2:12 また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。
2:13 わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。
2:15 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを頑なに守っている者たちがいる。
2:16 だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。
2:17 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』
一、キリストへの忠実
ある人が出した問い合わせのメールが私にも届きました。それには、こうありました。「この奉仕を任せたいのですが、誰か忠実にやってくれる人をご存知でしたら、知らせてください。」私はそれを読んで、「神への奉仕は、どんな場合でも忠実であるのはあたりまえではないか」と思いましたが、現実はそうではないようです。自分で引き受けておきながら、断りなしにやめてしまう。決められた通りにしない。期日を守らない。そういうことがよくあります。それでわざわざ「忠実な人」という言葉を使ったのだろうと思います。
この世の仕事では、「有能な人」、「熱心な人」、「気がきく人」などが求められ、また誉められもします。しかし、神の国の働きでは何よりも「忠実な人」が求められます。タラントの譬では、五タラントをもうけたしもべも、二タラントをもうけたしもべも同じように誉められています。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21、23)二タラントの人にも五タラントの人にも同じ言葉が使われています。キリストは、働きの結果よりも、働きに対する忠実さを見て、それに報いてくださるのです。
パウロは、テモテ、ティキコ、エパフラス、オネシモを人々に推薦していますが、その理由は、その人たちが「忠実な人」だったからでした(コリント第一4:17、エペソ6:21、コロサイ1:7、コロサイ4:9)。
黙示録二章と三章にある七つの教会へのメッセージにはどれも「わたしは…知っている」という、キリストの言葉があります。キリストは、教会に目を留めていてくださるのですが、キリストがご覧になるのは、教会がどれほど主に対して忠実であるかということです。キリストはスミルナの教会に、「死に至るまで忠実でありなさい」(2:10)と言って励まし、ペルガモンの教会については、アンティパスを「忠実な証人」(2:13)と呼び、他の信徒をも、キリストへの「信仰を捨てなかった」こと、つまり、主に対して忠実であったことを誉めています。キリストは何よりも「忠実」であることを教会に求め、それに目を留め、それを誉めてくださるのです。
では、なぜ、キリストはそれほどまでに、信仰者に忠実であることを求められるのでしょうか。それは、信仰とはキリストに対して忠実であることだからです。信仰と忠実さは、まったく同じもの、信仰者と忠実な人とは同じ人を指しています。
じつは、「忠実な」というのは、ギリシャ語で「ピストス」(πιστός)と言い、これは、「ピスティス」(πίστις)という名詞の形容詞の形です。そして、「ピスティス」は聖書の多くの箇所で「真実」、「誠実」、「信仰」、「信頼」という意味で使われています。英語で「信仰」は “faith” ですが、「忠実な」は “faithful” です。そして、 “the faithful” というと、「信じる人」、「信仰者」を指します。信仰者が忠実であるのは当然のことで、信仰者が忠実でないというは、まったくの矛盾なのです。
ガラテヤ5:22-23に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの御霊の実が挙げられています。七番目の「誠実」は原語では「ピスティス」、英語で “faithfulness” です。 “faith” ― “faithful” ― “faithfulness” の三つは繋がっています。信仰が、人を忠実な者にし、忠実な人が「誠実」という実を結ぶのです。目に見えない「信仰」が「忠実」という人格的なものを与え、「誠実」という目に見えるものを生むのです。私たちは忠実な者になるために、また、その実を結ぶために、信仰からスタートしていきたいと思います。
二、キリストの忠実
忠実でありたいと願う信仰者は、他の人にも忠実さを期待します。しかし、現代は、忠実な人に出会うよりも、不誠実な人に出会って、大変な目に遇うことが多い時代です。それに、自分が神に対しても人に対しても忠実でありたいと願いながら、そうでなかったことを悔やむこともしばしばかもしれません。そんなとき、落胆して、忠実さを失わないために、神の真実、イエス・キリストの忠実さを覚えていましょう。
ローマ3:4に「たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」とあります。たとい人が裏切ったとしても、神は決して私たちを裏切ることはありません。イザヤ61:8で神はこう言っておられます。「まことに、わたしは主、公正を愛し、不法な略奪を憎む。わたしは真実をもって彼らのわざに報い、永遠の契約を彼らと結ぶ。」そして、エレミヤ31:3にこうあります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」こうした言葉は、神に背いた神の民への言葉です。神は正義のお方で、主権者なのですから、神との約束を守らなかった人々を滅ぼしてしまっても、何の不思議もないのです。そうであるのに、神は、不信実で不忠実な人々をなお愛し通して、真実を尽くし、誠実を尽くしてくださったのです。
それは、イエス・キリストも同じでした。黙示録1:5に「また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」とあります。この「確かな」には「忠実な」と訳されているのと同じ言葉、「ピストス」が使われています。「確かな証人」と訳した場合、キリストとキリストの言葉がどんなに信頼できるかが強調されますが、「忠実な証人」と訳した場合は、キリストが人となり、ご自分の命を投げ出してまで神の救いを成し遂げ、それを証ししてくださったことが伝わってきます。キリストは神に対して忠実であるばかりか、罪ある者に対しても、忠実で、「あなたを救う」と約束された、その約束を果たしてくださったのです。
13節に、「わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった」とあります。ペルガモン教会のアンティパスは「確かな証人」と呼ばれています。これは、黙示録1:5でキリストが「確かな証人」と呼ばれているのと全く同じ言葉で、ここでは「忠実な証人」という意味です。アンティパスは「死に至るまで忠実であれ」との言葉の通り、キリストへの信仰を守り、殉教した「忠実な証人」です。そして、彼が「忠実な証人」になることができたのは、キリストご自身が「忠実な証人」だったからです。キリストにならって「忠実な証人」になったというだけでなく、「忠実な証人」であるキリストによって「忠実な者」にしていただいたのです。
アンティパスだけではありません。ペルガモン教会の他の信徒も、キリストへの信仰を捨てませんでした。13節の「わたしに対する信仰を捨てなかった」は、直訳すると、「わたしの信仰を否定しなかった」となります。「わたしの信仰」は「キリストを信じる信仰」のことなのですが、私たちのキリストへの信仰は、キリストのわたしたちへの真実に基づいていますから、ペルガモンの信徒は、キリストの真実を堅く信じて、保ち続けたということになります。
「信仰を保つ」というのは、「このことは本当なんだ」「私はこれを信じるんだ」と自分で自分に言い聞かせ、「信念」や「確信」を強くすることではありません。私たちの「信仰」はキリストの「真実」に依存しています。自分の不信実を嘆いたり、他の人の不誠実に苦しめられるとき、もういちど、「忠実な証人」イエス・キリストに目を向けましょう。キリストの私たちへの「真実」に頼りましょう。
三、忠実への報い
私たちの「キリストに対する忠実」と、キリストの「私たちへの忠実」について考えてみましたが、最後に、「忠実な者への報い」について考えてみましょう。信仰者にとって忠実であることは、当然のことなのですが、キリストは、その当然のことを、あたかも特別なことであるかのように、誉め、報いてくださいます。
ペルガモンの教会はキリストに忠実な教会でした。13節の「サタンの王座」とは、皇帝崇拝のために建てられた神殿のことと考えられています。ペルガモンの信徒は、そうした外部からの圧迫にみごとに耐えました。しかし、内部からの誘惑には弱いところがありました。「ニコライ派」から離れようとしない者たちがいました。「ニコライ派」は、偶像に捧げたものを食べる儀式や、そこでの不品行にクリスチャンが参加するのを是認していました。それでも自分たちはクリスチャンだと言い、教会の中に入り込んでいましたが、本物のクリスチャンではありませんでした。こうした教えは自分たちを「新しい、より優れた教え」だと言いますが、実は、昔からある間違った教えの蒸し返しにすぎません。これはモーセの時代に、モアブの王バラクが占い師のバラムを雇ってイスラエルを呪おうとしたのですが、主の力が働いてできなかったため、イスラエルの人々を偶像と不品行に誘ったのと同じことでした(民数記25:1-3)。
その時、神の裁きが降り、二万四千人が剣に倒れました(民数記25:11)。モーセの時代には実際の剣が人々を裁きましたが、今の時代には、キリストはご自分の口から出る「両刃の剣」、つまり、神の言葉によって人々を裁きます。黙示録1:16にはキリストの姿がこう描かれています。「また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」ペルガモンの教会へのメッセージは「鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる」(2:12)という言葉で始まり、「だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う」(2:16)との警告が続いています。
私たちは、初代の教会と同じような迫害の中にはありません。しかし、迫害が少ない分だけ、誘惑が大きいと思います。どこにでも誘惑が待ち構えています。少し気を緩めると、道徳的に転落したり、依存症に陥ったり、犯罪にまきこまれます。
私たちは、明らかに間違ったものに従うことはなくても、徐々に真実なキリストから離れていくことがあります。聖書が語ろうとしていることをよく考え、祈り、真剣に受けとめようとせず、神の言葉の前に立って自分を吟味することがなければ、神の言葉への忠実さを失くします。そこから、キリストへの忠実さが無くなり、人に対しても不誠実になっていきます。どんなに言葉が巧みで、立派なことを語ったとしても、自分の言ったことに責任を持たなくなります。そして、そのようなことを繰り返していると、それが習慣となり、習慣がその人の人格となります。「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」(ルカ16:10)小さなことと思えることでも、忠実でないことがあったらなら、悔い改めましょう。悔い改めは恵みです。その恵みを求めましょう。小さなことしかできなくてもよいのです。私たちは、自分に与えられたものに対して忠実であれば、それによって、キリストを証しすることができるからです。
そして、キリストは、そのような人に報いてくださいます。黙示録17:14にこうあります。「彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」スポーツでは勝ち負けに一喜一憂します。学生は成績を気にし、企業は収益を追求します。この世では、「勝った」「負けた」と大騒ぎしますが、私たちは最後の勝利を知っています。キリストがあらゆる悪に勝利される時、その勝利に与るのは誰でしょう。それは、「召されて選ばれた忠実な者たち」です。「勝利を得る者」とは「忠実な人」です。「忠実な人」が最後の勝利を得るのです。この約束を信じ、主の報いを目指して進みましょう。
(祈り)
真実な神さま。「忠実であれ」と励ましてくださり、感謝します。やがて主にまみえる時、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」との声を聞くことができる者としてください。私たちのまことの主人、イエスの御名で祈ります。
6/30/2019