3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
私は、テキサスにいたころ、さまざまな教会に出席しましたが、多くの教会で、メッセージの後に「招き」の時がありました。「招き」というのは、メッセージへの応答をうながすことで、多くの場合、イエス・キリストを信じたい人や、長い間教会生活から離れていて、もういちど神に立ち返ろうとする人、いやしや特別な問題の解決を求めている人たちが、会衆席から立ち上がって、ステージに進み出て、牧師に祈ってもらうことを言います。ビリーグラハムの集会などで、"Just As I am"(「いさおなきわれを」)の賛美とともに、何千人という人々が信仰の決心をして、スタジアムの観客席からフィールドに降りていくのを、みなさんも、テレビでご覧になったり、実際にその場にいて見ておられると思います。ビリーグラハム大会のような大きな集会でなくても、多くの教会では、礼拝で毎回「招き」の時を持っていました。私は、伝道集会など、特別な時には「招き」をしてきましたが、普段の礼拝で「招き」をしてこなかったので、あるアメリカの牧師に「どうしてそんなに毎回、招きをするのですか。」と尋ねたことがあります。すると、その牧師は「神が、主イエスが、そして、聖霊が常に、私たちを招いておられるのですから、私も、毎回、招きをするのです。」と言いました。私は、その時「なるほど」と思い、神がどのように私たちを招いておられるかを、聖書から調べてみることにしました。
一、神の招き
そして、気がついたことは、私たちが神を呼び求める以前から、神が私たちを呼び求めておられたということでした。
創世記第三章には、アダムとエバが罪を犯した時のことが書かれています。創世記3:8に「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。」とありますが、「そよ風の吹くころ」とは、おそらくは日暮れの少し前のことでしょう。アダム、エバは一日の働きを終え、神の声を聞き、神に語りかけるのを常としていたと思います。罪を犯すまで、人は、そのような直接的な神とのまじわりを持っていました。神の声を聞き、神の御顔を仰ぎ見ていたのです。ところが、罪を犯した人間は、「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。ちょうど親の言いつけに背いたこどもが親の目の届かないところに隠れようとするのと同じですね。しかし、神は、人間がどんなに身を隠しても、どこにいるかをご存知のお方です。詩篇139篇はこう言っています。「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。」(詩篇139:7-10)神は、アダムとエバがどこにいるかすでにご存知でした。それなのに、なおもアダムとエバに「あなたはどこにいるのか。」(創世記3:8)と呼びかけられました。この呼びかけは、罪を犯したアダムとエバを詰問するためというよりは、アダムとエバがこのことによってまったく神から離れていかないようにとの神の愛の呼びかけであったと、私は思っています。神が、神のもとから離れて行った者たち、いいえ、神に反逆している者たちに対してさえ、「帰ってきなさい。」と呼びかけておられることが、聖書に数多く書かれているからです。イザヤ31:6には「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。」とあり、イザヤ44:22には「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」とあります。神は、神に背いている者たちのためにも、赦しを用意して、「わたしのもとに帰れ。」と呼びかけておられます。イザヤ55:7には、「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」ともあります。エレミヤ3:12では、神に背いたイスラエルが、不倫の罪を犯して夫から離れて行った妻にたとえられています。神は、神の民を、夫が妻を愛するほどの愛で愛してくださったのに、イスラエルはその神の真実な愛を踏みにじったのです。けれども、神はなおも、イスラエルに「背信の女イスラエル。帰れ。…わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。…わたしは、いつまでも怒ってはいない。」と呼びかけておられます。
みなさんは、こどもの頃、何か悪いことをしてしまった後、父親や母親から名前を呼ばれ、ドキッとしたことがありませんか。たとえば居間にある花瓶を割ってしまって、それをそっとつなぎ合わせたままにして、自分の部屋に隠れている時、お花を生けようとやってきた母親から、「幸雄ちゃん、ちょっと来なさい。」などと呼ばれ、「しまった。見つかっちゃった。どう言い分けしようか。」とドキドキしながら自分の部屋から出て行ったという経験がありませんか。そんな時、父親や母親はこどもを叱り、罰を与えることでしょうが、だからと言って、それでこどもを憎んだり、斥けたりはしません。むしろ、言い訳けをしてごまかそうとする悪い考えを捨て、正直に自分の失敗を認めるようにと、こどもを教えさとし、こどもがお詫びをしたなら、それを赦すことでしょう。人間の父、母でさえそうなら、私たちの魂の親である神はなおのこと、その大きな愛で私たちを赦してくださいます。エレミヤ3:22に「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」とあります。神は、私たちの罪を赦すだけでなく、罪に向かっていく私たちの心をも造りかえ、いやすことのできるお方です。きよい神の前では、どんな小さな罪もいいかげんにしておくことはできませんが、あわれみ深い神にとって、赦し、いやすことのできないほどの大きな罪もないのです。私たちも、真剣に悔い改め、また、神のあわれみを信じて、神の招きにこたえましょう。エレミヤ3:22にあるように、「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」と申し上げて、神の招きに答えましょう。
二、キリストの招き
このように父なる神は私たちを招いておられますが、神の御子イエス・キリストも、「わたしのところに来なさい。」と私たちを招いていておられます。マタイ11:28-30で、主イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と語っておられます。ここで「疲れた人」とあるのは「疲れ果てた人」と訳すこともできます。「疲れた」という段階では、まだ元気を取り戻す可能性がありますが、「疲れ果てた」というのは、もう、力を使い果たして、自分ではどうにもならないという状態をさします。主イエスは、私たちが疲れ果ててしまった時も、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と優しく招いていてくださるのです。世の中には、疲れた人を元気にしてくれるものがたくさんあります。若い人ならディスコに行っておもいっきり騒いで元気を取り戻したり、年配の人ならカラオケを楽しんだりして、元気を取り戻すのかもしれません。しかし、世の中には「疲れ果てた人」をいやしてくれるところ、休ませてくれるところはないと思います。心身ともに疲れ果てた時は、やはり、主イエスのもとに行っていやされ、元気を取り戻すしかありません。イエスのもとにはいやしがあり安らぎがあります。どこに行っても休みを得られなかった人はいませんか。イエスのもとに来てください。主のもとに、ほんとうの休みがあります。
主イエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。「くびき」というのは、耳慣れない言葉ですが、これは、二頭の牛をいっしょに働かせる時、二頭の牛をつなぐために使うものです。牛の首にかける木なので「くびき」と呼ばれました。「イエスのくびきを負う」と聞いて、イエスのところに行けばどんな重荷もみな捨て去って、身軽るになれるのかと思ったのに、今度はイエスからくびきをかけられ、イエスの荷を負わなければならないのか、そうだったら、イエスのもとに行くのはやめよう、などと考ええる人があるかもしれません。イエスは私たちの罪を赦し、私たちの罪の重荷を取り去ってくださいました。しかし、私たちは、自分の罪が引き起こした結果については、それを背負わなければならないことがあります。また、同じ罪を犯さないために神からの訓練を受けなければならないこともあります。ほんとうの問題の解決は、背負わなくてはならない課題から逃避することではないのです。それでイエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われたのです。多くの人はイエスのくびきを重いもののように考えていますが、そうではありません。イエスが「わたしのくびきは軽い」と言われたように、イエスのくびきを負うことによって、かえって私たちの重荷は軽くなるのです。多くの人がそのような信仰の体験をしておられますね。考えてみてください。牛が一頭で荷物を引っ張るよりも、二頭で引っ張るほうがよほど荷が軽くなるではありませんか。ふつう、若い牛にはじめてくびきをかける時には、くびきに慣れた牛と組み合わせるそうです。そのことによって若い牛は、くびきに慣れた牛に導かれて、楽々と荷物を引っ張ることができるのです。「イエスのくびきを負う」というのは、私たちが自分ひとりで人生の重荷を引きずって疲れ果ててしまうのでなく、イエスとともに、イエスに助けられて、人生の重荷を担っていくということを意味しています。イエスは、重荷にあえいで疲れ果てているものの側に来て、「わたしがそのくびきの片方を負ってあげよう。」と言ってくださっているのです。私たちの罪の重荷、人生の重荷のすべてがおおいかぶさったあの十字架を背負ってくださったイエスに、あなたの重荷をまかせてみませんか。その時、私たちのたましいにほんとうの安らぎが与えられるのです。
三、聖霊の招き
第三に、聖霊も、私たちを招いておられます。イエス・キリストは「神のことば」と呼ばれていますが、御子イエスは、まさに神の招きのことばそのものであると言ってよいでしょう。しかし、そのことばも、それに耳を閉ざしてしまえば、私たちの頭の上を通りすぎて行くだけのものになってしまいます。神の招きが私たちの心にまで届くためには、父なる神の招き、御子イエスの招きとともに、私たちの心に迫ってくる聖霊の招きが必要なのです。
御子イエスは、父なる神と等しいお方ですが、御父から遣わされ、父なる神の栄光を表わす生涯を送られました。同じように、御霊も、御父と御子に等しいお方ですが、御父と御子から遣わされて、御子をあかしし、御子の栄光をあらわす隠れた働きをしておられます。それで、聖霊のお働きは見逃されやすいのですが、御父や御子だけでなく、御霊も、私たちに語りかけられるお方であると、聖書は教えています。旧約の預言はみな、聖霊が預言者たちに語りかけたものでした(ペテロ第一1:11)。新約時代の使徒たちも、御霊の語りかけを聞きました。伝道者ピリポがエチオピアからきた役人を乗せた馬車を見た時、「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」とピリポに語りかけたのは、御霊でした(使徒8:29)。使徒ペテロも、はじめて異邦人のところに行く時、「ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。」と言う御霊の声を聞いています(使徒10:19-20)。世の終わりのことについて、使徒パウロは「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(テモテ第一4:1)と預言しています。使徒パウロが「御霊が言われる」と言ったように、御霊が語られるのでなければ、どんな預言も虚しいのです。今朝の聖書、ヨハネの黙示録もまた預言の書物で、世の終わりのことを示していますが、この書物も、キリストの弟子ヨハネが「御霊に感じて」(黙示録1:10)書いたものです。御霊は、決して寡黙なお方ではありません。常に、私たちに語りかけておられるお方です。黙示録第二章と第三章は、七つの教会に対するキリストのメッセージですが、このメッセージを届けたのは、御霊であって、これらのメッセージはキリストのことばであるとともに、御霊のことばでもありました。それで、七つのメッセージのどれもが、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」ということばでしめくくられています。
ラオデキヤの教会に宛てられたメッセージには、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」(20節)とあります。「わたし」とは、イエス・キリストのことです。この「戸」とは教会の扉のことです。キリストは、なぜ、戸の外におられるのでしょうか。キリストは教会の内側におられるはずではないのでしょうか。キリストが教会の外に立っておられるのは、ラオデキヤの教会が、悲しいことに、イエス・キリストを締め出していたからです。教会の中心におられるべきお方が、教会の隅っこどころか、外にまで追い出され、教会であがめられるべきお方が、軽んじられていたのです。それでいて、ラオデキヤの人々は、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」(17節)と言って、自分のみじめさ、哀れさ、貧しさに気がついていませんでした。なるほど、彼らは、この世の富は持っていました。しかし、信仰の富は持っていませんでした。教会に大勢人があふれていたかもしれません。しかし、その中に主を愛する人がほとんどいなかったのです。そこには、立派な集会場所があり、整った「礼拝式」はあったでしょう。しかし、悔い改めて自らをささげる真心からの「礼拝」がなかったのです。なのに、主は、そんな教会に対しても、なお、その戸をたたいてくださっています。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。」(19節)と言って、彼らを「愛する者」と呼んでおられます。そして、「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(20節)と約束しておられます。ここで主が言われた「食事」というのは、「和解」の食事です。古代では、敵対していた者たちが和解する時、そのしるしとして一緒に食事をしました。教会の中にいながら、その心と生き方を主にささげるのではなく、主を知らない人々と何ら変わることなく、自己本位にものごとを考え、自己中心的に生きている者たちに対してさえも、主は、ご自分の方から和解を呼びかけてくださっているのです。しかし、この和解にあずかるためには、人間の側の応答が必要です。主は「わたしは…彼とともに食事をする」と言われただけでなく、「彼もわたしとともに食事をする」と言われました。主が招いておられる、主とのまじわりの食事に、私たちも、長い間閉ざしていた戸を開き、長く戸の外に立たせていた主を招きいれなければならないのです。
主イエスは、教会の外にいる人々に対しては、「わたしのところに来なさい。」と言われますが、すでにイエスを信じて教会の中にいる者たちには、「わたしを迎え入れなさい。」と、その心の戸を叩きます。そのノックの音は、決して、「コツ、コツ」という小さいものではなく、イエスは両手に満身の力を込めて、教会の戸を、そして、教会を形作っているクリスチャンの心の戸を「ドーン、ドーン」と叩いておられることでしょう。その戸を叩く音こそ、御霊の声、聖霊の語りかけです。私たちは、御霊の招きを拒まないように注意しなければなりません。ヘブル人への手紙は言っています。「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』」(ヘブル3:7)ヘブル人への手紙が「御霊が言われる」と書いていることに注意してください。「御霊が言われる」というのには、「神が言われる」という以上の重みがあります。「御霊が言われる」というのは、御霊をいただいているクリスチャンに語り続けられている、直接的で、無視できない招きをさしています。これは、神がそのお心のすべてを託されて語りかけておられる招きのことばです。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」御父の招き、御子の招き、御霊の招きを、信仰の耳で聞き、それに答えていきたいものです。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、御子イエス・キリストによって、人々を招き、御霊によって私たちを招いておられます。あなたの招きの声は決して小さなもの、聞き分けられないものではありません。あなたは、常に大きな声で、明確に、私たちを、救いに、信仰に、悔い改めに、祝福への道へと招いていてくださっていますのに、それすらも、聞き分けることができず、見分けることのできないものであったことを、今、悔い改めます。あなたの招きに従うことによって、私たちを信仰に富む者、義の衣を着る者、真理を見る目を持つ者としてください。私たちの主イエス・キリストの名で祈ります。
12/26/2004