目をさましなさい

黙示録3:1-6

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3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。
3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 毎年、年の最後の礼拝ではヨハネの黙示録にある「七つの教会」から話してきました。エペソ、スミルナ、フィラデルフィアとラオデキアの教会についてはすでにお話ししました。この四つのメッセージは私のウェブページに載せてあります。今朝はサルデスの教会へのメッセージから学ぶことにします。

 「七つの教会」へのメッセージには共通したパターンがあります。最初に、メッセージの与え主である「キリストの姿」が描かれます。それから「叱責」のことばと「勧告」が語られます。次に「称賛」のことばと「約束」のことば」が語られ、最後に「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」ということばで締めくくられます。サルデスの教会へのメッセージもこのパターン通りのものです。今朝は、このパターンのすべてについて話す時間がありませんので、「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」として描かれているキリストの姿を中心に話したいと思います。

 一、教会を守るお方

 最初に、「七つの星を持つ方」ということばから考えてみましょう。黙示録1:20に「七つの星は七つの教会の御使いたち」とあるように、「七つの星」は、まず、霊的な存在である「天使」のことをさしています。1節に「サルデスにある教会の御使い」とあるように、サルデスの教会には、その教会を担当する天使がいたのです。エペソの教会にも、スミルナの教会にも、七つの教会のどれにも、それぞれに天使が与えられていました。ということは、サンタクララ教会のためにも、天使が与えられているということになります。それはどんな天使で、何という名前なのでしょうか。私たちには、分かりませんが、イエス・キリストが「七つの星を持つ方」として、ご自分の教会を天使たちに守らせておられることは確かなことです。キリストがが天使を送って教会を守っておられるというのは、神話でも伝説でもありません。それは聖書にある通り、実際のことです。教会は、たんに建物や組織以上のもの、霊的なもの、キリストに属するものです。教会は神の真理を保ち、神を愛し、互いに仕えあうところです。建物や組織だけなら、お金や能力で保つことができるでしょう。しかし、真理や愛は、人間の力だけで守ることができまものではありません。霊的なものは、霊的な存在によって守られる必要があるのです。教会が、天使によって守られるべき、霊的なものであること、キリストが教会を天使たちによって守っておられることをしっかり覚えておきましょう。

 キリストがその手に持っておられる「七つの星」は、教会の牧師たちのことでもあります。「御使い」というギリシャ語は、文字通りは「メッセンジャー」という意味です。天使はキリストのメッセンジャーですが、天使が私たちに直接語りかけても、天使のことばを知らない私たちはそれを理解することができません。それでキリストは、それぞれの教会に神のことばをとりつぐメッセンジャー、牧師たちを与えてくださいました。私たちの教団では、牧師は教団から派遣され、他のところでは、自分たちで牧師を探し、招聘します。しかし、聖書に「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」(エペソ4:10)と教えられているように、派遣や招聘という形をとってはいても、牧師たちは、キリストご自身によって、直接、その教会に立てられているのです。牧師たちは、毎回、毎回のメッセージを、聞き手の顔を思いうかべ、その置かれた状況を考えながら、注意深く聖書を調べ、準備します。何よりも、祈りの中で、キリストのメッセージに聞き、それを忠実に伝えようと努力します。キリストご自身も、そのメッセージの最後に「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言っておられるように、すべての人が聞く耳を持ってメッセージに向かっているわけではありません。そんな中で、時代に流されることなく、神のことばを神のことばとして語るのはとても困難なことです。しかし、キリストは、そのような中でも忠実にみことばを語るメッセンジャーを、その手の中で支えてくださる、これは、みことばに立つ教会にとって大きな慰めです。

 また、「七つの星」は教会そのもの、そこに集うクリスチャンひとりびとりでもあります。私たちは、神が、この世に対するご自分の「使い」、メッセンジャーとするために、集められた者だからです。神は、この礼拝に、「来て、聞きなさい」と言って、私たちをこの世からご自分のもとへと招き、神のことばを分け与えてくださいます。それだけではなく、礼拝の終わりには、「行って、語りなさい」と言って私たちを、再び、世に遣わし、神のことばのメッセンジャーとしてくださるのです。アメリカでは、日系社会は、少数派になってきました。その日系社会の中でも、クリスチャンはまた少数です。おそらく3パーセントぐらいでしょう。しかし、たとえ少数であっても、私たちには、この世が持っていないメッセージが与えられています。この時代が見失っている永遠の真理を持っています。人を救い、天国に導く福音を持っているのです。「七つの星」をその手に持っておられるキリストは、私たちがこの神のことばを保ち、それを伝えることができるように、私たちを守ってくださるのです。

 二、教会を生かすお方

 キリストはまた「七つの御霊…を持つ方」として描かれています。「七つの御霊」といっても、聖霊が七人おられるということではありません。「御霊はひとつ」(エペソ4:4)とあるように、聖霊なる神はおひとりです。「七つ」という言葉は、このおひとりの御霊が、七つの教会のそれぞれにともにおられ、そのそれぞれに必要な賜物を与えておられることを表しています。ヨハネの黙示録の七つの教会は、全世界にひろがるすべての教会を表していますから、聖霊は、すべての真実な教会におられるのです。教会は「キリストのからだ」です。では、「キリストのからだ」を生かしている「霊」は何でしょう。それは聖霊です。霊のないからだが死んだからだであるように、聖霊のおられない教会は死んだ教会です。聖霊は、教会にいのちを与え、教会を生かしてくださるお方です。キリストは、それぞれの教会を天使によって、「外側から」守ってくださるばかりでなく、教会に聖霊を与えて、教会を「内側から」も守ってくださっているのです。「七つの御霊…を持つ方」という表現は、キリストが教会を生かす方であることを示しています。

 ところが、サルデスの教会は、生きている教会ではなく、死んだ教会でした。他の教会には、真理と偽りとを見分ける賜物や、忍耐、忠実さ、愛といった聖霊の働きが描かれているのですが、サルデスの教会へのメッセージにはそういったものが見られません。そこには聖霊の賜物や聖霊の実がなかったばかりか、聖霊のいのちがなかったのです。サルデスの教会でも、礼拝が守られ、他の集会やさまざまな活動もあったでしょう。もしかしたら他のどの教会よりも活発であったかもしれません。しかし、それは形だけのものでした。キリストは、「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」(2節)と言われます。私たちの行いを全うするのは何でしょう。それは、信仰であり、愛です。そして何よりも聖霊です。心だけあっても行いがなければ、それは空しいのですが、行いはあっても心がなければ、それも空しいのです。私たちのすべてのわざは聖霊によらなければ、神に受け入れられるものとはなりません。サルデスの教会は、教会の霊である聖霊を欠いていたのです。

 それで、キリストは、サルデスの教会に対して「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言われたのです。これは厳しいことばです。しかし、同時に愛に満ちたことばです。もし、医者が、患者にその診断を正しく告げなかったら、患者の病気は治ることがありません。ガンがあるのに、それを告げるのはかわいそうだからといって「たんなる腫瘍です。」と言ったら、手遅れになってしまいます。医者は、患者に真実を告げ、そして、その病気が直るためにしなければならないことを告げます。高血圧や糖尿などの病気の場合、医者は、食事を制限したり、生活を改めるよう指示します。もし、患者がそれを守らなかったら、患者を叱ることもあります。病気は医者ひとりで直すことはできません。医者と患者がいっしょになって病気と取り組まなくてはなりません。それで医者は、患者に厳しいことも言わなければなりませんが、それは、病気を直してあげたいという医者としての熱心から出ているのです。同じように、キリストも、私たちのたましいの医者として、私たちが、罪という死にいたる病から救われ、霊的に健康になることを願っておられます。そのために、キリストは私たちがあまり聞きたくないことばをも語られます。しかし、それは、キリストの愛から出たものなのです。

 キリストは、サルデスの教会の霊的状態に診断をくだしただけでなく、どうしたら、そこから回復できるかという処方箋も与えました。それは、「目をさましなさい。…あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」(2ー3節)というものでした。「目をさます」というのは、「悔い改める」ことと同じことを指しています。自分のほんとうの姿を見て、知る。神から離れた自分の状態にまわれ右をし、真理に向かって進み出す。これが悔い改めです。道に迷ったときには、出発点にもどるのが良いと言われます。霊的に迷ったときも同じです。救いの原点に立ち返るのです。神について、罪について、キリストの十字架と復活、悔い改めや信仰について、基本をもういちど学び直すのです。「私には原点となるべきものがありません。」と言う人がいたなら、もういちど求道者となって真理を探究しなおしてください。ある意味で、すべてのクリスチャンは求道者であるべきです。神の無限に豊かな真理は、学んでも学び尽くせません。だれも「もうこれで十分」と言うことはできません。使徒パウロは、コリントの教会に「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。」(コリント第一15:34)と言いました。コリント教会にさまざまな道徳的問題や秩序の混乱などがあったのは、コリントのクリスチャンの中に、聖書の基本を理解していない人々がいたからです。間違った教えは間違った生活をもたらし、不十分な教えは欠けのある信仰をもたらします。キリストの与えてくださった処方箋に忠実に従い、霊的に健康なクリスチャンになっていこうではありませんか。

 キリストのサルデス教会への診断書は、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」ですが、これは診断書というよりは、死亡通知です。医者は、死亡通告をしたあとは何もすることができません。しかし、キリストは、それでもなお、教会に「目をさましなさい。」と言って、死んだ教会を生き返らせようとなさいます。そうです。みずから死に打ち勝って復活されたキリストであればこそ、死んだ者をも生き返らせることができるのです。エペソ5:14に「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」とあります。これは、初代教会で歌われていた賛美の一節でしょう。この賛美はサルデスの教会でも歌われていたことと思います。実際、エペソ人への手紙は、エペソの教会から、ヨハネの黙示録に出てくる七つの教会に回覧され、それぞれの教会で朗読されたのですから、このことばは、サルデスの教会でも知られていたはずです。復活されたキリスト、御霊をもって教会を生かしておられるキリストだからこそ、「目をさましなさい。」と命じることができるのです。ここに希望があります。どんなに、霊的に死んだような状態になっていても、悔い改めて、キリストに向かうなら、私たちは、必ず、再び、聖霊によって生かされるのです。

 ある教会で葬式がありました。誰の葬式かは知らされていませんでしたが、教会のメンバーが全員呼び出されました。正面に棺が置かれていました。その棺は蓋が閉じられていましたが、その蓋に小さなガラス窓があって、そこから遺体の顔が見えるようになっていました。牧師が、みんなに、前に来て、その顔を見るように言いました。それを見た人たちはみなギョッとしました。なぜかといえば、その棺の中に、自分がいたからです。実はそのガラス窓は鏡になっていて、みな、自分の顔を見ていたのです。牧師は、講壇に立って、「じつは、今日はみなさんのお葬式、教会のお葬式なのです。」と言って、ヨハネの黙示録3章から、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。」と説教しました。人々は悔い改め、その教会は、再び聖霊に生かされる教会になっていったとのことです。

 私たちはどうでしょうか。自分のほんとうの姿に気付きましょう。そして、キリストの姿を見つめましょう。「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」が私たちを、守り、癒し、よみがえらせ、生かしてくださるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、聖書の中で、何度も「わたしはあなたを愛している。」と言ってくださっていますが、聖書は決して甘いことばだけで綴られてはいません。むしろ、その大部分は、私たちへの戒めのことば、警告、勧告などです。しかし、その中に、あなたの愛が表されていることを私たちは知っています。ヨハネの黙示録で学んだキリストの厳しいことばの中に、私たちは、キリストの私たちに対する切実な愛を見ます。どうか、私たちの耳を開き、心を開いて、キリストに聞き従うものとしてください。そして、私たちを聖霊によって生きる者としてください。教会のかしら、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/28/2008