汚れた者であるという認識があります。それでいて、聖なる神を慕い、自分も聖なるものとされて、聖なる神とまじわりたいという願いがあります。どんなに罪にまみれた生活をしている人にも、その心の奥底には聖なるお方への求めがあり、きよくなりたいという渇きがあるのです。ですから、人は、「子羊の血」によってきよめられることによって、神に受け入れられるばかりか、その人の心にもほんとうの満足を得ることができるようになるのです。
地上の教会は天を目指す巡礼の教会です。礼拝のたびごとに天の教会と出会い、聖餐という糧を受けて、その旅を続けるのです。天で新しく生まれることによって、与えられた使命を果たし、ホーリネスにおいて成長することによって、天に備え、その旅を続けましょう。
(祈り)
主なる神さま、あなたはイエス・キリストによって天を開き、それを私たちに見せてくださいました。私たちはイエス・キリストを信じ、天への希望を与えられ、日々、天に向かって生きている者たちです。キリストへの信仰と、天への希望をさらに強められ、天に向かって一歩一歩近づくことができますよう、助け、守り、導いてください。私たちの愛する主の御名によって祈ります。
11/11/2012