人生の勝利者

黙示録2:1-7

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2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

 「ヨハネの黙示録」は95年ころ、パトモス島で書かれました。それは、ローマの皇帝ドミティアヌスの晩年、アジア州で迫害が起こったときでした。パトモス島には鉱山があり、キリスト者たちはそこで強制労働をさせられていました。そのころエペソの教会にいた使徒ヨハネも、ずいぶん高齢でしたが、パトモス島に「島流し」にされました。

 しかし、ヨハネがパトモス島に連れてこられたのは、パトモス島のキリスト者にとって益となりました。1:10に「私は、主の日に御霊に感じ…」とあるように、「主の日」、つまり、日曜日にヨハネの導きによってパトモス島でも礼拝が守られるようになったからです。その礼拝によって、パトモス島のキリスト者が力づけられただけでなく、主の日ごとにヨハネに臨んだ神の言葉は書物に記録され、アジア州の諸教会を励ますものとなったからです。ヨハネの書いたものはエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの教会に送られました。これらの町を地図で見ると、順番に並んでいることが分かります。最初にエペソに送られたものは、そこで朗読され、次にスミルナへ、その次はペルガモへと順々に回覧され、それぞれの教会で写しが作られ、それがさらに他の教会へと広がっていき、「ヨハネの黙示録」は新約聖書の最後の書物となったのです。今も、多くの人々にとって、この書物は慰めとなり、希望をなっています。神はパトモス島にヨハネを送り、そこのキリスト者を励ますだけでなく、アジアの諸教会とその信徒、さらに、現代に至るまでのすべての教会とキリスト者を励まし続けてくださっているのです。まさに、神は「万事を益」としてくださるお方です。

 一、神の約束

 きょうは、7節だけに注目します。「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実をたべさせよう。」これはエペソの教会へのメッセージの最後に書かれている言葉ですが、エペソの教会だけではなく、残りの六つの教会すべての教会へのメッセージに「勝利を得る者」という言葉があり、約束の言葉が続いています。

 「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実をたべさせよう。」この約束は22:1-2にその成就があります。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」これは、明らかに創世記のエデンの園と関連しています。エデンにも川があり、園を潤していました。そして、園の中央には「いのちの木」がありました(創世記2:8-10)。神はこの地球を人の住処として造り、そこに最初の人、アダムとエバをエデンの園という理想的な場所に置いてくださいました。ところが、アダムとエバは神の言葉に不従順であったため、エデンの園を追われ、「いのちの木」から遠ざけられました。

 けれども神は人類をお見捨てになりませんでした。人々が神に立ち返り、神の言葉に従順な者となり、生ける神との生きた交わりという「いのちの木」の祝福を取り戻す道を備えてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架と復活です。罪のない神の御子が十字架という「呪いの木」にかけられました。イエスが私たちに代わって、私たちの罪と罪の結果のすべてを引き受け、ご自分の身に背負ってくださったのです。イエスはそれによって「呪いの木」である十字架を「祝福の木」にしてくださいました。十字架は私たちにとってまさに「いのちの木」です。イエスは復活によって、今、私たちにその「いのち」を与えてくださっています。イエス・キリストを信じる者は、その内側に「エデンの園」を持っているのです。

 キリストによって「成就」した神の約束は、同じくキリストによって「完成」します。聖書は救いを三つの時制で教えています。イエス・キリストを信じる者は、すでに救われ、今救われ続け、やがて救われるのです。イエス・キリストを信じたとき、私たちは罪の刑罰から救われました。今、罪の力から救われています。そして、やがて罪の存在からも救われます。キリストが再び来られるとき、創世記の天地創造よりもさらに大きな天地の再創造が行なわれます。すべてが改まり、かつてのエデンの園よりも、もっと素晴らしい天のエルサレムが現れるのです。今、信仰によって体験している「いのちの木の実」、私たちを生かす「永遠のいのち」が、目に見える形で実現するのです。福音書は神の約束の「成就」を告げ、黙示録は神の約束の「成就の成就」、つまり、「完成」を告げています。そして聖書の全体は、神が「約束の神」であり、約束を守られる真実なお方であることを語っています。

 二、霊的戦い

 しかし、救いの成就から完成までの間は決して平坦ではありません。そには、霊的・信仰的な戦いがあります。ヨハネの黙示録には戦争のモチーフが数多く使われています。世の終わりには、戦争や内乱があり、ききんや地震が起こることはイエスご自身が預言しておられました。しかし、それらは「予兆」や「前兆」にすぎません(マタイ24:6-8)。ほんとうの世の終わりのしるしは、戦争や災害ではなく、もっと霊的・信仰的なものです。黙示録で「獣」と呼ばれている「反キリスト」が現われ、キリストに従う者たちを苦しめることです。信仰者が苦しめられることは、いつの時代にもありましたし、今もあります。初代教会は、およそ300年にわたって苦しめられました。黙示録に描かれている「獣」は、キリスト者を迫害したローマ皇帝の姿を借りて描写されています。私たちが聖書から知ることは、かつてあった迫害と弾圧が世界的、地球的な規模で起こるということです。そこで繰り広げられる戦いは、軍事的な戦争や経済戦争ではありません。キリストへの信仰に敵対する力と、キリストへの信仰を守ろうとする人々との霊的・信仰的な戦いです。

 信仰者たちは、そうした悪の力との戦いに召集された「キリストの兵士」です。黙示録7章にイスラエル十二部族の各部族からそれぞれ一万二千人が選ばれたことが書かれています。これは、民数記にあるように、エジプトから脱出したイスラエルの民が、成人男性の数を数え、兵士たちを選び出したことに基づく表現です。神がかつてイスラエルを「主の軍勢」として整えたように、新約時代の神の民、キリスト者も、「主の軍勢」なのです。

 この人たちの額に「印」がつけられました。これは神の選びや保護を表していますが、同時に、人々の神への忠誠をも意味しています。申命記6:4-5に「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあります。これは、最初の言葉「聞きなさい」のヘブライ語から「シェマー」と呼ばれ、神の民にとって一番大切な戒めです。申命記6:8に「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい」とあるのですが、イスラエルの人々はこれを文字通りに受け取りました。「シェマー」を書いた羊皮紙をテフィリンと呼ばれる小さな箱に入れ、実際に額の上に置いて、「私は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、私の神、主を愛します」と祈ったのです。ですから、黙示録にある額の「印」は「シェマー」に表された、唯一のまことの神への信仰と忠誠を表すものであると言うことができます。

 ところが、反キリストも、人々の額に「獣の印」を刻みます。それは神の「印」のように人々を守るものではなく、人々を支配しようとするものです(13:16-17)。現代の技術では、人間の体内にマイクロチップを埋め込んでその人をコントロールすることも不可能ではありませんが、聖書が言う「獣の印」とは、「神の印」に対抗するもので、神を否定する思想や誤った教えを人々に吹き込み、マインドコントロールによって、人々から神への信仰や忠誠をとりのぞくことを意味していると思われます。

 パンデミックになって私たちの生活は大きく変化しました。それで、今までの価値観を「キャンセル」し、社会の仕組みを「リセット」しなければならないということが主張されるようになりました。しかし、そこで言う「リセット」や「キャンセル」は聖書が教える価値観を「キャンセル」し、神が定めてくださった秩序を「リセット」して、ごく少数の人が大多数の人を管理するような社会を作ろうとすることで、そこで攻撃されているのは、つきつめていくと、まことの神への信仰と忠誠なのです。ですから、私たちは、神の言葉を今まで以上に、しっかりと握りしめ(ピリピ2:16)、心に豊かに住まわせ(コロサイ3:16)、それを実行する(ヤコブ1:22)ことに励み、それによって、「獣の印」に勝たなければなりません。

 初代教会のキリスト者は、ローマ政府がどんなに自分たちを苦しめても、決して反乱を起こしたり、戦争をしたりしませんでした。自らの信仰を守り、まわりの人々に、言葉と行いをもって忍耐深くキリストを証ししました。それが、「霊の戦い」です。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」なのです(エペソ6:12)。

 三、人生の勝利

 世界は終わりに向かって進んでおり、黙示録にあるような「反キリスト」がいつ出現してもおかしくない時代となりました。世界中で信仰が試みられ、妥協を強要され、そして否定されようとしています。今こそ、私たちは、聖書が教える霊的・信仰的な戦いを意識しなければなりません。けれども、それは、日常のことをおろそかにしてよいということではありません。テサロニケ人への手紙第一と第二は、再臨について教えている手紙ですが、その中でパウロは「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(テサロニケ第一4:11)と教え、「あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」(テサロニケ第二2:16-17)と祈っています。人生とは、一日、一日、また一年、一年の積み重ねです。きょう一日をどう生きるかが、その人の人生を決め、さらに永遠の運命を決めると言ってもよいでしょう。

 スティーヴン・コヴィーは、『7つの習慣』で、人生を成功に導くものは、人に自分を良く見せようとするテクニックなどではなく、「誠意・謙虚・誠実・勇気・忍耐・勤勉・質素・節制」などの人格的なものであると言っています。そしてそのために「終わりを思い描くことから始める」ことを勧めています。自分のお葬式のときに、人々からどう言われたいのかを考えなさいというのです。この事は、信仰者にも当てはまります。自分が主にあってどのような人間になりたいのか、主のためにどのようなことをしたいのかを考えてみましょう。世を去って、主の前に出るとき、主からどんな言葉をいただきたいのかを思いみましょう。

 黙示録はこう言っています。「この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(17:14)イエス・キリストはあらゆるものに打ち勝たれた勝利の主です。キリストは罪に勝ち、死に勝ち、世に勝ち、サタンに勝利しておられます。私たちの勝利は、この勝利の主からいただく勝利です。主イエスの約束はつねに真実です。私たちも主イエスに忠実であるなら、「勝利を得る者」となり、神から約束のものを受けることができるのです。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一5:5)人生の勝利、それは、何か特別なことができた人や数多くのことをした人だけに与えられるものではありません。神の言葉に忠実であり、信仰を守り通したすべての人に、キリストが与えてくださるものなのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエス・キリストを信じる者を「勝利する者」としてくださいました。やがて、主イエスの勝利にあずかるその日を思い見て、今の日々を御言葉に忠実に生きることができるよう、助け導いてください。あなたの約束と真実を感謝し、イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/15/2021