5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。
一、天の礼拝(4章)
イエス・キリストはヨハネに「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ」(1:16)と言われました。このように、ヨハネの黙示録には「今ある事」と「この後起こる事」の二つが書かれています。ここで「今ある事」とはローマ皇帝ドミティアヌスがアジア州の教会を迫害したときのことです。迫害の下で、キリスト者たちは、誰しも、「この迫害はいつまで続くのだろう。これから教会はどうなっていくのだろう。世界はどこに向かっていくのだろう」と考えたことでしょう。それで、キリストは「今ある事」だけでなく、「この後起こる事」をもいくつもの幻によって示されました。その幻のひとつが、4章にある「天の礼拝」です。
ヨハネは「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう」(4:1)との声を聞いて、天に引き上げられました。今起こっている迫害の意味を知り、それがこれからどうなっていくのかについて、神のみこころを知るためには、ヨハネは天に場所を移し、そこからものごとを見る必要がありました。神の御座から世界を見る、神の観点でものごとを考えるということです。
私たちは、このときのヨハネのように迫害には遭ってはいませんが、終息のきざしの見えないパンデミックと、それに関連した様々な問題に直面しています。政治や経済、社会や家庭、からだの健康と心の健康などに、かつてなかったような影響が押し寄せてきています。私たちも、なぜこんなことが起こり、それがいつまで続くのだろうという思い煩ってしまいます。しかし、人間の知恵だけでさまざまに考えても、私たちには、明日のことどころか一歩先のことも分からないのです。そんな時、私たちが行くべきところは、やはり、「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」、つまり、過去も、現在も、未来も、すべてを知っておられる神のみもとです。
さて、天には御座があり、その御座近くには四つの生き物がいました。それらはそれぞれ異なった顔を持っていましたが、これは神が作られた野生の動物、家畜、人間、そして空の鳥といった被造物のそれぞれの世界を代表しています。顔は違っていますが、姿は同じで、六つの翼を持っています。これはイザヤ書で「セラフィム」(イザヤ6:1-2)、エゼキエル書で「ケルビム」(エゼキエル10:1)と呼ぼれているのと同じ姿です。四つの生き物は神の側近くに仕える特別な天使だと思われます。彼らは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方」(4:8)と、御座におられる方を絶えず賛美しています。さらに神の御座のまわりには24の座があって、そこに24人の長老たちがそれぞれ白い衣を着、金の冠をかぶっていました。彼らは位の高い天使たちであると思われます。彼らには特別な務めがあって、そのための権威と栄誉を授けられていました。しかし、自分たちの座から降りて、中央にある神の御座にむかってひれ伏し、自分たちの冠をささげ、こう賛美しました。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(4:11)あらゆる栄誉、栄光を神にお返しし、神のみを聖なるお方、主、またいと高きお方としてあがめる。ここに礼拝の姿があります。
礼拝は「天の窓」と呼ばれます。キリストを信じる者たちには、地上にいながら、礼拝という窓を通して天を見ることが許されています。四つの生き物が歌っている「聖なる、聖なる、聖なるかな」の賛美は、私たちも地上の礼拝で歌います。私たちの歌う賛美は、天の賛美ととけあって、神のもとに届くのです。私たちは、この天の礼拝を意識しながら神を礼拝することによって、天から、つまり、神の観点からこの世界を見、自分の人生を見、生活を見ることができます。そして、この世界に対する神の計画や自分の人生に対する神のみこころを知るようになるのです。同じビルディングにいても、1階の窓から見える風景と、2階、3階、さらには数10階という高い階から見る風景とではまるで違います。高く上れば上るほど、広い風景を見ることができます。私たちが日曜日の礼拝を繰り返すのも同じです。礼拝を繰り返すごとに、私たちはより高い階に上っていき、より神の観点からものごとを見ることができるようになります。そして、身のまわりに起こる様々なことがらに、いたずらに振り回されることなく、それらのことがらの意味を知り、目的を知って、前進していくのです。
二、小羊イエス(5:1-7)
5章では、「この後、必ず起こる事」が記された巻物が七つの封印で封じられ、その巻物を開くことのできる者も誰もいなかったとあります。栄光に満ちた天に涙はふさわしくないのですが、ヨハネは、せっかく天に引き上げられたのに、神のご計画が封じられてままで示されないことを嘆いて激しく泣きました。しかし、天の長老のひとりが言いました。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(5:5)「ユダ族から出たしし」は創世記49:9-10からの言葉です。「ユダは獅子の子。…王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」とあります。そして「ダビデの根」はイザヤ11:1の「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」から来ています。どちらも、ユダヤの人たちやキリスト者の間でよく知られている「メシア預言」で、イエス・キリストのことを言っています。
ヨハネが涙の目を拭うと、「小羊」が御座におられる方から巻物を受け取っているのが見えました。この小羊は、もちろん、イエス・キリストです。イエス・キリストは天の長老によって「ユダ族のしし」と呼ばれているのに、その姿は「小羊」です。「しし」、ライオンは「百獣の王」と呼ばれるように、最も強い者を表します。すべてのものの王者であるイエス・キリストが「ライオン」に例えられるのは不思議ではありません。ところが、イエス・キリストは同時に、動物の中で最も弱いもの、「小羊」に例えられています。ライオンにして小羊。この矛盾と思える例えでしか描けないお方、それがイエス・キリストです。
イエス・キリストは神の御子であるのに人となられました。人としても、ダビデ王の子孫として本来なら王宮にお生まれになるはずなのに、家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かせられました。そしてエルサレムから遠く離れたガリラヤのナザレの村で大工の子として過ごされたのです。イエスはあらゆる点で、この世では、小羊のように、小さく、弱く、低くなられたのです。そればかりではありません。イエスは「ほふられた小羊」となられました。「ほふられた小羊」とは、神殿で人の罪を背負い、その身代わりとなって、祭壇の上でほふられる小羊のことです。イエスは、私たちの罪を背負い、十字架の上で血を流し、その命を献げてくださいました。それで、イエス・キリストは「小羊」、しかも「ほふられた小羊」と呼ばれているのです。
聖書は、救い主が「ほふられた小羊」となられることを預言していましたが(イザヤ53章など)、その預言を成就なさったのはイエス・キリストです。そして救いの預言を成就なさったお方が、「この後、必ず起こる事」、つまり、救いの完成を明らかにすることができるのです。神の手にある巻物の七つの封印の一つひとつは、小羊の血によって溶かされ、神のご計画の扉は十字架の鍵で開かれたと言ってよいでしょう。「ほふられた小羊」イエス・キリストこそ、世界の未来を切り開くお方、私たちの将来を導くお方なのです。
三、小羊への賛美(5:8-14)
5章の後半には「小羊への賛美」が書かれています。小羊が巻物を受け取ったとき、四つの生き物と長老たちは竪琴と、金の鉢に入った香を携えて小羊の前にひれ伏しました。「竪琴」は賛美を、「香」は祈りを表します。8節に「この香は聖徒たちの祈りである」と説明されているように、地上の聖徒たちが迫害の中で神を見上げて祈っている祈りは、天に、神と小羊に届いているのです。古代の礼拝では実際に香を焚いて礼拝しましたが、その煙が高く上っていくのを見て、信仰者たちは、祈りは天に届く、神は祈りに聞いてくださっていることを確信したことでしょう。
天の長老たちはこう賛美しました。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(10)これに加えて、「万の幾万倍、千の幾千倍」という数のみ使いたちの大合唱も起こりました。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(12節)さらに、「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」、つまり全被造物もまたこう賛美しました。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」(13節)そして、被造物を代表する四つの生き物が「アーメン」と言って賛美がしめくくられました(14節)。天のあらゆるものが「小羊」を賛美しています。地上のあらゆる被造物も、「小羊」に栄光をささげています。この「小羊」によって贖われた、神の民また祭司とされた私たちが、子羊に「力、富、知恵、勢い、誉れ、栄光、賛美」を捧げずにはおれないのです。
天使たちは、小羊イエスを賛美し、イエス・キリストの贖いのみわざをほめたたえました。しかし、天使たちは、小羊の贖いそのものを体験することはありません。小羊であるイエスがほふられたのは、人間の罪を赦し、人を罪の束縛から解放するためであって、罪のない天使たちには贖いは必要がないからです。私たちはイエス・キリストの贖いを身を持って体験しているのですから、天使たちに勝って小羊イエスに賛美を捧げることができるはずです。
7章に「十四万四千人」の人々の幻がありましたが、この「十四万四千人」が14章で再び登場して天の長老たちの前で「新しい歌」を歌いますが、その歌について「しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった」(14:3)と言われています。この「新しい歌」、小羊に捧げる賛美は、子羊の血によって罪の赦しを受け、罪の結果からの癒やしを受けた者だけが歌うことができるからです。天の礼拝には、私たちの、そのような賛美が必要なのです。私たちの罪のためほふられた小羊を、喜びと感謝と愛をもって賛美する、そのような賛美が天に必要です。そのような賛美を天に向かって捧げましょう。天使たちの賛美と共に天の御座に私たちの賛美を捧げましょう。
(祈り)
聖なる、聖なる、聖なる主よ、あなたは、どこまでも聖なる方であるのに、私たち罪ある者をいつくしみ、あなたの御子を「世の罪を取り除く神の小羊」として世に遣わし、私たちを罪から贖い出してくださいました。小羊イエスをほめたたえながらこの週を過ごし、次の礼拝に、再び天を見上げて集う私たちとしてください。神の小羊、イエス・キリストのお名前で祈ります。
8/22/2021