主が共に

黙示録21:1-4

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21:1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 一、新しい天

 最近は奇抜な形をした建築物が増えましたが、以前は、ほとんどの建物は symmetrical(左右対称)で、そういう建物は見ていて落ち着き、また、美しさを感じさせます。神の造られた多くのものは symmetricalだからです。人体もそうで、左右のバランスがとれていると健康だと言われています。

 じつは、聖書も symmetricalな構造を持っています。聖書は「創世記」から始まり「黙示録」で終わりますが、創世記は天地創造を告げ、黙示録は「新天新地」の到来を語っています(黙示録21:1)。創世記には神が人の住処として与えてくださった「エデンの園」のことが書かれていますが、黙示録には天の都「新しいエルサレム」が描かれています(黙示録 21:2)。創世記のエデンの園には川があり、園を潤し、川ぞいに「いのちの木」をはじめとして、さまざまな木があって実を成らせていました。そこは祝福に満ちた場所でした。ところが、アダムとエバは神と神のことばに従順でなかったため、エデンの園といのちの木の祝福を失いました。けれども、黙示録では、エデンの園の祝福が「新しいエルサレム」で回復されると、約束されています。

 天の都にもエデンの園と同じように川があり、いのちの木があります。22:1-2にこう書かれています。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」続く22:3には「もはや、のろわれるものは何もない」とあります。人の罪によって壊された神と人との関係、人と人との関係、そして人と自然との関係のすべてが、天では祝福に変えられ、栄光に輝くものになるのです。

 聖書は、この神の救いのみわざを「贖い」という言葉で表しており、この贖いは、イエス・キリストの十字架によって成就、実現されました。

 しかし、私たちの霊やたましいは贖われていても、まだ、からだは贖われていません。世界は、これまで秩序が保たれ、自然界も守られてきました。神を信じる人々が世の光、地の塩としての役割を果たしてきたからです。ところが、暗闇の力が働き、腐敗が進み、社会の秩序が壊され、自然界もダメージを受けています。ローマ8:22に「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」とありますが、パンデミックや世界各地での紛争によってまさに世界は、今、うめいています。アメリカでも政治が混乱し、経済が危うくなり、治安が悪化し、皆が不安を感じています。道徳が乱れ、規律がゆるくなってるのに、個人の信仰・信条の自由が制限されるというちぐはぐなことが見られるようになりました。そんな中で、私たちもうめくのですが、それは、絶望のうめきではありません。希望のうめきです。私たちのたましいのうちに始まったキリストの贖いが、私たちのからだにも、世界にも、自然界にももたらされ、それが完成することを待ち望むうめきです。ローマ8:23はこう言っています。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」このように、すでに贖われ、聖霊をいただいている私たちは、聖霊とともにうめき、贖いの完成を信じて待ち望むのです。

 二、天の都

 回復されたエデンの園が「エルサレム」と呼ばれているのには、意味があります。エルサレムは、紀元70年に神殿もろとも滅ぼされ、黙示録が書かれたころには、荒れ果てたままでした。後に町の名前は「エルサレム」から「アエリア・カピトリナ」と変えられ、エルサレムは、その名も地上から完全に姿を消しました。イエスの十二弟子のほとんどは、エルサレム滅亡以前に殉教しましたが、ヨハネだけは神殿崩壊とエルサレム滅亡を目の当たりにしました。神殿が破壊され、エルサレムが廃墟になることはイエスによって預言されていたとはいえ、それはヨハネやユダヤ人キリスト者には、私たちの想像以上をこえた大きなショックだったと思います。

 エルサレム滅亡によって神は、地上には永遠の都がないことを教えられましたが、天の都が「新しいエルサレム」と名付けられることによって、たとえ地上のものが滅び、失われても、天には、それに勝るものが備えられていることを教えてくださったのです。ヘブル11:16には「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」とあって、旧約時代の信仰者たちも、目に見える約束の地だけでなく、天の都を目指して信仰の旅をしていたと、聖書は教えています。

 人生は「旅」に例えられますが、旅行は帰ってくるところがあるから楽しいのです。ラウンド・トリップのチケットを持っているからこそ安心なのです。帰るところがなかったら、それは悲惨なものになります。ローマによってエルサレムを追われた多くのユダヤの人々は難民となって各地に散っていきました。それは辛く、希望のない旅でした。しかし、イエス・キリストを信じていた人々は聖書のことばに従っていちはやくエルサレムから逃れて自分たちの命を救いました。彼らも各地に散らされましたが、「天のエルサレム」の希望があったので、エルサレムを失ったことにこだわらず、それぞれの土地に定着して生活しました。地上のものだけしか知らない人は、それが奪われたら、絶望しかありません。しかし、天に故郷を持つ人は、どんな時も希望を持って、落ち着いた生活ができるようになるのです。

 私たちも自分たちの人生が地上だけのものでない、それは天を目指し、天に続いていくものだということを、しっかりと心に留めましょう。黙示録の預言が人々の信仰の旅を励ましたように、私たちも神のことばによって励まされて、日々の生活を大切にしながら、天を目指す信仰の旅を続けたいと思います。

 三、天の神殿

 エルサレムの町で最も大切だったのは神殿でした。神殿がそこにあったからこそ、エルサレムは「聖なる都」と呼ばれたのです。ですから、「新しいエルサレム」も、それが「エルサレム」と呼ばれるからには、どこかに神殿がなければならないのですが、黙示録には天のエルサレムのここに神殿がある、この部分が神殿だとは言われていません。では神殿はないのでしょうか。いいえ、「新しいエルサレム」全体が神殿なのです。3節を見てください。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。』」「神の幕屋」という言葉は、モーセの時代に作られた最初のテントでできた神殿を思い起こさせます。人々は約束の地を目指して旅を続けていた時でしたので、神殿も折りたたんで運ぶことができるテント式のもので「幕屋」と呼ばれました。その後、神殿は恒久的な建物になりそれは「ソロモンの神殿」と呼ばれました。このソロモンの神殿はバビロンによって破壊されましたが、ペルシャの時代に再建されました。ヘロデ王はのちに再建された神殿に黄金を散りばめ豪華なものに改修しました。それで、イエスの時代の神殿は「ヘロデの神殿」と呼ばれました。しかし、神殿が立派になっていくのに反比例して、人々の信仰は貧しくなっていきました。そのため、ヘロデの神殿も破壊されてしまったのです。黙示録の神殿がソロモンの神殿でも、ヘロデの神殿でもなく、最初の神殿、「モーセの幕屋」であることには、モーセが神と顔と顔とをあわせて語り合ったような親しい交わりが天で回復することが示唆されています。

 続いてこうあります。「また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(3b-4節)罪の支払う報酬は「死」であり、「死」は人類最後の敵です。しかし、イエスは私たちの罪の結果である「死」を引き受け、十字架で身代わりとなって死んでくださいました。そして、ご自分の死によって死に打ち勝ってくださいました。私たちは、イエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストから復活のいのち、永遠のいのちをいただいています。ですから、罪と死の問題は解決されているのですが、しかし、なお、私たちはいつかは世を去らなければなりませんし、また、自分の両親、兄弟、親族、友人、また、信仰の友の死に出会わうことでしょう。迫害の時代の教会では、先週は自分の隣に座って一緒に礼拝していた人が殉教し、今週はもう地上にはいないということが日常のようにありました。信仰者たちはその死を悼み、家族を慰めましたが、同時に復活の日に共に集まり、「ハレルヤ、主はよみがえられた」と告白して礼拝を捧げました。それは、私たちの目から涙を拭ってくださる神を信じ、天を見上げていたからでした。神は天の聖徒たちの涙だけでなく、遺された人たちの「涙」をもぬぐい、慰めてくださる。キリスト者たちはそう信じました。

 この慰めは、主が私たちの上に幕屋を張って、私たちと共にいてくださることから来ます。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられる」とある通りです。「神は彼らとともに住み」という言葉のもともとの意味は「天幕を張る」です。同じ言葉は、ヨハネ1:14の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」というところにもあります。キリストが人となって世に来られ、私たちの間に住まわれた、天幕を張ってくださったのは、私たちが、天のエルサレム、天の神殿に住むようになることの保証、その担保です。神が共にいてくださる恵みを前もって体験するためです。

 古代の教会の礼拝での挨拶の言葉は「ドミヌス・フォビスクム」でした。「主はあなたと共に」という意味です。英語で “Good Bye”というのも、もともとは “God be with you” です。主は、神殿の主です。主が共にいてくださるところ、そこは神殿になります。たとえ、外には迫害の嵐が吹いていても、礼拝の場は、主が共にいてくださる神殿、主がテントを張って覆い守ってくださる神の幕屋の中です。私たちは、今体験しているこの主の臨在(presence)が、やがて、完全にリアルなものになることを信じ、待ち望んでいます。私たちはこの希望によって支えられています。“The Lord be with you” と、互いに励まし合って、天への旅を共に歩んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、黙示録の預言の言葉を通して、きょうも、私たちを慰めてくださり感謝します。週ごとに、また日毎に御言葉を聞き、御言葉に親しむことによって、私たちに、御言葉による希望を与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/29/2021