ほふられた小羊

黙示録5:6-12

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5:6 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
5:7 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
5:8 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」

 一、キリストの苦難と栄光

 ピリピ2:6-11にこうあります。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」これは初代教会で実際に歌われていた賛歌で、前半はキリストの苦難を歌い、後半はその栄光を賛美しています。キリストの苦難を歌った賛美の中に、キリストの栄光が歌われていると言ってよいでしょう。

 黙示録5章にも「キリスト賛歌」があります。「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう。」(9-10節)「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」(12節)こうした賛美も、初代教会の礼拝で実際に歌われていたことでしょう。現代もイエス・キリストを「小羊」と呼んで賛美する歌がたくさん作られていますが、それは初代教会にすでにあったのです。

 黙示録では、キリストは栄光に輝く勝利の主として描かれています。それなのに、キリストは「ほふられた小羊」と呼ばれています。キリストの栄光をたたえる賛美の中にキリストの苦難が歌われているのです。聖書は、キリストの苦難の中に栄光を見、栄光の中に苦難を見ています。それは、キリストの苦難と栄光とが切り離すことができないからです。

 主イエスは復活ののち、弟子たちに、十字架に釘付けされた釘のあと、槍で貫かれた傷のあとをお見せになりました。イエスの復活のからだ、栄光のからだに、なお、苦難の傷跡が残されているのです。やがて、天で主に見えるとき、その傷あとを見ることができることでしょう。そして、その傷あとを見て、それがわたしたちの救いのためであったと、涙を流して感謝するようになるでしょう。初代教会は日曜日に主の晩餐を守ってきました。キリストの復活を祝う日にキリストの死を覚えたのです。

 かつて、ある著名な伝道者が、「十字架のメッセージは、暗くて、つまずきになるから、それよりは、キリストの復活を語ったほうがよい」と言ったことがありました。しかし、それでは、だれひとり救われなくなります。十字架なしに人が救われることはないからです。十字架がなければ復活はありません。十字架のメッセージに耳を傾けない人は、復活のメッセージをも聞かないでしょう。そして、十字架のない復活のメッセージは、せいぜいスポーツの「敗者復活戦」を連想させるだけのものでしかないのです。ローマ4:25に「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」とあります。人は十字架と復活で救われると明確に書かれています。わたしたちはこの真理によって救われ、生かされています。ですから、どんなときでも、十字架と復活を証ししてやまないのです。

 二、わたしたちの苦難と栄光

 キリストの十字架は、わたしたちの罪のためでした。旧約時代、人々は祭壇に動物の犠牲をささげて、神に赦しを請いました。犠牲の動物は人間の罪を引き受け、その身代わりに死んでいきました。犠牲の動物の中で代表的なものは「小羊」でした。イエス・キリストが「小羊」と呼ばれるのは、イエスの十字架の死が、罪ある人間のための身代わりの死だったからです。それは、ユダヤでの宗教的なトラブルや、ローマ帝国の政治的なかけひきによって起こった、いわゆる「不幸な出来事」ではありません。キリストの十字架の死は、人の罪を赦し、人を罪からきよめる、贖いの死であったのです。キリストが「小羊」と呼ばれているのは、そのことを示すためです。

 では、イエス・キリストを信じたなら、どんな苦しみも、たちどころに消えてなくなるのでしょうか。いいえ、真の信仰者は、どんな苦しみによってもキリストから引き離されることはありませんが、キリストのために、キリストとともに苦しむ苦しみに与るよう召されているのです。パウロは「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒14:22)と言っています。キリスト者は「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている」(ローマ8:17)のです。キリストご自身が苦難を経て栄光に入られたように、キリストに従う者も、キリストと同じ足跡に踏み従うのです。キリストが引き受けてくださった苦しみが人を救うのに足らないとか、救われるためには、キリストが捧げた犠牲になお何かを付け加える必要があるということではありません。しかし、聖書は、キリストを信じる者もまた、キリストとともに苦しみ、自らを犠牲として捧げるのだと、教えています。

 しかし、こうしたことは、クリスチャンの間でも、よく理解されていません。それは、「救い」が誤解されているからだと思います。アメリカの教会の指導的な牧師たちは、アメリカの教会が “Feel good” ということを追い求めていると言っています。神は人を喜ばせてくれれば、キリストは人を安心させてくれれば、聖霊は人の気持ちを高揚させてくれれば、それでよいのだとしているというのです。聖書も自分にとって都合のよい部分だけをつまみ食いするようにして読み、真理の全体を受け入れていないと警告しています。キリストがわたしたちの罪を赦してくださるというメッセージは尊い福音です。しかし、それは、たんに「罪責感」から解放され、もう「罪」という嫌なものを考えなくてよいという心理学的なものではありません。 “Feel good” だけを求めていくなら、悔い改めることも、罪の赦しを願うことも、きよめを追求することも間違ったことになってしまいます。罪を犯してもそれを痛みとして感じないで、平気でいられることが救いなのでしょうか。いいえ。自分の罪と自分の無力を認め、それがほふられた小羊イエスの血によって赦され、きよめられることを信じて、主に信頼し、主に従うこと、それが救いなのです。

 日本でのことですが、8月12日、ひとりの容疑者が大阪富田林警察署から逃亡するという事件がありました。彼は、自転車で日本一周を目指しているサイクリストに化けて山口県まで逃げましたが、9月29日に捕まりました。彼が拘置所を逃げ出したのは彼にとって「救い」だったでしょうか。好きなように暮らした49日間が彼の「幸福」だったのでしょうか。いいえ、彼は、自分では自由になったと思っていても、本当はいつ捕まるか分からないという恐れの奴隷になっていたのです。彼にとっての本当の救いは、罪の刑罰を受け、償いをし、心を入れ替えて、正しい生活をすること以外にありません。「救われる」というのは、自分にとって嫌なものから逃げ出すことではありません。自分の闇と希望のない状態から、光と希望へと歩み出すことに他ならないのです。そして、それをしてくださるのがイエス・キリストです。

 三、犠牲と報い

 ですから、救われた者たちは小羊イエスを崇め、感謝するとともに、小羊にならって、自らをも神への捧げものとして差し出すのです。キリストの福音を証しし、伝えるために、自分の時間や努力を捧げるのです。いつでも、きっぱりと、そのことができればよいのですが、そうすることを妨げるものがあります。自分のことを優先させてしまうことや、安楽を求める気持ち、また、「うまくできなかったらどうしょう」という気持ちが働くこともあります。

 さまざまな妨げるものの中で、わたしたちを喜びの犠牲から遠ざける大きなもののひとつは「失望」です。「こんなに犠牲を払っているのに少しも報われない」という失望です。「報い」といっても、自分に返ってくる報いを期待しているわけではありません。時間を割いて、心をつくして福音を伝えても、相手がそれを信じることも、求めることもしないとき、「徒労に終わってしまった」という思いになります。なにより、福音に心を閉ざしている人の将来を思うと悲しくなってきます。そうしたことが失望となるのです。

 しかし、聖書は「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」(詩篇126:5)「善を行なうのにうみ疲れてはならない。たゆまないでいると時が来て、刈り取るようになる」(ガラテヤ6:9)と言って、「蒔いたものは、かならず、刈り取るようになる」と教えています。そのことについて、ひとつの実話をお話しましょう。

 皆さんは渕田美津雄という人をご存知でしょうか。元海軍大佐で、後にクリスチャンになり、伝道者になった人です。渕田さんが救われたのは、かって彼の部下だった人を通してでした。渕田さんは、その人がアメリカでの捕虜生活から解放されて帰ってきた時、彼に「捕虜になって、きっとひどい仕打ちを受けただろう」と同情して話したのですが、その人は「いいえ、そんなことは何一つありませんでした。わたしたちは、敵国人なのに、とても寛大に取り扱われました。とりわけ、その捕虜収容所に勤めていたひとりの美しいアメリカの女性は、わたしたちに心から、やさしく接してくれました。わたしは、不思議に思って、その人にわけを聞いてみたのですが、その女の人は、こう話してくれました。

 『わたしの父は、ジム・コベル(Jim Covell)といって、1919年に日本に宣教師となって行きました。しかし、日本が軍国主義になって、1939年に日本を追われ、他の宣教師と一緒にフィリピンのパナイ島の山奥に移り住みました。ところが、日本軍が宣教師たちを捕まえに来たのです。女性と子どもが日本軍に捕まえられたため、わたしの父は、他の十人の宣教師と一緒に日本軍のところに行って、「わたしたちは、戦闘員ではありません。日本にも、アメリカにもどちらにも加担するつもりはありません」と日本軍に説明したのですが、日本軍の答えは、「命令なので殺す」の一点張りでした。ついに、わたしの父も、他の宣教師たちも首をはねられて死んでいったのです。わたしは、わたしの父母が、命をかけてまで愛した日本人のために、できるだけのことをしたい、そう思って日本人捕虜収容所の勤務を志願したのです。』」

 それまで、アメリカにあだ討ちをすることしか考えてこなかった渕田さんは、大変ショックを受け、「どうしてそんなことができるのか」とかっての部下に聞きました。彼は、一冊の聖書を渕田さんに手渡して、「これが、その答えです。コベル宣教師の娘さん、ペギーさんのおかげで、わたしも、クリスチャンになりました」と言いました。こうして渕田さんもクリスチャンになったのです。

 コベル宣教師の殉教のことは一冊の小冊子に書かれました。その小冊子はこう結ばれています。「宣教師たちを殺した日本人の誰かが、彼らの立派な死に方を見て、いつの日にかキリストを信じるようにならないと、誰が断言できるであろうか。」この言葉のとおり、コベル宣教師の犠牲によって、ひとりの捕虜が救われ、その人を通して渕田さんが救われ、渕田さんを通して多くの人が救われていきました。コベル宣教師の犠牲は、その時は無駄に見えたかもしれません。しかし、それは大きな実を結ぶものとなりました。小羊イエスの犠牲を無駄になさらなかった神は、小羊イエスに従う者の犠牲をも、決して無駄にはなさらないのです。

 (祈り)

 父なる神さま、キリストがみずからすすんで犠牲の小羊となり、わたしたちのために十字架で死なれたことを感謝します。こののちの主の晩餐で、ほふられた小羊の犠牲が再現されます。主の晩餐によって、天の聖徒たちと共に、小羊イエスの栄光の中に苦難を深く想うことができますように。それによって、わたしたちの人生の苦難の中にも、栄光を見ることができますように。主イエスの御名で祈ります。

11/4/2018