初めの愛

黙示録2:1-7

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2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

 今日の礼拝でもアドベントキャンドルを飾りました。12月26日から1月6日までは「クリスマスの12日」と言って、まだクリスマスのお祝いが続いているからです。1月6日は、東の博士たちがささげものを携えておさなごのイエスを礼拝した日とされています。伝説によれば、東の博士たちにはそれぞれ名前がついていて、バルタザールはバビロンから来て黄金をささげ、メルキオールはダマスコから来て乳香をささげ、そしてキャスパーはペルシャから来て没薬をささげたとされています。東方の博士たちは、世界の諸民族、諸国民を代表しています。キリストは、彼らの礼拝をお受けになることによって、ご自分の栄光を全世界にお示しになったのです。それでこの日は「エピファニー」と呼ばれます。「エピファニー」というのはギリシャ語で、「あの人は自己顕示欲が強い。」などという時に使う「顕示」(顕わし示す)という意味があります。1月6日のエピファニーにはツリーを片付け、ライトアップを取り外します。目に見えるライトアップは取り外されますが、この日から、私たちは、まことの光であるイエス・キリストの栄光を見つめ、それを人々に知らせていくのです。「クリスマスの12日」もあと6日残っています。ヨハネ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」とあるように、イエスの栄光ををさらに知り、栄光のキリストを人々に知らせる者になりたいと思います。

 一、栄光の主

 さて、今日は、黙示録から学ぶのですが、黙示録は、イエス・キリストを「栄光の主」として描いています。黙示録1:13〜16にはイエスの栄光のお姿が、次のように表現されています。

それらの燭台の真中には、
足までたれた衣を着て、
胸に金の帯を締めた、
人の子のような方が見えた。
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、
その目は、燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、
その声は大水の音のようであった。
また、右手に七つの星を持ち、
口からは鋭い両刃の剣が出ており、
顔は強く照り輝く太陽のようであった。
これらはすべて、象徴の言葉です。イエスの栄光は、人間の言葉を越えたものであって、象徴の言葉を使ってでなければ、表現できないからです。しかし、黙示録で使われている象徴の言葉はすべて聖書から取られており、その意味を特定するのはそんなに難しくはありません。また、黙示録自体がその意味を教えている言葉も多くあります。たとえば「燭台」が「教会」を表わし、「星」が「教会の御使い」、つまり、教会の指導者を表わすということなどです(黙示録1:20)。

 黙示録の2章と3章には、イエスが使徒ヨハネにお与えた七つの教会へのメッセージが記されています。メッセージの内容はそれぞれに違っていますが、形式はどれも同じです。最初にキリストの栄光のお姿が示され、次に教会に対する褒め言葉が続きます。それから、教会に対するお叱りの言葉があって、「勝利を得る者」に対する約束のことばが語られ、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」ということばで締めくくられています。この七つのメッセージは、もちろん、キリストご自身からそれぞれの教会に対する直接のメッセージですが、同時に、初代教会の礼拝で語られていた説教を反映していると思います。初代教会では、礼拝で語られる説教は、単なる聖書の講義でも、人生の訓話でもありませんでした。それは、説教者を通して取り次がれるキリストご自身からのメッセージでした。そして、説教の第一の目的は聞く人にキリストの栄光を示すことでした。教会の礼拝は、何よりもキリストの栄光が示され、それがあがめられるところだったのです。

 エペソ教会へのメッセージでは、キリストは「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(1節)として描かれています。「右手」というのは「力」や「権威」を、また、神がその力や権威によって頼る者を守り、支えてくださる「保護」を表わします。「星」は教会の指導者ですから、キリストが七つの星をその右手に持っておられるのは、キリストご自身が教会の指導者たちを保護しておられることを意味します。教会は、キリストの栄光を人々に表わすので、「燭台」と呼ばれています。その燭台が「金の」燭台と言われているのは、教会が、キリストの血によってあがなわれた、かけがえのないもの、神の目に尊ばれているものであることを表わしています。キリストが「燭台の間を歩」かれるというのは、キリストが絶えず教会と共におられることを意味しています。

 初代教会の指導者たちは、外からの迫害と教会内部の分派の両方から絶えず攻撃を受けていました。教会を滅ぼそうとする勢力は、当時「監督」と呼ばれた使徒たちの後継者に攻撃を加えました。指導者を倒してしまえば、教会も倒れると考えたのです。しかし、教会は、礼拝のたびごとに、栄光のキリストを見上げ、ひたすらにキリストに頼りました。キリストは教会を支え、その指導者を守ってくださいました。多くの監督が殉教を遂げましたが、教会はついに分派を退け、迫害を克服したのです。

 内に外に大きな問題をかかえ、嵐にもまれてきた教会がついに勝利を得たのは、何によってでしょうか。それは、栄光の主を指し示すメッセージによってであり、そのメッセージによって栄光の主を仰ぎ見る礼拝によってでした。私たちの礼拝もかくありたいと思います。教会のメッセージが、栄光の主を指し示すものになるように、それによって私たちみんなが栄光の主に目を向け、主をあがめるものとなるように、私たちの礼拝がキリストの栄光をもっともっと輝かせるものになるようにと祈ろうではありませんか。その時、教会は、キリストの栄光をこの世に指し示す「金の燭台」となることができるのです。

 二、愛の主

 黙示録に描かれているイエス・キリストの第二の姿は「愛の主」です。キリストは王の王、主の主であって、あらゆるものに、「かくあるべし」と命じることのできるお方です。たとえ、私たちが主のことばに従ったからといって、それは私たちの功績にはなりません。「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ17:10)と、主が教えられた通りです。主のために何かができたとしても、「それは私がやりました。」と言って大きな顔ができるものではありません。主が助けてくださらなければ私たちは何一つ成し遂げることができなかったし、主の恵みなしには何もできないからです。そうであるのに、主は、教会を愛して、私たちのしたことを褒めてくださるのです。

 主は、エペソ教会に対して「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」と言って、「行いと労苦と忍耐」を褒めておられます。テサロニケ第一1:3に「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」とあるように、信仰と行い、愛と労苦、希望と忍耐は結びついています。行いは信仰から生まれ、労苦は愛のあかしであり、忍耐は希望の実です。エペソの町は、当時のアジアの首都でした。おそらく、エペソ教会はその地方で一番大きく、力のある教会だったでしょう。しかし、キリストは教会の大きさや強さではなく、その信仰と、希望と、愛とを見て、それを褒めてくださいました。コリント第一13:13に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」とあります。エペソ教会が「いつまでも残るもの」について主から褒められているというのは、なんとも名誉なことでした。エペソ教会は他の教会のお手本のような教会でした。

 しかし、こんなに立派な教会でも、主からお叱りを受けています。「あなたには非難すべきことがある。」と主は言われます。エペソ教会の、いったいどこが悪かったのでしょうか。「あなたは初めの愛から離れてしまった。」と主は言われます。エペソ教会は愛のない冷たい教会だったのでしょうか。そうではありません。先ほど見たように、エペソ教会の「愛の労苦」は、主もそれを認めておられるほどでした。ラオデキア教会のように「熱くもなく冷たくもない」教会から見れば、熱く燃える教会でした。けれども、主がエペソ教会に求められた愛は、「他の教会からくらべてよりまし」であればそれでよいというものではありませんでした。主は、教会に、より深く主を愛するようになることを、その愛が成長していくことを求めれたのです。エペソ教会は、人の目から見れば、何の問題もなかったかもしれません。しかし、主の目から見るなら、その愛は「初めの愛」から比べてずいぶん後退してしまっていたのです。数年前まで持っていたあの純粋な愛が、何かの原因で曇ってしまったのです。エペソ教会はなお主を愛する教会でしたが、以前のようではなくなってしまったのです。主がエペソ教会に叱責を与えたのはそのためでした。

 私たちはどうでしょうか。自分を他と比べて、あの人よりも劣っているからと悲観したり、あの人より優れているからと高慢になったりしやすいのですが、主は、私たちが互いに他と比べあって自分を評価することを望まれません。人はそれぞれに違った才能や賜物を持っており、また、その成長や発達の速度も違うのです。互いに比べあうことが間違っており、また、無意味なことです。それよりも、去年の自分と、今年の自分とを比べて、自分自身が神への愛において、この一年でどれほど成長できたかを検討すべきです。たとえ未熟であっても、成長が遅くても、最初に主を信じた時よりも、信仰や愛がいくらかでも成長していれば、主はそれを褒めてくださいます。たとえ、自分では、大丈夫と思っていても、最初に主を信じた時よりも、信仰や愛が後退していたなら、主はそれを責められます。主は、初心者には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ペテロ第一2:2)と励ましてくださいますが、長年の信仰者が少しも成長せず、後退しているようなことがあれば、「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」(ヘブル5:12)と言って責められるのです。

 しかし、主が教会に叱責をお与えになるのも、また主の愛から出ていることを知りましょう。聖書に「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。」(ヘブル1:26)とあります。主が、教会を叱責されるのは、教会を愛しておられるからです。主は、神に逆らう人々をそのなすがままに任せておきますが、主を愛する者、また、主が愛する者には、その人を正しい道に導くために懲らしめを与えます。懲らしめは主の愛のしるしです。

 主は言われます。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」他の人との比較や、周りの評判、自己満足などで自分を見るのではなく、主が私をご覧くださるその目で、自らを見つめましょう。そして悔い改めて、「初めの愛」に立ち返りましょう。

 主は「悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」と言われました。「あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」とは、ずいぶん厳しいことばです。これは、教会がその姿を消してしまうことを意味します。しかし、もし教会に主への愛がなくなれば、教会の形は残っていても、教会はキリストの栄光を輝かすことができなくなり、教会はもはやキリストの燭台でなくなってしまうのです。ひとりびとりのクリスチャンも主への愛を失えば、名前だけのクリスチャンになってしまい、主の栄光を表わすどころか、それを妨げるものになってしまうかもしれません。しかし、たとえあなたの霊的な状態が冷え切ったものであったとしても、あなたの心が暗く、生活がコントロールの効かないものになっていたとしても、それで終わるのではありません。「くすぶる燈心を消すことのない」主(イザヤ42:3)は、悔い改めによってあなたの中にある聖霊のともし火を再びかきたててくださるのです。主は「愛の主」です。この主の前で熱心に悔い改め、新しい年を迎えましょう。

 三、勝利の主

 第三に主は「勝利の主」です。初代教会には迫害の嵐が荒れ狂っていました。教会の内部にも、「にせ使徒」や「ニコライ派」と呼ばれる間違った教えが入り込んでいました。エペソ教会は、「にせ使徒」から身を守り、「ニコライ派」と戦いました。そして、今、「初めの愛」から離れてしまった、自らの罪と戦っています。教父たちや改革者たちは地上の教会は「戦う教会」であると言いましたが、確かにその通りです。教会にはいつの時代にも「戦い」がありました。教会は迫害を乗り越え、伝道が進み、組織や礼拝の形式も整えられ、学問的にも深められていきました。するとそこに権力主義や主知主義、形式主義がはびこり、それと戦わなくてはなりませんでした。教会が社会に大きな影響を与えていた時代が終わり、教会は無神論と、反キリスト教的な思想に直面しました。現代は、物質主義や相対主義、また世俗主義との戦いがあるように思います。教会は、これからどんなものと戦っていくのか、具体的なことは明らかではありませんが、聖書の預言によれば、それは、真理を守る戦いになるでしょう。天国を目指し、永遠を指し示さなければならない教会が、時代の流れに流され、世と妥協し、福音をもっともらしい人間の教えに置き換えるようになるでしょう。その中で真理を堅く保とうとする教会が攻撃の対象となり、さまざまな戦いを経験するようになるでしょう。今までどおり慣れ親しんできたように生活を続けたいと願っている人には、聖書の真理が示されることは、迷惑なことであり、無意識のうちに真理に抵抗してしまうことがあります。しかし、そうした思いと戦って真理に服従してこそ、私たちは、本物の神の民となり、勝利を得る者となることができるのです。テモテ第二2:11-13にこう書かれています。

もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。
この「彼」とは、もちろん、イエス・キリストです。私たちの勝利は「主にあって」です。勝利は主から来るのです。

 七つの教会に宛てたメッセージは「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」ということばで閉じられています。「耳のある者は…聞きなさい。」とはドキッとさせられることばです。神のことばを音声としては聞こえていても、本当には聞いていないということがあるからです。それを人間のことばとして聞くだけで「御霊の声」としては聞いていないことがあるからです。しかし、もし私たちがほんとうの意味でキリストのことばに、御霊の声に聞くなら、聖書が読まれ、解き明かされるたびに、聖霊が、今から二千年、三千年前に書かれた神のことばを、それを聞くひとりびとりに確かな約束のことばとして与えてくださいます。ですから、私たちは紀元一世紀のエペソ教会に与えられた約束を自分に与えられた約束として握り締めることができるのです。新しい年が巡ってくるたびに、主の再臨が近いことを感じ、緊張を覚えます。主の再臨の前に苦難の日がやってくることを思うと、不安にもなります。しかし、主は、勝利の主です。主は「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と約束しておられます。主の勝利を確信して、新しい年に向かって進んで行こうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、この一年を閉じるにあたり、私たちはどれだけあなたへの愛において成長したでしょうか。自己中心から離れ、より深くあなたを愛するようになったでしょうか。御霊が、みことばによって心を探ってくださっている今、私たちに、深い悔い改めを与え、「初めの愛」に立ち返らせてください。あなたへの愛を無くし、形ばかりの教会、名前だけのクリスチャンになることがないよう、私たちをあわれんでください。私たちのたましいのうちにあなたへの愛を、聖霊によってかきたててください。そして、私たちを、あなたの栄光を輝かせる燭台としてください。栄光の主、愛の主、勝利の主である、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/31/2006