2:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
2:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
2:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
迫害を受けてパトモス島に流刑となっていた使徒ヨハネに、キリストは、アジアの七つの教会へのメッセージを託しました。その七つの教会というのは、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの街にある教会のことで、パトモス島から見ると、これらの街は時計回りに円を描くようにして並んでいます。当時、使徒たちが書いたものは、教会から教会へと回覧されましたので、エペソからラオデキヤという順序は、おそらく、「ヨハネの黙示録」が回覧された順序ではないかと思われます。毎年、年末の礼拝では、この七つの教会へのメッセージから話してきましたが、この順序ではなかったので、七つのメッセージのうち、三番目のペルガモ教会と四番目のテアテラ教会へのメッセージが残ってしまいました。今朝は、ペルガモの教会へのメッセージをとりあげますが、ペルガモ教会へのメッセージは、他の教会へのメッセージと同じように、教会に対する賞賛のことば、叱責のことば、そして約束のことばから成り立っていますので、その順序で学ぶことにしましょう。
一、ペルガモ教会への賞賛
最初に賞賛のことばを見ましょう。ペルガモは紀元前133年まで、この地域を治める王がいて、この七つの街の中では、比較的新しくローマ帝国の領土になった街です。そこで、ローマ皇帝アウグストは、皇帝の威信を示すため、紀元前29年、この町に皇帝崇拝の神殿を建てました。また、ここにはギリシャの主神ゼウスの王座もありました。そして、クリスチャンに対抗するために、ゼウスを「救い主ゼウス」と呼ばせていました。13節に「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」とあるのは、皇帝崇拝の神殿やゼウスの王座のことを指していると思われます。
当時、クリスチャンは、ギリシャやローマの神々を拝まず、皇帝崇拝をしなかったため、「無神論者」と呼ばれ、迫害を受けました。ペルガモのクリスチャンも同じように、迫害の中にあり、アンテパスが殉教しましたが、「イエス・キリスト」の御名を堅く保ちました。13節の後半に「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」とある通りです。
ここでアンテパスは「忠実な証人」と呼ばれていますが、このことばはキリストご自身の呼び名でもあるのです。黙示録1:5に「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。」と書かれています。黙示録3:14では「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」とあります。キリストが「証人」と呼ばれるのは父なる神をあかしするお方として世に来られたからです。そして、キリストは、キリストを信じる者たちに、キリストの「証人」になるように命じられました。キリストはヨハネ15:26-27で「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」と言われました。キリストが遣わしてくださる聖霊は「あかしの御霊」と呼ばれます。聖霊はキリストをあかしするお方であり、クリスチャンは、この聖霊によってキリストをあかしすることができるようになるのです。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、…地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)とのことば通り、アンテパスとペルガモのクリスチャンは「わたしの証人となれ」とのキリストの命令に従いました。
13節は「わたしは、…知っている。」ということばから始まっています。キリストは私たちがどんな状況の中にいるか知っておられるのです。そして、困難な中でもキリストに従い、キリストのために労した人のことを、キリストは見ていてくださる、知っていてくださっているのです。キリストはペルガモのクリスチャンの忠実さや熱心を認めてくださいました。熱心は人の目に触れやすいものですが、「忠実さ」は、人目に触れることは少ないものです。しかし、キリストは、私たちの「忠実さ」を、ちゃんと見ていてくださり、それを喜んでくださいます。私たちも「忠実なしもべよ、良くやった。」と、主から言っていただけるよう、キリストの「忠実な証人」であることができるよう、心から祈ろうではありませんか。
二、ペルガモ教会への叱責
次は叱責のことばです。私たちが、人の目には触れなくても、良いことに励んでいる時、キリストの「わたしは、…知っている。」ということばを聞くのはうれしいことです。たとえ人から誤解されるようなことがあっても、キリストが「わたしは、…知っている。」と言ってくださるなら、それはどんなにか私たちの慰めとなることでしょうか。しかし、もし私たちが、悔い改めていない罪、告白していない罪を持ったままでいるなら、キリストから「わたしは、…知っている。」と言われるのは、大変なこと、恐いことです。
ペルガモの教会は「ニコライ派」を奉じている人々をそのままにしていることについて叱責されています。14節と15節に「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」とあります。ここで「バラムの教え」と呼ばれている「ニコライ派」というのは、ニコライという人が始めた教えで、アジア地域にかなり広がっていました。今でも、いくつかの宗教に残っていますが、当時、どの宗教でも偶像に備えたものを食べ、神殿娼婦や神殿男娼と呼ばれる人たちとまじわることが宗教儀式の大切な部分でした。ニコライ派はクリスチャンに「郷に入りては郷に従え」ということを教え、「それぞれの国にはそれぞれの宗教があり、習慣がある。クリスチャンはそうしたものを斥ける必要はなく、それを取り込んでいけば良いのだ。」と言って、クリスチャンが偶像の儀式や不品行にかかわることを正当化するどころか、それを奨励していたのです。
確かに、使徒たちは、異邦人のクリスチャンに、ユダヤ人と同じ律法を守るようにとは教えませんでした。それが偶像礼拝にならないかぎり、それぞれの国の文化や習わしに従って良いと教えました。しかし、使徒たちは異邦人のクリスチャンにも「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行」とを避けるように教えています(使徒15:29)。これは、使徒たちや長老たちがエルサレムに集まり、何日もかけて話し合い、聖霊の導きによって与えられたものですから、重みのあることばです。使徒パウロはユダヤの律法の重荷を異邦人に負わせようとした人々と断固戦い、「キリスト者の自由」を説いた人です。けれども、そのパウロも、異邦人クリスチャンに「神を知らない異邦人のように情欲におぼれ」(テサロニケ第一4:5)てはならないと厳しく命じています。異邦人クリスチャンといえども、キリストにあって「神の民」とされているのだから、異邦人のように生きるべきではない。どの民族、どの国の国民であっても、どんな文化背景を持っていても、どの時代になっても、クリスチャンには、譲れない一線というものがあると教えているのです。ニコライ派が言うように、偶像の儀式や不品行に平気で関わることは許されてはいないのです。
ペルガモのクリスチャンのほとんどは殉教をも辞さない忠実で、熱心な人々でした。ニコライ派の人々は少数にすぎなかったでしょう。しかし、ペルガモのクリスチャンは、ニコライ派の人々が教会の中に入り込んでくるのを許してしまっていました。寛容であることは素晴らしいことです。しかし、誤った教えさえも受け入れてしまうのは寛容ではなく妥協です。本当の愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます。」(コリント第一13:6)使徒パウロは「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」(ピリピ1:9-10)と祈っています。キリストは、ペルガモのニコライ派の人々を叱責しているのではありません。それを許しているクリスチャンを叱責しているのです。「自分は偶像にかかわっていない。不品行もしていない。」といって安心しているクリスチャンを責めているのです。教会が教えを曲げ、聖なるものを尊ばず、霊的な成長を妨げるものに対して、間違った寛容を持ち、無頓着でいる罪が責められているのです。
そしてキリストは続く16節で「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」と言われます。黙示録1:16に「また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており」とあるように、「わたしの口の剣」は「両刃の剣」です。そして、この「両刃の剣」というのは、キリストが語られる神のことばのことです。ヘブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。「たましいと霊の分かれ目」「関接と骨髄の分かれ目」というのは、分けることが難しい部分を代表している表現です。しかし、神のことばはそれらも判別します。まして、使徒の教えとニコライ派の教えとの区別は簡単にできるのです。「たましいと霊」という目に見えない霊的なものも「関節と骨髄」という目に見える具体的なものにも神のことばは働くということも言い表しています。この神のことばは、すでにキリストから教会に与えられています。教会で、神のことばが神のことばとして語られ、聞かれるなら、じつに「神のことばは生きていて、力がある」のですから、教会の霊的な部分にも、また目に見える実際的な部分にもかならず結果をもたらします。もし、そうでないとしたら、それは神のことばが語られていないか、語られていてもそれが信仰をもって聞かれていないからです。キリストはペルガモの教会に、神のことばがさらに力強く、また、明確に語られるよう求められました。もし、教会がそれをしないなら、キリストご自身が来てさらに厳しい対処をすると、ここで言っておられるのです。
先月の牧師朝祷会で R. C. Sproul 先生はルターのことばを引用して「福音を大胆に、明確に語るなら、かならず闘いが起こる」と話しました。「私は人間的には争いを好まないから、それを避けたい。しかし、福音の説教者は、福音に忠実であろうとすれば、それを避けることができない」と語りました。私たちが本気でキリストに従い、キリストをあかしするなら、きっとどこかで、キリストの福音と衝突する物の考え方や習わし、文化などとの闘いが起こってくることでしょう。そうした闘いを避けているなら、教会はこの世の団体としては人数が増えることはあっても、キリストの教会としては成長しません。教団の多くの教会は一世、二世の時代よりも、人数の上では大きくなりました。なのに理事や執事として奉仕する人が少なく、必要な執事が満たされていない教会がいくつかあります。サンデースクールの教師も、一年間のコミットメントができないで、数ヶ月交代でやっているという教会もあります。奉仕をする人が減ったため、今までボランティアによってしていたことをスタッフを雇ってするようになりました。教会で聖書を学ぶことが少なくなり、人々の聖書知識は以前よりも低下しています。私たちが教会とは何かを理解せず、教会の本当の成長をないがしろにしているなら、ペルガモの教会と同じような叱責が私たちにも臨むでしょう。私たちも、このメッセージを自分たちのこととして聞き、主が私たちに望んでおおられ、勧められておられるように、心からの悔い改めへと導かれていきたいと思います。
三、ペルガモ教会への約束
最後にペルガモ教会への約束のことばを見ましょう。キリストのメッセージが叱責のことばでなく、約束のことばで終わっているのは、大きな慰めです。その約束のことばは17節にあります。「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」「マナ」というのは、エジプトから脱出したイスラエルを約束の地に入るまで養った天からのパンです。教会は、罪と死という「エジプト」の奴隷から救われ、「カナン」という天国を目指す人々の群れです。聖書は、イスラエルの人々も雲と海でバプテスマを受け、御霊の食べ物を食べ、御霊の飲み物を飲んだと言っています。これはイスラエルが葦の海を通って救われたことを「バプテスマ」に、日ごとにマナを食べ、岩からの水を飲んだことを「聖餐」になぞらえています(コリント第一10:2-4)。バプテスマを受けて神の民となったクリスチャンを天国にいたるまで養う「マナ」は聖餐です。神のことばも信仰の糧です。キリストの口から出る神のことばは、私たちの隠れた思いをもあばく「両刃の剣」であるともに、私たちのたましいを養う天からの糧でもあるのです。勝利を得る者は、みことばと聖餐という霊的な糧で豊かに養われ、天国に至るという約束がここにあります。
「白い石」というのは神から与えられる「義」のことです。古代の裁判では、裁判員がそれぞれ黒い石と白い石とを手渡され、有罪のときは黒い石を、無罪のときは白い石を投じました。ですから、「白い石」というのは「無罪宣言」を表わします。罪を悔い改め、赦しを求めて生きるクリスチャンには「無罪宣言」が手渡され、この「無罪宣言」が天国の扉を開くのです。私たちは、この「無罪宣言」がキリストによって勝ち取られたものであることを知っています。キリストの身代わりの死によって、キリストが私たちの罪を引き受け、私たちはキリストの義を頂くのです。私たちは本来持っていなかった義、キリストによって与えられる義を、悔い改めと信仰によって受け取るのです。この白い石には、「それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている」のですが、その名とは何でしょうか。それは、救われ、赦され、きよめられたクリスチャンに与えられる新しい名前のことです。「勝利を得る者」は、全く新しい存在となって神の前に立つことができるのです。
ペルガモでは、神を知らない人々は偶像に備えられたものを食べれば、それによって救いが得られると信じて、偶像の宮に詣でていました。しかし、キリストは「隠れたマナ」、永遠のいのちにいたる霊の糧を信じる者に約束されました。ペルガモの街の裁判官はアンテパスを罪に定めて殺しました。しかし、世界を裁くお方、キリストは、アンテパスと、アンテパスのように最後までキリストに従う者に「白い石」、「無罪宣言」を与えてくださるのです。この約束は「勝利を得る者」に与えられるのですが、では、どうしたら私たちは「勝利を得る者」になり、この約束を、自分のものとすることができるのでしょうか。
第一に、キリストに聞くことによってです。キリストは「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言われました。耳は誰にもついているものなのに、ここでわざわざ「耳のある者」と言われているのは、神のことばを従順な心で聞く人のことを指しています。キリストの賞賛のことばを聞いていよいよへりくだり、キリストの叱責のことばを聞いて、真剣に悔い改める人のことです。キリストの叱責のことば、勧告のことばを聞かないで、約束のことばだけを聞くことはできません。
第二に、悔い改めることによってです。罪の赦しは天国の鍵ですが、その罪の赦しを自分のものにするのは悔い改め以外ありません。「勝利を得る者」とは悔い改める人のことなのです。
アメリカにいる私たちは、キリスト教の環境の中で、じつに、恵まれた信仰生活を送っています。アメリカではクリスチャンであるからといって嫌がられたり、けむたがられたりすることはあまりありません。迫害や殉教を意識する必要などなく、迫害に耐えたクリスチャンや殉教者の物語などが、教会で語られることも、クリスチャンの間で読まれることも、ほとんどなくなりました。何の妨げもなく礼拝ができる自由があり、伝道できる機会があるのに、私たちは、その恵みに甘えてしまって、礼拝をないがしろにし、与えられた伝道の機会を逃しています。人集めはしてもキリストをはっきりと語らないのです。隠れて礼拝を守らなければならない国、他の人に伝道したなら逮捕されてしまう地域が世界にはまだいくつもあるのです。守ろうとすれば守ることができる礼拝を、自分の理由で守っていないとしたら、そうした国々の人に対してほんとうに恥ずかしいことだと思います。私たちがキリストをあかしすることに怠っているなら、命がけで伝道している人々から、「あなたたちは自由な国にいるのに、なぜキリストの十字架を語らないのか、悔い改めを説かないのか。」と叱られてもやむをえないと思います。あまりにも大きな重荷は人を疲れ果てさせますが、何の闘いもない生活は人の精神を無力にします。そのため、自分の罪にさえ気づかず、悔い改めのない日々を過ごしてしまうのです。
一年の終わりに、もう一度、両刃の剣であるキリストのことばに自分を委ねましょう。人を傷つけるような鋭い刃物であっても、それを外科医が使えば、患部を取り除き、人を生かすために用いられるのです。キリストのことばは生きていることばであり、また、生かすことばです。キリストのことばによって、悔い改めに導かれ、新しい年を希望をもって歩み出しましょう。
(祈り)
父なる神さま、今年も一年五十二回の礼拝をお守りくださり、ありがとうございました。そのつど、あなたは私たちひとりびとりに、また、教会全体に必要なことばを与えてくださいました。キリストのことばが鋭い両刃の剣でありながら、同時に、私たちを生かすいのちの糧であることを、私たちは体験しました。どうぞ、キリストのことばによって探られ、正され、慰めと希望を見出すことができるよう私たちを助けてください。新しい年がキリストのことばを心に豊かに宿す一年でありますように。主イエスによって祈ります。
12/27/2009