忠実であれ

〜まきば集会〜

黙示録2:8-11

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スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』

 この箇所は七つの教会へのメッセージのひとつで、七つの教会へのメッセージには共通したパターンがあります。まず、キリストの自己紹介があり、次に教会の現状が語られ、そして、教会に対する誉め言葉や叱責の言葉があります。それから具体的な指示や勧めの言葉があって、最後に約束のことばが記されています。この箇所も同じようですので、「啓示の言葉」、「励ましの言葉」、「約束の言葉」の三つに分けて学ぶことにしましょう。

 一、啓示の言葉

 主イエスは、そのメッセージでご自分の姿を示されました。主イエスのメッセージに聞くということは、たんに主イエスのメッセージを分析して研究するいうことではなく、主ご自身を知るということだからです。聖書は、主ご自身を証ししているのに、私たちは聖書を読んでも、枝葉末節にこだわって、そこに主ご自身を見ないということがあります。私はある教会で説教したとき、その講壇に小さなプラークがあるのに気付きました。そこにはこう書いてありました。“Sir, we would like to see Jesus.” 説教は、説教者の学識や話術をひけらかす場ではありません。なるほどと思わせる話、ためになる話、涙をさそう話というだけのものでもありません。それは私たちをイエス・キリストと出会わせるもの、私たちにイエスを見せるものでなければならないのです。“Sir, we would like to see Jesus.” 「私たちはイエスにお目にかかりたいのです。」このプラークはどの講壇にもとりつけられるべきものと思います。

 主はここでは、ご自分を「初めであり、終わりである者」、「死んで、また生きた者」であると言っておられます。これは何を意味しているのでしょうか。

 「初めである」というのは、ヨハネの福音書のはじめを思い起こさせます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)イエス・キリストははじめからおいでになった方であって、他のあらゆるものに「はじめ」をお与えになった方、つまり、世界を創造されたお方です。私たちは、このお方によって造られ、このお方の手の中にあるのです。

 「終わりである」という言葉からは、マタイ28:20を思い起こします。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」「世の終わりまで」と言うのは、「わたしは、いつも、あなたがたとともにいる」の「いつも」を強調しているのだと思います。主が、世の終わりまでもともにおられるなら、私たちの人生のあらゆる場面で共にいてくださるはずです。喜びの日ばかりでなく、悲しみの時も、苦難や絶望に襲われる時も、主は共にいてくださるのです。老年になっても、世を去るときも共にいてくださいます。イザヤ46:4には、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」という約束があります。

 すこし、横道にそれますが、マタイ28:20は「見よ。わたしは…」と言っています。「見よ」というのは、マタイが好んで使った言葉で、マタイ28:20の他に、あと20回出てきます。イエスの降誕のときには、「見よ、処女がみごもっている」「見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て」などと言われています。変貌の山を描いたところでも、「見よ、光り輝く雲がその人々を包み」と言われています。エルサレム入城の時には「見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる」という預言の言葉が引用されています。イエスが十字架で息を引き取った時、「見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」と書かれています。「見よ」というのは、驚きを表す言葉です。主が悪霊を追い出し、病人を癒し、「罪人」と呼ばれていた人たちを受け入れた時も、マタイは「見よ」と言って、私たちの共感を誘っています。そうです。主が「世の終わりまで」「いつも」私たちと共におられるということは、驚くべきことなのです。飛び上がって喜び、涙を流して感謝してよいことなのです。世界のはじめから終わりまでを収めておられるお方が、私たちの人生の初めも終わりもその手の中に握りしめていてくださる。これが驚きや感謝でなくて何なのでしょうか。

 次に「死んで生きた者」という言葉ですが、まさに、「死んで生きた者」は主の他誰もいません。今まで世を去った者はだれひとり戻ってきませんでした。皆、「死んで死んだ者」でした。けれども、主はただひとり「死んで、よみがえられた」お方です。私たちの罪のために死なれましたが、復活され、私たちに永遠の命を与えてくださるのです。やがての時、主が再び天から来られる時、私たちもよみがえり、復活のからだを持つようになるのです。

 ヨハネは黙示録1:4-6でこう書いています。「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」主が死なれたのは私たちを罪から解放するため、復活し天に帰り、そこから地を支配しておられるのは、私たちもまた世を支配するため、恵みの御座で大祭司としてとりなしておられるのは、私たちも祭司となって他の人々のためとりなし祈るためであると書かれています。主が死なれ、復活され、昇天されたことは主おひとりの身にだけ起こったことではなく、主は、ご自分の死も、復活も、昇天も、すべて私たちの救いに結びつけておられるのです。

 黙示録は、この主が再び来られることを告げています。死んで、よみがえり、やがて来られる。これは、古代教会で「信仰の奥義」として、サクラメントのたびに唱えられてきた言葉です。“Christ has died. Christ is risen. Christ will come again.” これほど単純な信仰宣言はありません。けれどもこれが人を救うのです。イエスをキリストと信じる者は主の死によってすでに救われ、その復活によって今も救われ、その再臨によってやがて救われるのです。複雑な神学が人を救うのではありません。キリストが死なれ、復活され、やがて来られるという事実が人を救います。「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方。」そう呼ばれるイエス・キリストを仰ぐとき、黙示録1:6の言葉の通り、「キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」“Praise be to you, Lord Jesus Christ.” と主を賛美せずにはおれません。

 二、励ましの言葉

 主の自己紹介、「啓示の言葉」に続いて、励ましの言葉に耳を傾けましょう。主は言われます。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」(9節)主から「わたしは…知っている」という言葉を聞くことができるのは、なんという慰めでしょうか。キリストは全知全能の神なのだから、すべてのことを知っておられるのは当然だと思ってはなりません。ここで「わたしは…知っている」とあるのは、主イエスがその能力によって知っておられるというのではなく、その愛によって知っておられる、私たちの苦しみを深く理解していてくださるという意味です。医者はどの病気にはどんな痛みが伴うか知っています。しかし、それは知識として知っているだけで、患者が症状を訴えても、医者から「だったらこの薬を飲んでください」という答えしかえってこないことがあります。しかし、同じ病気をした人に痛みを話すと、「良く分かりますよ。私もつらい思いをしました」と、心から分かってもらえ、そのことばが励ましとなります。それは、その人が病気の苦しみを知識によってでなく、体験によって知り、病気の人の痛みを愛をもって受けとめているからです。

 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている」「ののしられていることも知っている」と言われた主は、苦しみと貧しさを体験し、人々のののしりを受られたお方です。「わたしは…知っている」と言われたとき、主は、私たちの苦しみをご自分の苦しみとし、私たちへの非難や中傷をご自分への非難や中傷として受けておられたのです。

 スミルナの町は、小アジアで三番目に大きく、また美しい町で、町の人々は「スミルナこそアジアのメトロポリスである」という誇りを持っていました。スミルナ教会もきっと豊かな教会だったことでしょう。しかし、教会は迫害により貧しくなってしまいました。当時はまだ教会堂というものがなく、人々は裕福なクリスチャンの邸宅に集まり、そこで礼拝をしていました。教会を迫害した地方の役人たちは、そうした裕福なクリスチャンをターゲットにし、その土地や建物、財産を没収しました。そうすればクリスチャンは礼拝の場所を失って散り散りになり、またその財産も役人の懐に入るというわけで、それこそ迫害をする人には「一挙両得」でした。多くの裕福な人々が財産を奪われ、一夜にして貧しくなりました。教会もまた迫害によってメンバーを失い、財力を失いました。

 スミルナの教会は、貧しくなった自分の姿を見て嘆いたかもしれません。しかし、主イエスは言われます。「あなたは実際は富んでいる。」この富は地上の財産のことではなく、信仰の富のことです。ヤコブ2:5にこうあります。「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」教会は、迫害によって人数を減らし、財産を失い、人の目にも、自分の目にも貧しく見えたことでしょう。しかし、主イエスの目にはそうではありませんでした。迫害によって本物のクリスチャンが残ったために、教会の霊的な力は高められ、地上の財産を失った分だけ、信仰の富が増し加わり、霊的に豊かな者になったのです。自分の目だけではなく、主イエスの目でものごとを見るようにしましょう。その時、私たちは、「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っている」(コリント第二6:10)ことが分かるようになります。私たちも、信仰に富む者、御国を相続する者でありたいと心から願います。

 次に、やがてやって来る苦しみに耐えるようにという励ましがあります。10節です。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。」イエスは、迫害の手がさらに伸び、殉教者が出ることを預言した上で、「忠実であれ」との励ましを与えました。

 主イエスが私たちに求めておられることは、ただひとつ、忠実であることです。主は私たちに、才能や目に見える結果ではなく、忠実さを求め、それを喜んでくださいます。「タラントの譬」はそのことを教えています。主人から5タラントを預かったしもべはもう5タラントを儲け、2タラントを預かったしもべはもう2タラントを儲けました。主人は5タラント儲けたしもべにも、2タラント儲けたしもべにも同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言って喜びました。もし主人が、しもべに能力や結果を求めたのなら、5タラント儲けたしもべをうんと誉め、2タラント儲けたしもべはふつうに誉めたかもしれません。しかし、主人は、しもべの能力や結果ではなく、その「忠実さ」を見てしもべたちを誉めたのです。1タラントを預かったしもべは、与えられたものに対して忠実ではなかったので、「役に立たぬしもべ」と呼ばれました。

 「死に至るまでも」というのは殉教することがあっても、なお忠実でありなさいという意味なのでしょう。私の友人は、若い頃「殉教できたら幸せだろうな」とよく言っていました。昨年彼は亡くなりましたが、それは安らかな死であったと聞いています。けれども彼は殉教者がその命を主に捧げたように、自分に与えられた人生を主のために捧げました。若い日を南米で宣教師として、その後は日系教会の牧師として働きました。彼は与えられた使命を果たしました。世を去る時まで、主から与えられた使命を忠実に果たし続けるなら、それもまた「死に至るまで忠実であること」になるのだと思います。

 じつは「殉教者」という言葉は「証し人」ということばから来ています。すべてのクリスチャンは証し人です。殉教者は死をもってキリストを証ししましたが、私たちは、毎日の生活をもって主を証しするのです。死によってであれ、日々の生活であれ、キリストと福音を証しすることには変わりません。

 ソロモンの心は、その晩年に、主から離れてしまいました。しかし、私たちは「世を去る時まで」、「生涯の終わりまで」忠実でありたいと願います。次の賛美のように主にお答えしたいと思います。

世にあるかぎり 仕えまつらん
この身に近く 主よましませ
戦いもなど 恐るべしや
導く御手に すがりゆく身
(聖歌298-1)

 三、約束の言葉

 最後に「約束の言葉」を聞きましょう。主イエスは忠実な者に、「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」と約束しておられます。聖書には、他にも「朽ちない冠」(コリント第一9:25)、「喜びの冠」(テサロニケ第一2:19-20)、「栄光の冠」(ペテロ第一5:2-4)、「義の冠」(テモテ第二4:8)など、さまざまな冠が出てきます。古代には、スポーツの競技や芸能のコンテストの勝者には月桂樹の冠がかぶせられ、その栄誉が称えられました。しかし、木の葉で作られたものはやがて朽ちていきます。この世の賞賛も、木の葉の冠と同じように、長くは留まりません。金や銀で作られ宝石で飾られた冠であっても、永遠ではありません。しかし、主がくださる冠は、朽ちることなく、いつまでも無くなることのないものです。これは永遠のいのちのことです。11節に「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」とある通りです。「死んで、また生きた方」が永遠のいのちを与えてくださいます。主のために自分の命を使った者に、主はさらにまさるいのちをくださるのです。

 スミルナの教会に、ポリュカルポスという使徒ヨハネの弟子がいました。彼は、155年2月23日にフィラデルフィヤ教会の11名のクリスチャンとともに殉教しています。ポリュカルポスはスミルナの円形競技場に引き出されました。競技場が殉教者たちの人生の最後の場であったのは意味深いことです。マラソン競技のゴールが競技場であるように、この人たちも信仰の競走を走り抜いてゴールまでやってきた人たちでした。総督は、円形競技場に現れたポリュカルポスがあまりに高齢なのを見て言いました。「老人が死ぬのを見たくない。キリストをのろえ。そうしたら許してやろう。」それに対してポリュカルポスは答えました。「86年間、私はキリストに仕えてきた。その間キリストは私になんの悪もなさらなかった。私を救ってくだった私の王を、どうしてののしることができよう。」そしてポリュカルポスは火刑台に進んでいきました。死に至るまでも忠実であったポリュカルポスと、他の11名の殉教者たちを、主は天に迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言って、「いのちの冠」を授けてくださったに違いありません。

 私たちも、主の「啓示の言葉」、「励ましの言葉」、そして、「約束の言葉」をしっかりと握りしめ、主に従いたいと思います。

世を去る時も ともにまさば
まします家に 我もありえん
世にあるかぎり しもべとして
仕うる恵み 与えたまえ
(聖歌298-4)

 (祈り)

 主よ。あなたが、私たちに忠実であり続けてくださったように、私たちも生涯の終わりまで、あなたに忠実であることができますように。あなたの手から「いのちの冠」をいただくその日を目指して歩ませてください。父なる神をあがめ、聖霊によって祈ります。

8/15/2019